こころ

101話 下 先生と遺書 四十七

1,510字 約3分 2026年9月1日 公開

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「私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのはいうまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟(しげき)するのですから、私はなお(つら)かったのです。どこか男らしい気性を(そな)えた奥さんは、いつ私の事を食卓でKに(すっ)ぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの挙止動作(きょしどうさ)も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。

 私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。無論私のいない時にです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目(めんぼく)のないのに変りはありません。といって、(こしら)え事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問(きつもん)されるに(きま)っています。もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前に(さら)け出さなければなりません。真面目(まじめ)な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一()(りん)でも、私には堪え切れない不幸のように見えました。

 要するに私は正直な(みち)を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾(こうかつ)な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境(きゅうきょう)(おちい)ったのです。私はあくまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に(はさ)まってまた()(すく)みました。

 五、六日()った(のち)、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、奥さんが私を(なじ)るのです。私はこの問いの前に固くなりました。その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。

「道理で(わたし)が話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。平生(へいぜい)あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」

 私はKがその時何かいいはしなかったかと奥さんに聞きました。奥さんは別段何にもいわないと答えました。しかし私は進んでもっと(こま)かい事を尋ねずにはいられませんでした。奥さんは(もと)より何も隠す訳がありません。大した話もないがといいながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。

 奥さんのいうところを綜合(そうごう)して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口(ひとくち)いっただけだったそうです。しかし奥さんが、「あなたも喜んで下さい」と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を()らしながら、「おめでとうございます」といったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子(しょうじ)を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」と聞いたそうです。それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」といったそうです。奥さんの前に(すわ)っていた私は、その話を聞いて胸が(ふさが)るような苦しさを覚えました。

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