こころ

82話 下 先生と遺書 二十八

1,520字 約3分 2026年9月1日 公開

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「Kはあまり旅へ出ない男でした。(わたくし)にも房州(ぼうしゅう)は始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田(ほた)とかいいました。今ではどんなに変っているか知りませんが、その(ころ)はひどい漁村でした。第一(だいち)どこもかしこも(なまぐさ)いのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを()()くのです。(こぶし)のような大きな石が打ち寄せる波に()まれて、始終ごろごろしているのです。

 私はすぐ(いや)になりました。しかしKは()いとも悪いともいいません。少なくとも顔付(かおつき)だけは平気なものでした。そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに怪我(けが)をしない事はなかったのです。私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦(とみうら)に行きました。富浦からまた那古(なこ)に移りました。すべてこの沿岸はその時分から(おも)に学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃(てごろ)の海水浴場だったのです。Kと私はよく海岸の岩の上に(すわ)って、遠い海の色や、近い水の底を(なが)めました。岩の上から見下(みおろ)す水は、また特別に綺麗(きれい)なものでした。赤い色だの(あい)の色だの、普通市場(しじょう)(のぼ)らないような色をした小魚(こうお)が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。

 私はそこに坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私にはそれが考えに(ふけ)っているのか、景色に見惚(みと)れているのか、もしくは好きな想像を(えが)いているのか、全く(わか)らなかったのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何もしていないと一口(ひとくち)答えるだけでした。私は自分の(そば)にこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。それだけならまだいいのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を(いだ)いて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然(こつぜん)疑い出すのです。すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。私は不意に立ち(あが)ります。そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴(どな)ります。(まと)まった詩だの歌だのを面白そうに(ぎん)ずるような手緩(てぬる)い事はできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸(えりくび)を後ろからぐいと(つか)みました。こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど()い、やってくれと答えました。私はすぐ首筋を(おさ)えた手を放しました。

 Kの神経衰弱はこの時もう大分(だいぶ)よくなっていたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になって来ていたのです。私は自分より落ち付いているKを見て、(うらや)ましがりました。また憎らしがりました。彼はどうしても私に取り合う気色(けしき)を見せなかったからです。私にはそれが一種の自信のごとく映りました。しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を(あき)らめたがりました。彼は学問なり事業なりについて、これから自分の進んで行くべき前途の光明(こうみょう)を再び取り返した心持になったのだろうか。単にそれだけならば、Kと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。私はかえって世話のし甲斐(がい)があったのを(うれ)しく思うくらいなものです。けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許す事ができなくなるのです。不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振(そぶり)に全く気が付いていないように見えました。無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。Kは元来そういう点にかけると(にぶ)い人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ(うち)へ連れて来たのです。

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