夜間返却口
1. 第一話 返却口
市立図書館の夜間返却口は、正面玄関の右手、植込みの陰にある。
金属の蓋を押し上げて本を落とすと、内側の受箱に積み重なる。翌朝、いちばん早く来た者がそれを取り出して、カウンターの奥の台に並べる。この二か月、その役目はずっと私だった。
朝の七時半。鍵を開け、灯りを点け、返却口の受箱を引き出す。
その日は八冊あった。七冊までは、いつも通りだった。貸出の記録が端末に出て、返却の処理をして、書架に戻す列に積む。
八冊目で、端末が短く鳴った。
――この本は貸し出されていません。
画面にそう出た。
手元にあるのは、緑色の布張りの本だった。背の文字は擦れていて、傾けないと読めない。『灯台守の手帳』。聞いたことのない題だった。
貸出中でない本が返却口に入っているとき、たいていは説明がつく。誰かが自分の本を間違えて落とした。別の図書館の本が混ざった。そういうことは月に一度くらいある。
私は本を裏返して、蔵書印を探した。
あった。奥付の隅に、丸い印が薄く残っている。
この図書館の印だった。
背表紙にラベルがない。分類番号の白いシールが、剥がされた跡だけになっている。
端末に書名を入れてみた。該当なし。著者名でも出ない。
この本は、この図書館の本で、この図書館の目録には無い。
私はしばらくその本を持ったまま立っていた。カウンターの上の時計が、七時四十二分を指していた。
開館は九時半。まだ二時間近くある。
結局その日は、返却台の下の引き出しに入れておいた。誰かが取りに来るかもしれない。落とし物として扱うには、蔵書印が引っかかった。
昼になっても、夕方になっても、誰も来なかった。
翌朝、受箱に六冊。五冊は普通で、一冊は端末が鳴った。
薄い、灰色の背の本だった。『川の名前をぜんぶ』。やはり目録に無い。やはり蔵書印だけがある。ラベルの跡も同じように白い。
三日目、また一冊。
四日目にも一冊。
五日目の朝、私は引き出しを開けて、五冊を並べてみた。判型も年代もばらばらで、共通点は蔵書印とラベルの跡だけだった。
それから、もうひとつあった。
どの本にも、紙が一枚ずつ挟まっていた。
レシートの裏、便箋の切れ端、包装紙の白い側。ばらばらの紙に、同じ癖のある字で、短い文が書いてある。
『灯台守の手帳』には、こうあった。
――ここまで読んだら、外を見てください。
私は顔を上げた。ガラスの向こうは、まだ薄い青で、街灯がひとつずつ消えていくところだった。
2. 第二話 除籍印
図書館の本には、一生の終わりがある。
傷んで直せなくなったもの、内容が古びて使われなくなったもの、同じ本が何冊もあって場所を取るもの。そういう本は目録から外され、蔵書印の上に別の印が押される。
――除籍。
その印が押された本は、もうこの建物のものではない。希望者に譲るか、廃棄に回す。名簿から名前を消すのに似た手続きで、実際、職員のあいだでもあまり明るい話題にはならない。
六日目の朝、私は虫眼鏡を持ってきた。
五冊の蔵書印を順に見た。印肉の色は褪せて、輪郭がぼやけている。その丸い印の、少し右下がりに重なって、四角い枠が薄く残っていた。
枠の中の二文字は、ほとんど消えかけていたが、読めた。
除籍。
五冊すべてに、同じ印があった。
つまりこれは、この図書館が捨てた本だった。捨てたはずの本が、夜のあいだに、少しずつ戻ってきている。
私は司書室の奥にある古い書類棚を開けた。
除籍の記録は、二〇〇〇年より前のものは紙で残っている。年ごとに綴じられた台帳が、埃をかぶって並んでいた。
『灯台守の手帳』を探すのに、二時間かかった。
見つかったのは、一九九三年度の綴りだった。除籍の理由の欄に、事務的な文字でこう書いてある。
――北町分館閉館に伴う整理。
北町分館。
名前は聞いたことがあった。市の北の端、川沿いにあった小さな分館で、私が生まれる少し前に閉じている。建物はとうに無い。いまは駐車場になっていると、先輩が言っていた気がする。
同じ綴りを繰って、他の四冊も探した。全部あった。全部、同じ理由だった。
一九九三年三月三十一日付。北町分館の蔵書、二千三百十四冊。そのすべてが、その日いちどに除籍されている。
台帳の最後の頁に、担当者の欄がある。
角ばった、少し右上がりの字で、名前が書いてあった。
――浅野。
私はその字を見て、引き出しの紙片を思い出した。
鞄から出して、並べてみた。レシートの裏。便箋の切れ端。包装紙の白い側。
どれも、台帳と同じ、角ばって少し右上がりの字だった。
三十年前に本を捨てた人が、その本を三十年かけて返しに来ている。
そう考えるのがいちばん筋が通っていて、いちばん、ありえなかった。
3. 第三話 紙片
紙片は、増えていった。
七日目、『船を待つ十二の方法』。挟まっていたのは薬局のレシートの裏で、こう書いてあった。
――三章の途中で眠くなったら、そこで閉じていいです。
八日目、『冬のあいだの木』。便箋の切れ端。
――この本は、二回目のほうが面白いです。急がないでください。
九日目、『測量士の娘』。包装紙。
――誰かに貸すなら、返ってこない覚悟で貸してください。
どれも、本の内容には触れていない。あらすじも、感想も、評価もない。
ただ、読む人に向かって書いてある。
私はそれを、カウンターの下でこっそり読んだ。読むたびに、耳の後ろのあたりが少し熱くなった。
誰かが自分に向けて書いた文を読んでいるような気がして、そのくせ、宛名はどこにもなかった。
十日目の朝、私は受箱の前で少し待ってみた。
七時十五分に来た。まだ暗かった。返却口の金属の蓋は冷たくて、指の跡が白く残った。
三十分立っていたが、誰も来なかった。受箱には既に一冊入っていた。
夜に入れているのだ。当たり前だった。夜間返却口なのだから。
その日の昼、司書室で先輩の佐倉さんに聞いてみた。
北町分館のこと、覚えていますか、と。
佐倉さんは湯呑みを持ったまま、少し天井を見た。
「わたしが入る前だねえ。ああ、でも、浅野さんなら知ってる」
「浅野さん」
「うん。わたしが新人のとき、まだ嘱託でいらしたの。北町の閉館のあと、こっちの書庫の整理を手伝ってた。もうずいぶんお年で、二年くらいで辞められたけど」
佐倉さんは湯呑みを置いた。
「変わった人でね。除籍の本を、全部持って帰ろうとしたのよ」
私はうまく相槌が打てなかった。
佐倉さんは笑って、続けた。
「二千冊よ。もちろん全部は無理。でも、何百冊かは車で運んでらした。市の規則では譲渡の手続きを踏めばいいんだけど、あの量を個人で引き取る人なんて、後にも先にもいなかったから」
「どうして、そんな」
「訊いたのよ、わたしも。そしたらね」
佐倉さんは、そのときの浅野さんの言い方を真似るように、少し声を低くした。
「――まだ、読まれ終わっていないので。って」
4. 第四話 分館
休みの日に、北町へ行った。
川沿いの道をしばらく歩くと、佐倉さんの言った通り、駐車場があった。白い線が引かれて、軽自動車が三台停まっている。
その隅に、コンクリートの低い台が残っていた。膝の高さくらいの、四角い塊。近づくと、上面に金具の跡が四つあった。何かを固定していた穴だ。
案内板が立っていたのだろうと思った。
あるいは、返却口だったのかもしれない。
駐車場の向かいに、古い米屋があった。硝子戸を開けると、奥から白髪の女性が出てきた。
昔ここに図書館がありましたよね、と訊くと、女性は「ああ、あったあった」と言って、私を店先の椅子に座らせた。
「小さいのがね。二部屋くらいの。うちの子もよく行ってた」
「浅野さんという方をご存じですか」
「浅野先生」
女性は迷いなくそう呼んだ。
「先生じゃないのよ、司書さん。でもみんな先生って呼んでた。閉まるってなったときね、ずいぶん怒ってたのよ、あの人」
「怒って」
「うん。市に、じゃないの。本に、でもないの」
女性は少し考えて、言い直した。
「怒るっていうか……悔しがってた、が近いかしらね。まだ誰にも借りられてない本が、何百冊もあるって。図書館に置いてある本は、借りられるためにあるんだって」
私は、除籍台帳の二千三百十四という数字を思い出した。
あの中の何百冊かは、一度も貸し出されないまま、名前を消されたことになる。
「それで、持って帰ったんですか」
「そうそう。軽トラで、何往復も。うちの前を通るから覚えてる。奥さんに叱られてたわよ、家が沈むって」
女性は笑った。それから、笑いを少しずつ引っ込めた。
「去年ね、亡くなったの。浅野先生」
風が川のほうから来て、硝子戸を鳴らした。
「お葬式にはずいぶん人が来たって。教え子じゃなくて、本を借りた人たちがね。うちの子も行った。あの人、貸してくれるのよ、家の本を。近所の子に。読み終わったら返しに来なさいって」
「……返しに」
「そう。ちゃんと、返却の紙まで作ってね。子どもは喜ぶのよ、そういうの」
私は礼を言って、店を出た。
駐車場のコンクリートの台のところまで戻って、しばらく立っていた。
金具の跡に、雨水が少し溜まっていた。
5. 第五話 灯を消す人
その人が来たのは、十七日目の夕方だった。
閉館三十分前、カウンターに三十代くらいの男性が立った。紙袋を二つ提げていて、片方から本の角がのぞいていた。
「あの、返却……でいいのか分からないんですけど」
彼はそう言って、紙袋をカウンターに置いた。
中身は、あの緑や灰色の背と同じ手ざわりの本だった。二十冊近くあった。
「父の家を、片づけていて」
彼は言った。「浅野といいます」
私は、うまく言葉が出なかった。
彼は勘違いしたらしく、慌てて付け足した。
「すみません、これ、たぶん昔ここの本で。勝手に返してて。夜だと誰にも訊かなくて済むから、つい。迷惑ですよね」
「いえ」
私は首を振った。「いえ、あの、ちゃんと届いています。全部」
彼は少し笑って、それから、目のふちを指で押さえた。
浅野さんは、家の本を近所の子どもに貸していた。返却の紙を作って、一冊ずつ記録をつけていた。
息子さんは、その記録を見つけたのだという。三十年ぶんの、手書きの貸出帳。
最後の頁には、まだ誰にも貸していない本の一覧が残っていた。
「父は、これを配りきれなかったんだと思います」
彼は紙袋の縁を指でなぞった。
「だから、いちばん人が来るところに戻そうと思って。夜にすみません。昼間だと、なんというか、説明ができなくて」
「紙が挟まっているのは」私は訊いた。「あれは、お父さまが」
「ああ、あれ」
彼はうなずいた。「貸すときに、一枚入れるんです。読む人へ、って。うちの本を借りた子は、みんなもらってました。僕ももらってた」
彼が帰ったあと、私は司書室で、集めた紙片を机に並べた。
十七枚あった。角ばって、少し右上がりの字。
――ここまで読んだら、外を見てください。
――三章の途中で眠くなったら、そこで閉じていいです。
――この本は、二回目のほうが面白いです。急がないでください。
――誰かに貸すなら、返ってこない覚悟で貸してください。
どれも、本の話をしていない。
読む人の話をしている。
除籍された本を、目録に戻すことはできない。規則がそうなっている。
だから私は、別のことをした。
翌週から、返却されたばかりの本を書架に戻すとき、一枚ずつ紙を挟むようにした。
レシートの裏でも、便箋の切れ端でもいい。短く、本の内容には触れずに書く。
――この本、後半で急に速くなります。飲み物を用意してから読んでください。
最初の一枚を挟んだ本は、三日後に貸し出された。
二週間して返ってきたとき、紙は無くなっていた。
代わりに、知らない字で、一枚入っていた。
――用意しました。ありがとう。
閉館の作業は、いつも同じ順番でする。
書架の灯りを奥から順に落として、閲覧席、それからカウンター。最後に玄関の灯を消して、外に出る。
鍵をかけて振り返ると、返却口の金属の蓋が、街灯を薄く受けて光っていた。
今夜も、たぶん何冊か入る。
私はそれを、明日の朝いちばんに取り出す。