奇怪な再会

2話 奇怪な再会(2)

7,612字 約15分 1998年12月19日 公開

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 寄席(よせ)へ行った翌朝(よくあさ)だった。お(れん)房楊枝(ふさようじ)(くわ)えながら、顔を洗いに縁側(えんがわ)へ行った。縁側にはもういつもの通り、銅の耳盥(みみだらい)に湯を汲んだのが、鉢前(はちまえ)の前に置いてあった。

 冬枯(ふゆがれ)の庭は寂しかった。庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。が、その景色が眼にはいると、お蓮は(うが)いを使いがら、今までは全然忘れていた昨夜(ゆうべ)の夢を思い出した。

 それは彼女がたった一人、暗い(やぶ)だか林だかの中を歩き廻っている夢だった。彼女は細い路を辿(たど)りながら、「とうとう私の念力(ねんりき)が届いた。東京はもう見渡す限り、人気(ひとけ)のない森に変っている。きっと今に(きん)さんにも、遇う事が出来るのに違いない。」――そんな事を思い続けていた。するとしばらく歩いている内に、大砲の音や小銃の音が、どことも知らず聞え出した。と同時に木々の空が、まるで火事でも映すように、だんだん赤濁りを帯び始めた。「戦争だ。戦争だ。」――彼女はそう思いながら、一生懸命に走ろうとした。が、いくら気負(きお)って見ても、何故(なぜ)か一向走れなかった。…………

 お蓮は顔を洗ってしまうと、手水(ちょうず)を使うために(はだ)を脱いだ。その時何か冷たい物が、べたりと彼女の背中に()れた。

「しっ!」

 彼女は格別驚きもせず、(なまめ)いた眼を(うしろ)へ投げた。そこには小犬が尾を振りながら、(しきり)に黒い鼻を()め廻していた。

        九

 牧野(まきの)はその()二三日すると、いつもより早めに妾宅へ、田宮(たみや)と云う男と遊びに来た。ある有名な御用商人の店へ、番頭格に(かよ)っている田宮は、お(れん)が牧野に(かこ)われるのについても、いろいろ世話をしてくれた人物だった。

「妙なもんじゃないか? こうやって丸髷(まるまげ)()っていると、どうしても昔のお蓮さんとは見えない。」

 田宮は(あかる)いランプの光に、薄痘痕(うすいも)のある顔を火照(ほて)らせながら、向い合った牧野へ(さかずき)をさした。

「ねえ、牧野さん。これが島田(しまだ)()っていたとか、赤熊(しゃぐま)に結っていたとか云うんなら、こうも違っちゃ見えまいがね、何しろ以前が以前だから、――」

「おい、おい、ここの婆さんは眼は少し悪いようだが、耳は遠くもないんだからね。」

 牧野はそう注意はしても、嬉しそうににやにや笑っていた。

「大丈夫。聞えた所がわかるもんか。――ねえ、お蓮さん。あの時分の事を考えると、まるで夢のようじゃありませんか。」

 お蓮は眼を()らせたまま、(ひざ)の上の小犬にからかっていた。

「私も牧野さんに頼まれたから、一度は引き受けて見たようなものの、万一ばれた日にゃ大事(おおごと)だと、無事に神戸(こうべ)へ上がるまでにゃ、随分これでも気を()みましたぜ。」

「へん、そう云う危い橋なら、渡りつけているだろうに、――」

「冗談云っちゃいけない。人間の密輸入はまだ一度ぎりだ。」

 田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋面(じゅうめん)をつくって見せた。

「だがお蓮の今日(こんにち)あるを得たのは、実際君のおかげだよ。」

 牧野は太い腕を伸ばして、田宮へ猪口(ちょく)をさしつけた。

「そう云われると恐れ入るが、とにかくあの時は弱ったよ。おまけにまた乗った船が、ちょうど玄海(げんかい)へかかったとなると、恐ろしいしけ(くら)ってね。――ねえ、お蓮さん。」

「ええ、私はもう船も何も、沈んでしまうかと思いましたよ。」

 お蓮は田宮の(しゃく)をしながら、やっと話に調子を合わせた。が、あの船が沈んでいたら、今よりは(かえ)って(まし)かも知れない。――そんな事もふと考えられた。

「それがまあこうしていられるんだから、御互様(おたがいさま)に仕合せでさあ。――だがね、牧野さん。お蓮さんに丸髷が似合うようになると、もう一度また昔のなりに、返らせて見たい気もしやしないか?」

「返らせたかった所が、仕方がないじゃないか?」

「ないがさ、――ないと云えば昔の着物は、一つもこっちへは持って来なかったかい?」

「着物どころか櫛簪(くしかんざし)までも、ちゃんと御持参になっている。いくら僕が止せと云っても、一向(いっこう)御取上げにならなかったんだから、――」

 牧野はちらりと長火鉢越しに、お蓮の顔へ眼を送った。お蓮はその言葉も聞えないように、鉄瓶のぬるんだのを気にしていた。

「そいつはなおさら好都合だ。――どうです? お蓮さん。その内に一つなりを変えて、御酌を願おうじゃありませんか?」

「そうして君も(ついで)ながら、昔馴染(むかしなじみ)を一人思い出すか。」

「さあ、その昔馴染みと云うやつがね、お蓮さんのように好縹緻(ハオピイチエ)だと、思い出し甲斐(がい)もあると云うものだが、――」

 田宮は薄痘痕(うすいも)のある顔に、(くすぐ)ったそうな笑いを浮べながら、すり(いも)(はし)(から)んでいた。……

 その晩田宮が帰ってから、牧野は何も知らなかったお蓮に、近々陸軍を止め次第、商人になると云う話をした。辞職の許可が出さえすれば、田宮が今使われている、ある名高い御用商人が、すぐに高給で抱えてくれる、――何でもそう云う話だった。

「そうすりゃここにいなくとも()いから、どこか手広い(うち)へ引っ越そうじゃないか?」

 牧野はさも疲れたように、火鉢の前へ寝ころんだまま、田宮が土産(みやげ)に持って来たマニラの葉巻を吹かしていた。

「この(うち)だって沢山ですよ。婆やと私と二人ぎりですもの。」

 お蓮は意地のきたない犬へ、残り物を当てがうのに(いそが)しかった。

「そうなったら、おれも一しょにいるさ。」

「だって御新造(ごしんぞ)がいるじゃありませんか?」

(かかあ)かい? 嚊とも近々別れる筈だよ。」

 牧野の口調(くちょう)や顔色では、この意外な消息(しょうそく)も、満更冗談とは思われなかった。

「あんまり罪な事をするのは御止しなさいよ。」

「かまうものか。(おのれ)に出でて己に返るさ。おれの方ばかり悪いんじゃない。」

 牧野は(けわ)しい眼をしながら、やけに葉巻をすぱすぱやった。お蓮は寂しい顔をしたなり、しばらくは何とも答えなかった。

        十

「あの白犬が病みついたのは、――そうそう、田宮(たみや)旦那(だんな)が御見えになった、ちょうどその()くる日ですよ。」

 お(れん)に使われていた婆さんは、(わたし)の友人のKと云う医者に、こう当時の容子(ようす)を話した。

大方(おおかた)食中(しょくあた)りか何かだったんでしょう。始めは毎日長火鉢の前に、ぼんやり寝ているばかりでしたが、その内に時々どうかすると、畳をよごすようになったんです。御新造(ごしんぞ)は何しろ子供のように、可愛がっていらしった犬ですから、わざわざ牛乳を取ってやったり、宝丹(ほうたん)を口へ(ふく)ませてやったり、随分大事になさいました。それに不思議はないんです。ないんですが、(いや)じゃありませんか? 犬の病気が悪くなると、御新造が犬と話をなさるのも、だんだん珍しくなくなったんです。

「そりゃ話をなさると云っても、つまりは御新造が犬を相手に、長々と独り(ごと)をおっしゃるんですが、夜更(よふ)けにでもその声が聞えて御覧なさい。何だか犬も人間のように、口を()いていそうな気がして、あんまり()い気はしないもんですよ。それでなくっても一度なぞは、あるからっ(かぜ)のひどかった日に、御使いに行って帰って来ると、――その御使いも近所の(うらな)(しゃ)の所へ、犬の病気を見て貰いに行ったんですが、――御使いに行って帰って来ると、障子(しょうじ)のがたがた云う御座敷に、御新造の話し声が聞えるんでしょう。こりゃ旦那様でもいらしったかと思って、障子の隙間から覗いて見ると、やっぱりそこにはたった一人、御新造がいらっしゃるだけなんです。おまけに風に吹かれた雲が、御日様の前を飛ぶからですが、膝へ犬をのせた御新造の姿が、しっきりなしに明るくなったり暗くなったりするじゃありませんか? あんなに気味の悪かった事は、この年になってもまだ二度とは、出っくわした覚えがないくらいですよ。

「ですから犬が死んだ時には、そりゃ御新造には御気の毒でしたが、こちらは内々(ないない)ほっとしたもんです。もっともそれが嬉しかったのは、犬が(そそう)をするたびに、掃除(そうじ)をしなければならなかった私ばかりじゃありません。旦那様もその事を御聞きになると、厄介払(やっかいばら)いをしたと云うように、にやにや笑って御出でになりました。犬ですか? 犬は何でも、御新造はもとより、私もまだ起きない内に、鏡台(きょうだい)の前へ(たお)れたまま、青い物を吐いて死んでいたんです。気がなさそうに長火鉢の前に、寝てばかりいるようになってから、かれこれ半月にもなりましたかしら。……」

 ちょうど薬研堀(やげんぼり)(いち)の立つ日、お蓮は大きな鏡台の前に、息の絶えた犬を見出した。犬は婆さんが話した通り、青い吐物(とぶつ)の流れた中に、冷たい体を横たえていた。これは彼女もとうの昔に、覚悟をきめていた事だった。前の犬には生別(いきわか)れをしたが、今度の犬には死別(しにわか)れをした。所詮(しょせん)犬は飼えないのが、持って生まれた因縁(いんねん)かも知れない。――そんな事がただ彼女の心へ、絶望的な静かさをのしかからせたばかりだった。

 お蓮はそこへ坐ったなり、茫然と犬の屍骸(しがい)を眺めた。それから(ものう)い眼を挙げて、寒い鏡の(おもて)を眺めた。鏡には畳に(たお)れた犬が、彼女と一しょに映っていた。その犬の影をじっと見ると、お蓮は目まいでも起ったように、突然両手に顔を(おお)った。そうしてかすかな叫び声を洩らした。

 鏡の中の犬の屍骸は、いつか黒かるべき鼻の先が、(あか)い色に変っていたのだった。

        十一

 妾宅の新年は寂しかった。門には竹が立てられたり、座敷には蓬莱(ほうらい)が飾られたりしても、お(れん)は独り長火鉢の前に、屈托(くったく)らしい頬杖(ほおづえ)をついては、障子の日影が薄くなるのに、(ものう)い眼ばかり注いでいた。

 暮に犬に死なれて以来、ただでさえ浮かない彼女の心は、ややともすると発作的(ほっさてき)な憂鬱に襲われ易かった。彼女は犬の事ばかりか、(いまだ)にわからない男の在りかや、どうかすると顔さえ知らない、牧野(まきの)の妻の身の上までも、いろいろ思い悩んだりした。と同時にまたその頃から、折々妙な幻覚にも、悩まされるようになり始めた。――

 ある時は(とこ)へはいった彼女が、やっと眠に()こうとすると、突然何かがのったように、夜着の裾がじわりと重くなった。小犬はまだ生きていた時分、彼女の蒲団の上へ来ては、よくごろりと横になった。――ちょうどそれと同じように、柔かな重みがかかったのだった。お蓮はすぐに(まくら)から、そっと(かしら)を浮かせて見た。が、そこには掻巻(かいまき)格子模様(こうしもよう)が、ランプの光に浮んでいるほかは、何物もいるとは思われなかった。………

 またある時は鏡台の前に、お蓮が髪を直していると、鏡へ映った彼女の(うしろ)を、ちらりと白い物が通った。彼女はそれでも気をとめずに、水々しい(びん)()き上げていた。するとその白い物は、前とは反対の方向へ、もう一度咄嗟(とっさ)に通り過ぎた。お蓮は(くし)を持ったまま、とうとう(うしろ)を振り返った。しかし(あかる)い座敷の中には、何も生き物のけはいはなかった。やっぱり眼のせいだったかしら、――そう思いながら、鏡へ向うと、しばらくの(のち)白い物は、三度彼女の(うしろ)を通った。……

 またある時は長火鉢の前に、お蓮が独り坐っていると、遠い外の往来(おうらい)に、彼女の名を呼ぶ声が聞えた。それは門の竹の葉が、ざわめく音に(まじ)りながら、たった一度聞えたのだった。が、その声は東京へ来ても、始終心にかかっていた男の声に違いなかった。お蓮は息をひそめるように、じっと注意深い耳を澄ませた。その時また往来に、今度は前よりも近々(ちかぢか)と、なつかしい男の声が聞えた。と思うといつのまにか、それは風に吹き散らされる犬の声に変っていた。……

 またある時はふと眼がさめると、彼女と一つ(とこ)の中に、いない筈の男が眠っていた。迫った(ひたい)、長い睫毛(まつげ)、――すべてが夜半(やはん)のランプの光に、寸分(すんぶん)も以前と変らなかった。左の眼尻(めじり)黒子(ほくろ)があったが、――そんな事さえ(くら)べて見ても、やはり確かに男だった。お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心を(おど)らせながら、そのまま体も消え入るように、男の(くび)へすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何か(つぶや)いた声は、意外にも牧野に違いなかった。のみならずお蓮はその刹那(せつな)に、実際酒臭い牧野の(くび)へ、しっかり両手をからんでいる彼女自身を見出したのだった。

 しかしそう云う幻覚のほかにも、お蓮の心を(さわが)すような事件は、現実の世界からも起って来た。と云うのは松もとれない内に、噂に聞いていた牧野の妻が、突然訪ねて来た事だった。

        十二

 牧野(まきの)の妻が訪れたのは、生憎(あいにく)例の雇婆(やといばあ)さんが、使いに行っている留守(るす)だった。案内を請う声に驚かされたお(れん)は、やむを得ず気のない体を起して、薄暗い玄関へ出かけて行った。すると北向きの格子戸(こうしど)が、軒さきの御飾りを(すか)せている、――そこにひどく顔色の悪い、眼鏡(めがね)をかけた女が一人、余り新しくない肩掛をしたまま、俯向(うつむ)き勝に(たたず)んでいた。

「どなた様でございますか?」

 お蓮はそう尋ねながら、相手の正体(しょうたい)を直覚していた。そうしてこの()の抜けた丸髷(まるまげ)に、小紋(こもん)の羽織の(そで)を合せた、どこか影の薄い女の顔へ、じっと眼を注いでいた。

(わたくし)は――」

 女はちょいとためらった(のち)、やはり俯向き勝に話し続けた。

(わたくし)は牧野の家内でございます。(たき)と云うものでございます。」

 今度はお蓮が口ごもった。

「さようでございますか。(わたくし)は――」

「いえ、それはもう存じて居ります。牧野が始終御世話になりますそうで、私からも御礼を申し上げます。」

 女の言葉は穏やかだった。皮肉らしい調子なぞは、不思議なほど(こも)っていなかった。それだけまたお蓮は何と云って()いか、挨拶(あいさつ)のしように困るのだった。

「つきましては今日(こんにち)は御年始かたがた、ちと御願いがあって参りましたんですが、――」

「何でございますか、私に出来る事でございましたら――」

 まだ油断をしなかったお蓮は、ほぼその「御願い」もわかりそうな気がした。と同時にそれを切り出された場合、答うべき文句も多そうな気がした。しかし伏目(ふしめ)勝ちな牧野の妻が、(しずか)に述べ始めた言葉を聞くと、彼女の予想は根本から、間違っていた事が明かになった。

「いえ、御願いと申しました所が、大した事でもございませんが、――実は近々(きんきん)に東京中が、森になるそうでございますから、その節はどうか牧野同様、私も御宅へ御置き下さいまし。御願いと云うのはこれだけでございます。」

 相手はゆっくりこんな事を云った。その容子(ようす)はまるで彼女の言葉が、いかに気違いじみているかも、全然気づいていないようだった。お蓮は呆気(あっけ)にとられたなり、しばらくはただ外光に(そむ)いた、この陰気な女の姿を見つめているよりほかはなかった。

「いかがでございましょう? 置いて頂けましょうか?」

 お蓮は舌が(こわ)ばったように、何とも返事が出来なかった。いつか顔を(もた)げた相手は、細々と冷たい眼を()きながら、眼鏡(めがね)越しに彼女を見つめている、――それがなおさらお蓮には、すべてが一場の悪夢(あくむ)のような、気味の悪い心地を起させるのだった。

「私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭に迷うような事がありましては、二人の子供が可哀(かわい)そうでございます。どうか御面倒でもあなたの御宅へ、お置きなすって下さいまし。」

 牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠しながら、突然しくしく泣き始めた。すると何故(なぜ)か黙っていたお蓮も、急に悲しい気がして来た。やっと(きん)さんにも()える時が来たのだ、嬉しい。嬉しい。――彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やはり涙を落している彼女自身を見出(みいだ)したのだった。

 が、何分(なんぷん)か過ぎ去った(のち)、お蓮がふと気がついて見ると、薄暗い北向きの玄関には、いつのまに相手は帰ったのか、誰も人影が見えなかった。

        十三

 七草(ななくさ)()牧野(まきの)が妾宅へやって来ると、お(れん)は早速彼の妻が、訪ねて来たいきさつを話して聞かせた。が、牧野は案外平然と、彼女に耳を借したまま、マニラの葉巻ばかり(くゆ)らせていた。

御新造(ごしんぞ)はどうかしているんですよ。」

 いつか興奮し出したお蓮は、苛立(いらだ)たしい(まゆ)をひそめながら、剛情に(なお)も云い続けた。

「今の内に何とかして上げないと、取り返しのつかない事になりますよ。」

「まあ、なったらなった時の事さ。」

 牧野は葉巻の煙の中から、薄眼(うすめ)に彼女を眺めていた。

(かかあ)の事なんぞを案じるよりゃ、お前こそ体に気をつけるが()い。何だかこの頃はいつ来て見ても、ふさいでばかりいるじゃないか?」

(わたし)はどうなっても()いんですけれど、――」

()くはないよ。」

 お蓮は顔を曇らせたなり、しばらくは口を(つぐ)んでいた。が、突然涙ぐんだ眼を挙げると、

「あなた、後生(ごしょう)ですから、御新造(ごしんぞ)を捨てないで下さい。」と云った。

 牧野は呆気(あっけ)にとられたのか、何とも答を返さなかった。

「後生ですから、ねえ、あなた――」

 お蓮は涙を隠すように、黒繻子(くろじゅす)の襟へ(あご)(うず)めた。

「御新造は世の中にあなた一人が、何よりも大事なんですもの。それを考えて上げなくっちゃ、薄情すぎると云うもんですよ。私の国でも女と云うものは、――」

「好いよ。好いよ。お前の云う事はよくわかったから、そんな心配なんぞはしない方が好いよ。」

 葉巻(はまき)を吸うのも忘れた牧野は、子供を(だま)すようにこう云った。

「一体この(うち)が陰気だからね、――そうそう、この間はまた犬が死んだりしている。だからお前も気がふさぐんだ。その内にどこか()い所があったら、早速(さっそく)引越してしまおうじゃないか? そうして陽気に暮すんだね、――何、もう十日も()ちさえすりゃ、おれは役人をやめてしまうんだから、――」

 お蓮はほとんどその晩中、いくら牧野が慰めても、浮かない顔色(かおいろ)を改めなかった。……

御新造(ごしんぞ)の事では旦那様(だんなさま)も、随分御心配なすったもんですが、――」

 Kにいろいろ()かれた時、婆さんはまた当時の容子(ようす)をこう話したとか云う事だった。

「何しろ今度の御病気は、あの時分にもうきざしていたんですから、やっぱりまあ旦那様始め、御諦(おあきら)めになるほかはありますまい。現に本宅の御新造が、不意に横網(よこあみ)へ御出でなすった時でも、(わたくし)が御使いから帰って見ると、こちらの御新造は御玄関先へ、ぼんやりとただ坐っていらっしゃる、――それを眼鏡越しに(にら)みながら、あちらの御新造はまた(あが)ろうともなさらず、悪丁寧(わるでいねい)嫌味(いやみ)のありったけを並べて御出でなさる始末(しまつ)なんです。

「そりゃ御主人が毒づかれるのは、蔭で聞いている私にも、()い気のするもんじゃありません。けれども私がそこへ出ると、余計事がむずかしいんです。――と云うのは私も四五年(まえ)には、御本宅に使われていたもんですから、あちらの御新造に見つかったが最後、(かえ)って先様(さきさま)の御腹立ちを(あお)る事になるかも知れますまい。そんな事があっては大変ですから、私は御本宅の御新造が、さんざん悪態(あくたい)を御つきになった揚句(あげく)、御帰りになってしまうまでは、とうとう御玄関の(ふすま)の蔭から、顔を出さずにしまいました。

「ところがこちらの御新造は、(わたくし)の顔を御覧になると、『婆や、今し方御新造が御見えなすったよ。(わたくし)なんぞの所へ来ても、嫌味一つ云わないんだから、あれがほんとうの結構人(けっこうじん)だろうね。』と、こうおっしゃるじゃありませんか? そうかと思うと笑いながら、『何でも近々に東京中が、森になるって云っていたっけ。可哀そうにあの人は、気が少し変なんだよ。』と、そんな事さえおっしゃるんですよ。……」

        十四

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