3話 〔教育の目的と方法〕
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要するに教育は時代の精神に由りて、その国情に適合する方法を採らなければならぬ。その時代の要求を容れなければ、非常な不幸に陥るものである。学校と社会と、また学校と家庭とは、いずれの時代に於ても結び付かねばならぬ。時には偉大なる人物が出て、時代の精神を一変することがあるが、普通の人間以上の人間を拵えるということは教育の目的ではない。かくの如き偉大なる人物は、天才として待たなければならぬ。一般の教育はすべての人間、普通の人間を造る。人間以上の人間を造るというのは別である。合衆国でさえも少しくその時代の要求に応じないというためにその弊害が出来て来た。そうして学者も大いに困っておるという。もとより理想は高尚でなければならぬが、高尚なる理想は漸次に実現して来る。あるいは二世三世の後に実現するものである。しかしながら善良なる風俗、善良なる教育の目的は、日本に古来無い事であっても、日本に移し得られぬことはない。日本の畑は、持って来て種子を蒔くと、何でも発生する。そういうように何でも他の勝れたものを日本に移すならば、必ず発生する。古来の儒教の教義、宗教の慣習がこれを妨げるという如き性質はもたぬのである。今日まで他の国の勝れた善を日本に植えて、その結果がいつもその本元よりも日本の方が良くなっておる。儒教の如きも、却って支那ではその教義と常に衝突しておる。また宗教の如きも、僅かにその弊害の一部分、即ち野鄙な迷信的の弊害が残っておるばかりである。されば儒教も宗教も、今日日本に於てそれを一変したのである。そういう訳で、今日の世界の文明も、利益の大いなるものに非ざれば決して入って来ない。儒教も一部人道の大本を教え真理を教えた。仏教に於てもかくの如きものである。今日の文明は完全無欠なものであるかといえば決してそうではない。次第に変更する。道徳の有様はどうかというと、これも完全無欠ではない。しかしながら今日の文明というものには、実に東洋の文明以外に日本の文明が成立っておるのである。その一部のものをつかまえて、すべて善いというものはない。その文明に伴うて随分大いなる弊害が成立っておるのであるが、ただ巧みにその弊を避け、巧みにその善を用いるということが肝要である。しかしこれは人間一世の事業ではない。一戦にして勝敗を決するというような急速なる事ではないのである。どうしても二世三世の事業である。かかる二世三世の大事業を、どうかすると直ちにこれを実行しようとか、またはその善悪をのみ研究し、その善に伴う弊を研究せずして、直ちにこれを行うとかいうことはよくないとこう考えるのである。