77話 第三、英国地方紀行の部 第七七、日本の仏教とインドの仏教
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ある英国の学士語りて曰く、日本の仏教はまことの仏教にあらず。そのシナに伝わるものすでに純然ならず、流れて日本に入るに当たりてまた濁水と混じ、腐敗の宗教となる。もし、これを今日インドに伝わるものと比するときは、その清濁の別、判然知ることを得るなり。政教子曰く、その清きもの果たしてインド今日の仏教にして、その濁れるもの果たして日本今日の仏教なるか。両邦に伝わるもの互いに相異なるもなんぞ知らん、日本の宗教かえって純然にして、インドの宗教かえって腐敗せるを。かつ余がみるところによるに、学術、宗教、そのほか百般のこと、みな世の進歩とともに発達するは自然の勢いにして、中世のヤソ教と近世のヤソ教と大いに異なるところあるは、中世のヤソ教純良にして、近世のヤソ教腐敗せるにあらず、ただ世の進歩とともに発達したるのみ。今、日本の仏教とインドの仏教と異なるも、またこの理にほかならず。インドの仏教はインドの文明とともに発達し、日本の仏教は日本の文明とともに発達し、両国の文明その性質を異にするをもって、その今日の仏教互いに相異なるところあるも自然の理なり。また、インド古代の仏教と日本今日の仏教の異なるも同一理なり。その教まずシナに入りて、その国の文明とともに発達し、日本に入りてまた日本の文明とともに発達して、今日の仏教とインドの仏教と同一ならざるの結果を生ずるに至れり。例えば、草木はその初発のときとその成長の後とは、同一の形状を有するにあらざるも同一の草木なり。もし人、その成長せるもののその初発のときに異なるを見て、これ別種の草木なりといわば、だれかその愚を笑わざるものあらんや。
今、日本の仏教はその古代インドに行われしもの、およびその今日インドに存するものと異なるところあるは、その種類はじめより異なるにあらず、ただ発達に前後・東西の別あるによるのみ。しかして、その果たして同種の仏教なるゆえんは、仏教の原理とするところのもの(すなわち因果の理等)、古今東西寸分の差異なきを見て知るべし。かつ、仏教の古来発達せる次序を考うるに、ただ一理脈のその前後に貫通するのみならず、一より二を生じ、二より三を生ずるがごとき論理発達の規則によらざるはなし。あたかも草木のはじめに芽を生じ、幹を生じ、枝を生じ、葉を生ずる次序に異ならず。これによりてこれをみるに、その今日に発達せるところの原形は、すでにそのいまだ発達せざる種子中に含有すること明らかなり。ゆえに、余は日本の仏教もインドの仏教も同一種なりというなり。