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夜間返却口

霧原 しずく 全5話 4,942字 2026年9月2日

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1. 第一話 返却口

 市立図書館の夜間返却口は、正面玄関の右手、植込みの陰にある。

 金属の蓋を押し上げて本を落とすと、内側の受箱(うけばこ)に積み重なる。翌朝、いちばん早く来た者がそれを取り出して、カウンターの奥の台に並べる。この二か月、その役目はずっと私だった。

 朝の七時半。鍵を開け、灯りを点け、返却口の受箱を引き出す。

 その日は八冊あった。七冊までは、いつも通りだった。貸出の記録が端末に出て、返却の処理をして、書架に戻す列に積む。

 八冊目で、端末が短く鳴った。

 ――この本は貸し出されていません。

 画面にそう出た。

 手元にあるのは、緑色の布張りの本だった。背の文字は擦れていて、傾けないと読めない。『灯台守(とうだいもり)の手帳』。聞いたことのない題だった。

 貸出中でない本が返却口に入っているとき、たいていは説明がつく。誰かが自分の本を間違えて落とした。別の図書館の本が混ざった。そういうことは月に一度くらいある。

 私は本を裏返して、蔵書印を探した。

 あった。奥付の隅に、丸い印が薄く残っている。

 この図書館の印だった。

 背表紙にラベルがない。分類番号の白いシールが、剥がされた跡だけになっている。

 端末に書名を入れてみた。該当なし。著者名でも出ない。

 この本は、この図書館の本で、この図書館の目録には無い。

 私はしばらくその本を持ったまま立っていた。カウンターの上の時計が、七時四十二分を指していた。

 開館は九時半。まだ二時間近くある。

 結局その日は、返却台の下の引き出しに入れておいた。誰かが取りに来るかもしれない。落とし物として扱うには、蔵書印が引っかかった。

 昼になっても、夕方になっても、誰も来なかった。

 翌朝、受箱に六冊。五冊は普通で、一冊は端末が鳴った。

 薄い、灰色の背の本だった。『川の名前をぜんぶ』。やはり目録に無い。やはり蔵書印だけがある。ラベルの跡も同じように白い。

 三日目、また一冊。

 四日目にも一冊。

 五日目の朝、私は引き出しを開けて、五冊を並べてみた。判型も年代もばらばらで、共通点は蔵書印とラベルの跡だけだった。

 それから、もうひとつあった。

 どの本にも、紙が一枚ずつ挟まっていた。

 レシートの裏、便箋の切れ端、包装紙の白い側。ばらばらの紙に、同じ癖のある字で、短い文が書いてある。

 『灯台守の手帳』には、こうあった。

 ――ここまで読んだら、外を見てください。

 私は顔を上げた。ガラスの向こうは、まだ薄い青で、街灯がひとつずつ消えていくところだった。

2. 第二話 除籍印

 図書館の本には、一生の終わりがある。

 傷んで直せなくなったもの、内容が古びて使われなくなったもの、同じ本が何冊もあって場所を取るもの。そういう本は目録から外され、蔵書印の上に別の印が押される。

 ――除籍。

 その印が押された本は、もうこの建物のものではない。希望者に譲るか、廃棄に回す。名簿から名前を消すのに似た手続きで、実際、職員のあいだでもあまり明るい話題にはならない。

 六日目の朝、私は虫眼鏡を持ってきた。

 五冊の蔵書印を順に見た。印肉の色は褪せて、輪郭がぼやけている。その丸い印の、少し右下がりに重なって、四角い枠が薄く残っていた。

 枠の中の二文字は、ほとんど消えかけていたが、読めた。

 除籍。

 五冊すべてに、同じ印があった。

 つまりこれは、この図書館が捨てた本だった。捨てたはずの本が、夜のあいだに、少しずつ戻ってきている。

 私は司書室の奥にある古い書類棚を開けた。

 除籍の記録は、二〇〇〇年より前のものは紙で残っている。年ごとに綴じられた台帳が、埃をかぶって並んでいた。

 『灯台守の手帳』を探すのに、二時間かかった。

 見つかったのは、一九九三年度の綴りだった。除籍の理由の欄に、事務的な文字でこう書いてある。

 ――北町分館(きたまちぶんかん)閉館に伴う整理。

 北町分館。

 名前は聞いたことがあった。市の北の端、川沿いにあった小さな分館で、私が生まれる少し前に閉じている。建物はとうに無い。いまは駐車場になっていると、先輩が言っていた気がする。

 同じ綴りを繰って、他の四冊も探した。全部あった。全部、同じ理由だった。

 一九九三年三月三十一日付。北町分館の蔵書、二千三百十四冊。そのすべてが、その日いちどに除籍されている。

 台帳の最後の頁に、担当者の欄がある。

 角ばった、少し右上がりの字で、名前が書いてあった。

 ――浅野(あさの)。

 私はその字を見て、引き出しの紙片を思い出した。

 鞄から出して、並べてみた。レシートの裏。便箋の切れ端。包装紙の白い側。

 どれも、台帳と同じ、角ばって少し右上がりの字だった。

 三十年前に本を捨てた人が、その本を三十年かけて返しに来ている。

 そう考えるのがいちばん筋が通っていて、いちばん、ありえなかった。

3. 第三話 紙片

 紙片は、増えていった。

 七日目、『船を待つ十二の方法』。挟まっていたのは薬局のレシートの裏で、こう書いてあった。

 ――三章の途中で眠くなったら、そこで閉じていいです。

 八日目、『冬のあいだの木』。便箋の切れ端。

 ――この本は、二回目のほうが面白いです。急がないでください。

 九日目、『測量士の娘』。包装紙。

 ――誰かに貸すなら、返ってこない覚悟で貸してください。

 どれも、本の内容には触れていない。あらすじも、感想も、評価もない。

 ただ、読む人に向かって書いてある。

 私はそれを、カウンターの下でこっそり読んだ。読むたびに、耳の後ろのあたりが少し熱くなった。

 誰かが自分に向けて書いた文を読んでいるような気がして、そのくせ、宛名はどこにもなかった。

 十日目の朝、私は受箱の前で少し待ってみた。

 七時十五分に来た。まだ暗かった。返却口の金属の蓋は冷たくて、指の跡が白く残った。

 三十分立っていたが、誰も来なかった。受箱には既に一冊入っていた。

 夜に入れているのだ。当たり前だった。夜間返却口なのだから。

 その日の昼、司書室で先輩の佐倉(さくら)さんに聞いてみた。

 北町分館のこと、覚えていますか、と。

 佐倉さんは湯呑みを持ったまま、少し天井を見た。

 「わたしが入る前だねえ。ああ、でも、浅野さんなら知ってる」

 「浅野さん」

 「うん。わたしが新人のとき、まだ嘱託でいらしたの。北町の閉館のあと、こっちの書庫の整理を手伝ってた。もうずいぶんお年で、二年くらいで辞められたけど」

 佐倉さんは湯呑みを置いた。

 「変わった人でね。除籍の本を、全部持って帰ろうとしたのよ」

 私はうまく相槌が打てなかった。

 佐倉さんは笑って、続けた。

 「二千冊よ。もちろん全部は無理。でも、何百冊かは車で運んでらした。市の規則では譲渡の手続きを踏めばいいんだけど、あの量を個人で引き取る人なんて、後にも先にもいなかったから」

 「どうして、そんな」

 「訊いたのよ、わたしも。そしたらね」

 佐倉さんは、そのときの浅野さんの言い方を真似るように、少し声を低くした。

 「――まだ、読まれ終わっていないので。って」

4. 第四話 分館

 休みの日に、北町へ行った。

 川沿いの道をしばらく歩くと、佐倉さんの言った通り、駐車場があった。白い線が引かれて、軽自動車が三台停まっている。

 その隅に、コンクリートの低い台が残っていた。膝の高さくらいの、四角い塊。近づくと、上面に金具の跡が四つあった。何かを固定していた穴だ。

 案内板が立っていたのだろうと思った。

 あるいは、返却口だったのかもしれない。

 駐車場の向かいに、古い米屋があった。硝子戸を開けると、奥から白髪の女性が出てきた。

 昔ここに図書館がありましたよね、と訊くと、女性は「ああ、あったあった」と言って、私を店先の椅子に座らせた。

 「小さいのがね。二部屋くらいの。うちの子もよく行ってた」

 「浅野さんという方をご存じですか」

 「浅野先生」

 女性は迷いなくそう呼んだ。

 「先生じゃないのよ、司書さん。でもみんな先生って呼んでた。閉まるってなったときね、ずいぶん怒ってたのよ、あの人」

 「怒って」

 「うん。市に、じゃないの。本に、でもないの」

 女性は少し考えて、言い直した。

 「怒るっていうか……悔しがってた、が近いかしらね。まだ誰にも借りられてない本が、何百冊もあるって。図書館に置いてある本は、借りられるためにあるんだって」

 私は、除籍台帳の二千三百十四という数字を思い出した。

 あの中の何百冊かは、一度も貸し出されないまま、名前を消されたことになる。

 「それで、持って帰ったんですか」

 「そうそう。軽トラで、何往復も。うちの前を通るから覚えてる。奥さんに叱られてたわよ、家が沈むって」

 女性は笑った。それから、笑いを少しずつ引っ込めた。

 「去年ね、亡くなったの。浅野先生」

 風が川のほうから来て、硝子戸を鳴らした。

 「お葬式にはずいぶん人が来たって。教え子じゃなくて、本を借りた人たちがね。うちの子も行った。あの人、貸してくれるのよ、家の本を。近所の子に。読み終わったら返しに来なさいって」

 「……返しに」

 「そう。ちゃんと、返却の紙まで作ってね。子どもは喜ぶのよ、そういうの」

 私は礼を言って、店を出た。

 駐車場のコンクリートの台のところまで戻って、しばらく立っていた。

 金具の跡に、雨水が少し溜まっていた。

5. 第五話 灯を消す人

 その人が来たのは、十七日目の夕方だった。

 閉館三十分前、カウンターに三十代くらいの男性が立った。紙袋を二つ提げていて、片方から本の角がのぞいていた。

 「あの、返却……でいいのか分からないんですけど」

 彼はそう言って、紙袋をカウンターに置いた。

 中身は、あの緑や灰色の背と同じ手ざわりの本だった。二十冊近くあった。

 「父の家を、片づけていて」

 彼は言った。「浅野といいます」

 私は、うまく言葉が出なかった。

 彼は勘違いしたらしく、慌てて付け足した。

 「すみません、これ、たぶん昔ここの本で。勝手に返してて。夜だと誰にも訊かなくて済むから、つい。迷惑ですよね」

 「いえ」

 私は首を振った。「いえ、あの、ちゃんと届いています。全部」

 彼は少し笑って、それから、目のふちを指で押さえた。

 浅野さんは、家の本を近所の子どもに貸していた。返却の紙を作って、一冊ずつ記録をつけていた。

 息子さんは、その記録を見つけたのだという。三十年ぶんの、手書きの貸出帳。

 最後の頁には、まだ誰にも貸していない本の一覧が残っていた。

 「父は、これを配りきれなかったんだと思います」

 彼は紙袋の縁を指でなぞった。

 「だから、いちばん人が来るところに戻そうと思って。夜にすみません。昼間だと、なんというか、説明ができなくて」

 「紙が挟まっているのは」私は訊いた。「あれは、お父さまが」

 「ああ、あれ」

 彼はうなずいた。「貸すときに、一枚入れるんです。読む人へ、って。うちの本を借りた子は、みんなもらってました。僕ももらってた」

 彼が帰ったあと、私は司書室で、集めた紙片を机に並べた。

 十七枚あった。角ばって、少し右上がりの字。

 ――ここまで読んだら、外を見てください。

 ――三章の途中で眠くなったら、そこで閉じていいです。

 ――この本は、二回目のほうが面白いです。急がないでください。

 ――誰かに貸すなら、返ってこない覚悟で貸してください。

 どれも、本の話をしていない。

 読む人の話をしている。

 除籍された本を、目録に戻すことはできない。規則がそうなっている。

 だから私は、別のことをした。

 翌週から、返却されたばかりの本を書架に戻すとき、一枚ずつ紙を挟むようにした。

 レシートの裏でも、便箋の切れ端でもいい。短く、本の内容には触れずに書く。

 ――この本、後半で急に速くなります。飲み物を用意してから読んでください。

 最初の一枚を挟んだ本は、三日後に貸し出された。

 二週間して返ってきたとき、紙は無くなっていた。

 代わりに、知らない字で、一枚入っていた。

 ――用意しました。ありがとう。

 閉館の作業は、いつも同じ順番でする。

 書架の灯りを奥から順に落として、閲覧席、それからカウンター。最後に玄関の灯を消して、外に出る。

 鍵をかけて振り返ると、返却口の金属の蓋が、街灯を薄く受けて光っていた。

 今夜も、たぶん何冊か入る。

 私はそれを、明日の朝いちばんに取り出す。

夜間返却口 — 霧原 しずく — https://noveliz.cc/n/01bma2m33t

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