こころ

98話 下 先生と遺書 四十四

1,486字 約3分 2026年9月1日 公開

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「Kの果断に富んだ性格は(わたくし)によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔(ゆうじゅう)な訳も私にはちゃんと()み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり(つら)まえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭のなかで何遍(なんべん)咀嚼(そしゃく)しているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら(うご)き始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべての疑惑、煩悶(はんもん)懊悩(おうのう)、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに(たた)み込んでいるのではなかろうかと(うたぐ)り始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を(なが)め返してみた私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう一返(いっぺん)彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻(みまわ)したらば、まだよかったかも知れません。悲しい事に私は片眼(めっかち)でした。私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図(いちず)に思い込んでしまったのです。

 私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない()に、事を運ばなくてはならないと覚悟を()めました。私は黙って機会を(ねら)っていました。しかし二日()っても三日経っても、私はそれを(つら)まえる事ができません。私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといった(ふう)の日ばかり続いて、どうしても「今だ」と思う好都合が出て来てくれないのです。私はいらいらしました。

 一週間の(のち)私はとうとう堪え切れなくなって仮病(けびょう)(つか)いました。奥さんからもお嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事(なまへんじ)をしただけで、十時(ごろ)まで蒲団(ふとん)(かぶ)って寝ていました。私はKもお嬢さんもいなくなって、家の(なか)がひっそり静まった頃を見計(みはか)らって寝床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。食物(たべもの)枕元(まくらもと)へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。身体(からだ)に異状のない私は、とても寝る気にはなれません。顔を洗っていつもの通り茶の間で(めし)を食いました。その時奥さんは長火鉢(ながひばち)向側(むこうがわ)から給仕をしてくれたのです。私は朝飯(あさめし)とも午飯(ひるめし)とも片付かない茶椀(ちゃわん)を手に持ったまま、どんな風に問題を切り出したものだろうかと、そればかりに屈托(くったく)していたから、外観からは実際気分の()くない病人らしく見えただろうと思います。

 私は飯を(しま)って烟草(タバコ)を吹かし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢の(そば)を離れる訳にゆきません。下女(げじょ)を呼んで(ぜん)を下げさせた上、鉄瓶(てつびん)に水を()したり、火鉢の(ふち)()いたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。私は実は少し話したい事があるのだといいました。奥さんは何ですかといって、私の顔を見ました。奥さんの調子はまるで私の気分にはいり込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。

 私は仕方なしに言葉の上で、()い加減にうろつき(まわ)った末、Kが近頃(ちかごろ)何かいいはしなかったかと奥さんに聞いてみました。奥さんは思いも寄らないという風をして、「何を?」とまた反問して来ました。そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」とかえって向うで聞くのです。

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