こころ

33話 上 先生と私 三十三

1,425字 約3分 2026年9月1日 公開

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 (めし)になった時、奥さんは(そば)(すわ)っている下女(げじょ)を次へ立たせて、自分で給仕(きゅうじ)の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来(しきた)りらしかった。始めの一、二回は(わたくし)も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗(ちゃわん)を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。

「お茶? ご(はん)? ずいぶんよく食べるのね」

 奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯(からか)われるほど食欲が進まなかった。

「もうおしまい。あなた近頃(ちかごろ)大変小食(しょうしょく)になったのね」

「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」

 奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子(みずがし)を運ばせた。

「これは(うち)(こしら)えたのよ」

 用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞(ふるま)うだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯()えてもらった。

「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際(しきいぎわ)で背中を障子(しょうじ)()たせていた。

 私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的(あて)もなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお役人(やくにん)?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。

「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれが()いか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと(わか)らないんだから、選択に困る訳だと思います」

「それもそうね。けれどもあなたは必竟(ひっきょう)財産があるからそんな呑気(のんき)な事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」

 私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。しかしこういった。

「少し先生にかぶれたんでしょう」

(ろく)なかぶれ方をして下さらないのね」

 先生は苦笑した。

「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」

 私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅(つつじ)の咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰り(みち)に、先生が昂奮(こうふん)した語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ(すご)い言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。

「奥さん、お(たく)の財産はよッぽどあるんですか」

「何だってそんな事をお聞きになるの」

「先生に聞いても教えて下さらないから」

 奥さんは笑いながら先生の顔を見た。

「教えて上げるほどないからでしょう」

「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、(うち)へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」

 先生は庭の方を向いて、澄まして烟草(タバコ)を吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。

「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも()いとして、あなたはこれから何か()さらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」

「ごろごろばかりしていやしないさ」

 先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。

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