2話 奇怪な再会(2)
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寄席へ行った翌朝だった。お蓮は房楊枝を啣えながら、顔を洗いに縁側へ行った。縁側にはもういつもの通り、銅の耳盥に湯を汲んだのが、鉢前の前に置いてあった。
冬枯の庭は寂しかった。庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。が、その景色が眼にはいると、お蓮は嗽いを使いがら、今までは全然忘れていた昨夜の夢を思い出した。
それは彼女がたった一人、暗い藪だか林だかの中を歩き廻っている夢だった。彼女は細い路を辿りながら、「とうとう私の念力が届いた。東京はもう見渡す限り、人気のない森に変っている。きっと今に金さんにも、遇う事が出来るのに違いない。」――そんな事を思い続けていた。するとしばらく歩いている内に、大砲の音や小銃の音が、どことも知らず聞え出した。と同時に木々の空が、まるで火事でも映すように、だんだん赤濁りを帯び始めた。「戦争だ。戦争だ。」――彼女はそう思いながら、一生懸命に走ろうとした。が、いくら気負って見ても、何故か一向走れなかった。…………
お蓮は顔を洗ってしまうと、手水を使うために肌を脱いだ。その時何か冷たい物が、べたりと彼女の背中に触れた。
「しっ!」
彼女は格別驚きもせず、艶いた眼を後へ投げた。そこには小犬が尾を振りながら、頻に黒い鼻を舐め廻していた。
九
牧野はその後二三日すると、いつもより早めに妾宅へ、田宮と云う男と遊びに来た。ある有名な御用商人の店へ、番頭格に通っている田宮は、お蓮が牧野に囲われるのについても、いろいろ世話をしてくれた人物だった。
「妙なもんじゃないか? こうやって丸髷に結っていると、どうしても昔のお蓮さんとは見えない。」
田宮は明いランプの光に、薄痘痕のある顔を火照らせながら、向い合った牧野へ盃をさした。
「ねえ、牧野さん。これが島田に結っていたとか、赤熊に結っていたとか云うんなら、こうも違っちゃ見えまいがね、何しろ以前が以前だから、――」
「おい、おい、ここの婆さんは眼は少し悪いようだが、耳は遠くもないんだからね。」
牧野はそう注意はしても、嬉しそうににやにや笑っていた。
「大丈夫。聞えた所がわかるもんか。――ねえ、お蓮さん。あの時分の事を考えると、まるで夢のようじゃありませんか。」
お蓮は眼を外らせたまま、膝の上の小犬にからかっていた。
「私も牧野さんに頼まれたから、一度は引き受けて見たようなものの、万一ばれた日にゃ大事だと、無事に神戸へ上がるまでにゃ、随分これでも気を揉みましたぜ。」
「へん、そう云う危い橋なら、渡りつけているだろうに、――」
「冗談云っちゃいけない。人間の密輸入はまだ一度ぎりだ。」
田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋面をつくって見せた。
「だがお蓮の今日あるを得たのは、実際君のおかげだよ。」
牧野は太い腕を伸ばして、田宮へ猪口をさしつけた。
「そう云われると恐れ入るが、とにかくあの時は弱ったよ。おまけにまた乗った船が、ちょうど玄海へかかったとなると、恐ろしいしけを食ってね。――ねえ、お蓮さん。」
「ええ、私はもう船も何も、沈んでしまうかと思いましたよ。」
お蓮は田宮の酌をしながら、やっと話に調子を合わせた。が、あの船が沈んでいたら、今よりは反って益かも知れない。――そんな事もふと考えられた。
「それがまあこうしていられるんだから、御互様に仕合せでさあ。――だがね、牧野さん。お蓮さんに丸髷が似合うようになると、もう一度また昔のなりに、返らせて見たい気もしやしないか?」
「返らせたかった所が、仕方がないじゃないか?」
「ないがさ、――ないと云えば昔の着物は、一つもこっちへは持って来なかったかい?」
「着物どころか櫛簪までも、ちゃんと御持参になっている。いくら僕が止せと云っても、一向御取上げにならなかったんだから、――」
牧野はちらりと長火鉢越しに、お蓮の顔へ眼を送った。お蓮はその言葉も聞えないように、鉄瓶のぬるんだのを気にしていた。
「そいつはなおさら好都合だ。――どうです? お蓮さん。その内に一つなりを変えて、御酌を願おうじゃありませんか?」
「そうして君も序ながら、昔馴染を一人思い出すか。」
「さあ、その昔馴染みと云うやつがね、お蓮さんのように好縹緻だと、思い出し甲斐もあると云うものだが、――」
田宮は薄痘痕のある顔に、擽ったそうな笑いを浮べながら、すり芋を箸に搦んでいた。……
その晩田宮が帰ってから、牧野は何も知らなかったお蓮に、近々陸軍を止め次第、商人になると云う話をした。辞職の許可が出さえすれば、田宮が今使われている、ある名高い御用商人が、すぐに高給で抱えてくれる、――何でもそう云う話だった。
「そうすりゃここにいなくとも好いから、どこか手広い家へ引っ越そうじゃないか?」
牧野はさも疲れたように、火鉢の前へ寝ころんだまま、田宮が土産に持って来たマニラの葉巻を吹かしていた。
「この家だって沢山ですよ。婆やと私と二人ぎりですもの。」
お蓮は意地のきたない犬へ、残り物を当てがうのに忙しかった。
「そうなったら、おれも一しょにいるさ。」
「だって御新造がいるじゃありませんか?」
「嚊かい? 嚊とも近々別れる筈だよ。」
牧野の口調や顔色では、この意外な消息も、満更冗談とは思われなかった。
「あんまり罪な事をするのは御止しなさいよ。」
「かまうものか。己に出でて己に返るさ。おれの方ばかり悪いんじゃない。」
牧野は険しい眼をしながら、やけに葉巻をすぱすぱやった。お蓮は寂しい顔をしたなり、しばらくは何とも答えなかった。
十
「あの白犬が病みついたのは、――そうそう、田宮の旦那が御見えになった、ちょうどその明くる日ですよ。」
お蓮に使われていた婆さんは、私の友人のKと云う医者に、こう当時の容子を話した。
「大方食中りか何かだったんでしょう。始めは毎日長火鉢の前に、ぼんやり寝ているばかりでしたが、その内に時々どうかすると、畳をよごすようになったんです。御新造は何しろ子供のように、可愛がっていらしった犬ですから、わざわざ牛乳を取ってやったり、宝丹を口へ啣ませてやったり、随分大事になさいました。それに不思議はないんです。ないんですが、嫌じゃありませんか? 犬の病気が悪くなると、御新造が犬と話をなさるのも、だんだん珍しくなくなったんです。
「そりゃ話をなさると云っても、つまりは御新造が犬を相手に、長々と独り語をおっしゃるんですが、夜更けにでもその声が聞えて御覧なさい。何だか犬も人間のように、口を利いていそうな気がして、あんまり好い気はしないもんですよ。それでなくっても一度なぞは、あるからっ風のひどかった日に、御使いに行って帰って来ると、――その御使いも近所の占い者の所へ、犬の病気を見て貰いに行ったんですが、――御使いに行って帰って来ると、障子のがたがた云う御座敷に、御新造の話し声が聞えるんでしょう。こりゃ旦那様でもいらしったかと思って、障子の隙間から覗いて見ると、やっぱりそこにはたった一人、御新造がいらっしゃるだけなんです。おまけに風に吹かれた雲が、御日様の前を飛ぶからですが、膝へ犬をのせた御新造の姿が、しっきりなしに明るくなったり暗くなったりするじゃありませんか? あんなに気味の悪かった事は、この年になってもまだ二度とは、出っくわした覚えがないくらいですよ。
「ですから犬が死んだ時には、そりゃ御新造には御気の毒でしたが、こちらは内々ほっとしたもんです。もっともそれが嬉しかったのは、犬が粗をするたびに、掃除をしなければならなかった私ばかりじゃありません。旦那様もその事を御聞きになると、厄介払いをしたと云うように、にやにや笑って御出でになりました。犬ですか? 犬は何でも、御新造はもとより、私もまだ起きない内に、鏡台の前へ仆れたまま、青い物を吐いて死んでいたんです。気がなさそうに長火鉢の前に、寝てばかりいるようになってから、かれこれ半月にもなりましたかしら。……」
ちょうど薬研堀の市の立つ日、お蓮は大きな鏡台の前に、息の絶えた犬を見出した。犬は婆さんが話した通り、青い吐物の流れた中に、冷たい体を横たえていた。これは彼女もとうの昔に、覚悟をきめていた事だった。前の犬には生別れをしたが、今度の犬には死別れをした。所詮犬は飼えないのが、持って生まれた因縁かも知れない。――そんな事がただ彼女の心へ、絶望的な静かさをのしかからせたばかりだった。
お蓮はそこへ坐ったなり、茫然と犬の屍骸を眺めた。それから懶い眼を挙げて、寒い鏡の面を眺めた。鏡には畳に仆れた犬が、彼女と一しょに映っていた。その犬の影をじっと見ると、お蓮は目まいでも起ったように、突然両手に顔を掩った。そうしてかすかな叫び声を洩らした。
鏡の中の犬の屍骸は、いつか黒かるべき鼻の先が、赭い色に変っていたのだった。
十一
妾宅の新年は寂しかった。門には竹が立てられたり、座敷には蓬莱が飾られたりしても、お蓮は独り長火鉢の前に、屈托らしい頬杖をついては、障子の日影が薄くなるのに、懶い眼ばかり注いでいた。
暮に犬に死なれて以来、ただでさえ浮かない彼女の心は、ややともすると発作的な憂鬱に襲われ易かった。彼女は犬の事ばかりか、未にわからない男の在りかや、どうかすると顔さえ知らない、牧野の妻の身の上までも、いろいろ思い悩んだりした。と同時にまたその頃から、折々妙な幻覚にも、悩まされるようになり始めた。――
ある時は床へはいった彼女が、やっと眠に就こうとすると、突然何かがのったように、夜着の裾がじわりと重くなった。小犬はまだ生きていた時分、彼女の蒲団の上へ来ては、よくごろりと横になった。――ちょうどそれと同じように、柔かな重みがかかったのだった。お蓮はすぐに枕から、そっと頭を浮かせて見た。が、そこには掻巻の格子模様が、ランプの光に浮んでいるほかは、何物もいるとは思われなかった。………
またある時は鏡台の前に、お蓮が髪を直していると、鏡へ映った彼女の後を、ちらりと白い物が通った。彼女はそれでも気をとめずに、水々しい鬢を掻き上げていた。するとその白い物は、前とは反対の方向へ、もう一度咄嗟に通り過ぎた。お蓮は櫛を持ったまま、とうとう後を振り返った。しかし明い座敷の中には、何も生き物のけはいはなかった。やっぱり眼のせいだったかしら、――そう思いながら、鏡へ向うと、しばらくの後白い物は、三度彼女の後を通った。……
またある時は長火鉢の前に、お蓮が独り坐っていると、遠い外の往来に、彼女の名を呼ぶ声が聞えた。それは門の竹の葉が、ざわめく音に交りながら、たった一度聞えたのだった。が、その声は東京へ来ても、始終心にかかっていた男の声に違いなかった。お蓮は息をひそめるように、じっと注意深い耳を澄ませた。その時また往来に、今度は前よりも近々と、なつかしい男の声が聞えた。と思うといつのまにか、それは風に吹き散らされる犬の声に変っていた。……
またある時はふと眼がさめると、彼女と一つ床の中に、いない筈の男が眠っていた。迫った額、長い睫毛、――すべてが夜半のランプの光に、寸分も以前と変らなかった。左の眼尻に黒子があったが、――そんな事さえ検べて見ても、やはり確かに男だった。お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心を躍らせながら、そのまま体も消え入るように、男の頸へすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何か呟いた声は、意外にも牧野に違いなかった。のみならずお蓮はその刹那に、実際酒臭い牧野の頸へ、しっかり両手をからんでいる彼女自身を見出したのだった。
しかしそう云う幻覚のほかにも、お蓮の心を擾すような事件は、現実の世界からも起って来た。と云うのは松もとれない内に、噂に聞いていた牧野の妻が、突然訪ねて来た事だった。
十二
牧野の妻が訪れたのは、生憎例の雇婆さんが、使いに行っている留守だった。案内を請う声に驚かされたお蓮は、やむを得ず気のない体を起して、薄暗い玄関へ出かけて行った。すると北向きの格子戸が、軒さきの御飾りを透せている、――そこにひどく顔色の悪い、眼鏡をかけた女が一人、余り新しくない肩掛をしたまま、俯向き勝に佇んでいた。
「どなた様でございますか?」
お蓮はそう尋ねながら、相手の正体を直覚していた。そうしてこの根の抜けた丸髷に、小紋の羽織の袖を合せた、どこか影の薄い女の顔へ、じっと眼を注いでいた。
「私は――」
女はちょいとためらった後、やはり俯向き勝に話し続けた。
「私は牧野の家内でございます。滝と云うものでございます。」
今度はお蓮が口ごもった。
「さようでございますか。私は――」
「いえ、それはもう存じて居ります。牧野が始終御世話になりますそうで、私からも御礼を申し上げます。」
女の言葉は穏やかだった。皮肉らしい調子なぞは、不思議なほど罩っていなかった。それだけまたお蓮は何と云って好いか、挨拶のしように困るのだった。
「つきましては今日は御年始かたがた、ちと御願いがあって参りましたんですが、――」
「何でございますか、私に出来る事でございましたら――」
まだ油断をしなかったお蓮は、ほぼその「御願い」もわかりそうな気がした。と同時にそれを切り出された場合、答うべき文句も多そうな気がした。しかし伏目勝ちな牧野の妻が、静に述べ始めた言葉を聞くと、彼女の予想は根本から、間違っていた事が明かになった。
「いえ、御願いと申しました所が、大した事でもございませんが、――実は近々に東京中が、森になるそうでございますから、その節はどうか牧野同様、私も御宅へ御置き下さいまし。御願いと云うのはこれだけでございます。」
相手はゆっくりこんな事を云った。その容子はまるで彼女の言葉が、いかに気違いじみているかも、全然気づいていないようだった。お蓮は呆気にとられたなり、しばらくはただ外光に背いた、この陰気な女の姿を見つめているよりほかはなかった。
「いかがでございましょう? 置いて頂けましょうか?」
お蓮は舌が剛ばったように、何とも返事が出来なかった。いつか顔を擡げた相手は、細々と冷たい眼を開きながら、眼鏡越しに彼女を見つめている、――それがなおさらお蓮には、すべてが一場の悪夢のような、気味の悪い心地を起させるのだった。
「私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭に迷うような事がありましては、二人の子供が可哀そうでございます。どうか御面倒でもあなたの御宅へ、お置きなすって下さいまし。」
牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠しながら、突然しくしく泣き始めた。すると何故か黙っていたお蓮も、急に悲しい気がして来た。やっと金さんにも遇える時が来たのだ、嬉しい。嬉しい。――彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やはり涙を落している彼女自身を見出したのだった。
が、何分か過ぎ去った後、お蓮がふと気がついて見ると、薄暗い北向きの玄関には、いつのまに相手は帰ったのか、誰も人影が見えなかった。
十三
七草の夜、牧野が妾宅へやって来ると、お蓮は早速彼の妻が、訪ねて来たいきさつを話して聞かせた。が、牧野は案外平然と、彼女に耳を借したまま、マニラの葉巻ばかり燻らせていた。
「御新造はどうかしているんですよ。」
いつか興奮し出したお蓮は、苛立たしい眉をひそめながら、剛情に猶も云い続けた。
「今の内に何とかして上げないと、取り返しのつかない事になりますよ。」
「まあ、なったらなった時の事さ。」
牧野は葉巻の煙の中から、薄眼に彼女を眺めていた。
「嚊の事なんぞを案じるよりゃ、お前こそ体に気をつけるが好い。何だかこの頃はいつ来て見ても、ふさいでばかりいるじゃないか?」
「私はどうなっても好いんですけれど、――」
「好くはないよ。」
お蓮は顔を曇らせたなり、しばらくは口を噤んでいた。が、突然涙ぐんだ眼を挙げると、
「あなた、後生ですから、御新造を捨てないで下さい。」と云った。
牧野は呆気にとられたのか、何とも答を返さなかった。
「後生ですから、ねえ、あなた――」
お蓮は涙を隠すように、黒繻子の襟へ顎を埋めた。
「御新造は世の中にあなた一人が、何よりも大事なんですもの。それを考えて上げなくっちゃ、薄情すぎると云うもんですよ。私の国でも女と云うものは、――」
「好いよ。好いよ。お前の云う事はよくわかったから、そんな心配なんぞはしない方が好いよ。」
葉巻を吸うのも忘れた牧野は、子供を欺すようにこう云った。
「一体この家が陰気だからね、――そうそう、この間はまた犬が死んだりしている。だからお前も気がふさぐんだ。その内にどこか好い所があったら、早速引越してしまおうじゃないか? そうして陽気に暮すんだね、――何、もう十日も経ちさえすりゃ、おれは役人をやめてしまうんだから、――」
お蓮はほとんどその晩中、いくら牧野が慰めても、浮かない顔色を改めなかった。……
「御新造の事では旦那様も、随分御心配なすったもんですが、――」
Kにいろいろ尋かれた時、婆さんはまた当時の容子をこう話したとか云う事だった。
「何しろ今度の御病気は、あの時分にもうきざしていたんですから、やっぱりまあ旦那様始め、御諦めになるほかはありますまい。現に本宅の御新造が、不意に横網へ御出でなすった時でも、私が御使いから帰って見ると、こちらの御新造は御玄関先へ、ぼんやりとただ坐っていらっしゃる、――それを眼鏡越しに睨みながら、あちらの御新造はまた上ろうともなさらず、悪丁寧な嫌味のありったけを並べて御出でなさる始末なんです。
「そりゃ御主人が毒づかれるのは、蔭で聞いている私にも、好い気のするもんじゃありません。けれども私がそこへ出ると、余計事がむずかしいんです。――と云うのは私も四五年前には、御本宅に使われていたもんですから、あちらの御新造に見つかったが最後、反って先様の御腹立ちを煽る事になるかも知れますまい。そんな事があっては大変ですから、私は御本宅の御新造が、さんざん悪態を御つきになった揚句、御帰りになってしまうまでは、とうとう御玄関の襖の蔭から、顔を出さずにしまいました。
「ところがこちらの御新造は、私の顔を御覧になると、『婆や、今し方御新造が御見えなすったよ。私なんぞの所へ来ても、嫌味一つ云わないんだから、あれがほんとうの結構人だろうね。』と、こうおっしゃるじゃありませんか? そうかと思うと笑いながら、『何でも近々に東京中が、森になるって云っていたっけ。可哀そうにあの人は、気が少し変なんだよ。』と、そんな事さえおっしゃるんですよ。……」
十四