山椒大夫

1話 山椒大夫(1)

8,651字 約17分 1998年7月21日 公開

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 越後(えちご)の春日(かすが)を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を踰(こ)えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞(はらから)二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣(ものまい)りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠(かさ)やら杖(つえ)やらかいがいしい出立(いでた)ちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。

 道は百姓家の断(た)えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和(あきびより)によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのように踝(くるぶし)を埋めて人を悩ますことはない。

 藁葺(わらぶ)きの家が何軒も立ち並んだ一構えが柞(ははそ)の林に囲まれて、それに夕日がかっとさしているところに通りかかった。

「まああの美しい紅葉(もみじ)をごらん」と、先に立っていた母が指さして子供に言った。

 子供は母の指さす方を見たが、なんとも言わぬので、女中が言った。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」

 姉娘が突然弟を顧みて言った。「早くお父うさまのいらっしゃるところへ往(ゆ)きたいわね」

「姉えさん。まだなかなか往(い)かれはしないよ」弟は賢(さか)しげに答えた。

 母が諭(さと)すように言った。「そうですとも。今まで越して来たような山をたくさん越して、河や海をお船でたびたび渡らなくては往かれないのだよ。毎日精出しておとなしく歩かなくては」

「でも早く往きたいのですもの」と、姉娘は言った。

 一群れはしばらく黙って歩いた。

 向うから空桶(からおけ)を担(かつ)いで来る女がある。塩浜から帰る潮汲(しおく)み女である。

 それに女中が声をかけた。「もしもし。この辺に旅の宿をする家はありませんか」

 潮汲み女は足を駐(と)めて、主従四人の群れを見渡した。そしてこう言った。「まあ、お気の毒な。あいにくなところで日が暮れますね。この土地には旅の人を留めて上げる所は一軒もありません」

 女中が言った。「それは本当ですか。どうしてそんなに人気(じんき)が悪いのでしょう」

 二人の子供は、はずんで来る対話の調子を気にして、潮汲み女のそばへ寄ったので、女中と三人で女を取り巻いた形になった。

 潮汲み女は言った。「いいえ。信者が多くて人気のいい土地ですが、国守(くにのかみ)の掟(おきて)だからしかたがありません。もうあそこに」と言いさして、女は今来た道を指さした。「もうあそこに見えていますが、あの橋までおいでなさると高札(たかふだ)が立っています。それにくわしく書いてあるそうですが、近ごろ悪い人買いがこの辺を立ち廻ります。それで旅人に宿を貸して足を留めさせたものにはお咎(とが)めがあります。あたり七軒巻添えになるそうです」

「それは困りますね。子供衆もおいでなさるし、もうそう遠くまでは行かれません。どうにかしようはありますまいか」

「そうですね。わたしの通う塩浜のあるあたりまで、あなた方がおいでなさると、夜になってしまいましょう。どうもそこらでいい所を見つけて、野宿をなさるよりほか、しかたがありますまい。わたしの思案では、あそこの橋の下にお休みなさるがいいでしょう。岸の石垣にぴったり寄せて、河原に大きい材木がたくさん立ててあります。荒川の上(かみ)から流して来た材木です。昼間はその下で子供が遊んでいますが、奥の方には日もささず、暗くなっている所があります。そこなら風も通しますまい。わたしはこうして毎日通う塩浜の持ち主のところにいます。ついそこの柞(ははそ)の森の中です。夜になったら、藁(わら)や薦(こも)を持って往ってあげましょう」

 子供らの母は一人離れて立って、この話を聞いていたが、このとき潮汲み女のそばに進み寄って言った。「よい方に出逢(であ)いましたのは、わたしどもの為合(しあわ)せでございます。そこへ往って休みましょう。どうぞ藁や薦をお借り申しとうございます。せめて子供たちにでも敷かせたりきせたりいたしとうございます」

 潮汲み女は受け合って、柞の林の方へ帰って行く。主従四人は橋のある方へ急いだ。

     ――――――――――――

 荒川にかけ渡した応化橋(おうげのはし)の袂(たもと)に一群れは来た。潮汲み女の言った通りに、新しい高札が立っている。書いてある国守の掟も、女の詞(ことば)にたがわない。

 人買いが立ち廻るなら、その人買いの詮議(せんぎ)をしたらよさそうなものである。旅人に足を留めさせまいとして、行き暮れたものを路頭に迷わせるような掟を、国守はなぜ定めたものか。ふつつかな世話の焼きようである。しかし昔の人の目には掟である。子供らの母はただそういう掟のある土地に来合わせた運命を歎(なげ)くだけで、掟の善悪(よしあし)は思わない。

 橋の袂に、河原へ洗濯に降りるものの通う道がある。そこから一群れは河原に降りた。なるほど大層な材木が石垣に立てかけてある。一群れは石垣に沿うて材木の下へくぐってはいった。男の子は面白がって、先に立って勇んではいった。

 奥深くもぐってはいると、洞穴(ほらあな)のようになった所がある。下には大きい材木が横になっているので、床を張ったようである。

 男の子が先に立って、横になっている材木の上に乗って、一番隅(すみ)へはいって、「姉えさん、早くおいでなさい」と呼ぶ。

 姉娘はおそるおそる弟のそばへ往った。

「まあ、お待ち遊ばせ」と女中が言って、背に負っていた包みをおろした。そして着換えの衣類を出して、子供を脇(わき)へ寄らせて、隅のところに敷いた。そこへ親子をすわらせた。

 母親がすわると、二人の子供が左右からすがりついた。岩代(いわしろ)の信夫郡(しのぶごおり)の住家(すみか)を出て、親子はここまで来るうちに、家の中ではあっても、この材木の蔭より外らしい所に寝たことがある。不自由にも次第に慣れて、もうさほど苦にはしない。

 女中の包みから出したのは衣類ばかりではない。用心に持っている食べ物もある。女中はそれを親子の前に出して置いて言った。「ここでは焚火(たきび)をいたすことは出来ません。もし悪い人に見つけられてはならぬからでございます。あの塩浜の持ち主とやらの家まで往って、お湯をもらってまいりましょう。そして藁(わら)や薦(こも)のことも頼んでまいりましょう」

 女中はまめまめしく出て行った。子供は楽しげに《おこしごめ》やら、乾(ほ)した果(くだもの)やらを食べはじめた。

 しばらくすると、この材木の蔭へ人のはいって来る足音がした。「姥竹(うばたけ)かい」と母親が声をかけた。しかし心のうちには、柞(ははそ)の森まで往って来たにしては、あまり早いと疑った。姥竹というのは女中の名である。

 はいって来たのは四十歳ばかりの男である。骨組みのたくましい、筋肉が一つびとつ肌の上から数えられるほど、脂肪の少い人で、牙彫(げぼり)の人形のような顔に笑(え)みを湛(たた)えて、手に数珠(ずず)を持っている。我が家を歩くような、慣れた歩きつきをして、親子のひそんでいるところへ進み寄った。そして親子の座席にしている材木の端に腰をかけた。

 親子はただ驚いて見ている。仇(あた)をしそうな様子も見えぬので、恐ろしいとも思わぬのである。

 男はこんなことを言う。「わしは山岡大夫という船乗りじゃ。このごろこの土地を人買いが立ち廻るというので、国守が旅人に宿を貸すことを差し止めた。人買いをつかまえることは、国守の手に合わぬと見える。気の毒なは旅人じゃ。そこでわしは旅人を救うてやろうと思い立った。さいわいわしが家は街道(かいどう)を離れているので、こっそり人を留めても、誰に遠慮もいらぬ。わしは人の野宿をしそうな森の中や橋の下を尋ね廻って、これまで大勢の人を連れて帰った。見れば子供衆が菓子を食べていなさるが、そんな物は腹の足しにはならいで、歯に障(さわ)る。わしがところではさしたる饗応(もてなし)はせぬが、芋粥(いもがゆ)でも進ぜましょう。どうぞ遠慮せずに来て下されい」男は強(し)いて誘うでもなく、独語(ひとりごと)のように言ったのである。

 子供の母はつくづく聞いていたが、世間の掟にそむいてまでも人を救おうというありがたい志に感ぜずにはいられなかった。そこでこう言った。「承われば殊勝なお心がけと存じます。貸すなという掟のある宿を借りて、ひょっと宿主(やどぬし)に難儀をかけようかと、それが気がかりでございますが、わたくしはともかくも、子供らに温(ぬく)いお粥(かゆ)でも食べさせて、屋根の下に休ませることが出来ましたら、そのご恩はのちの世までも忘れますまい」

 山岡大夫はうなずいた。「さてさてよう物のわかるご婦人じゃ。そんならすぐに案内をして進ぜましょう」こう言って立ちそうにした。

 母親は気の毒そうに言った。「どうぞ少しお待ち下さいませ。わたくしども三人がお世話になるさえ心苦しゅうございますのに、こんなことを申すのはいかがと存じますが、実は今一人連れがございます」

 山岡大夫は耳をそばだてた。「連れがおありなさる。それは男か女子(おなご)か」

「子供たちの世話をさせに連れて出た女中でございます。湯をもらうと申して、街道を三四町あとへ引き返してまいりました。もうほどなく帰ってまいりましょう」

「お女中かな。そんなら待って進ぜましょう」山岡大夫の落ち着いた、底の知れぬような顔に、なぜか喜びの影が見えた。

     ――――――――――――

 ここは直江の浦である。日はまだ米山(よねやま)の背後(うしろ)に隠れていて、紺青(こんじょう)のような海の上には薄い靄(もや)がかかっている。

 一群れの客を舟に載せて纜(ともづな)を解いている船頭がある。船頭は山岡大夫で、客はゆうべ大夫の家に泊った主従四人の旅人である。

 応化橋(おうげのはし)の下で山岡大夫に出逢った母親と子供二人とは、女中姥竹(うばたけ)が欠け損じた瓶子(へいし)に湯をもらって帰るのを待ち受けて、大夫に連れられて宿を借りに往った。姥竹は不安らしい顔をしながらついて行った。大夫は街道を南へはいった松林の中の草の家(や)に四人を留めて、芋粥(いもがゆ)をすすめた。そしてどこからどこへ往く旅かと問うた。くたびれた子供らをさきへ寝させて、母は宿の主人(あるじ)に身の上のおおよそを、かすかな燈火(ともしび)のもとで話した。

 自分は岩代(いわしろ)のものである。夫が筑紫(つくし)へ往って帰らぬので、二人の子供を連れて尋ねに往く。姥竹は姉娘の生まれたときから守(も)りをしてくれた女中で、身寄りのないものゆえ、遠い、覚束ない旅の伴(とも)をすることになったと話したのである。

 さてここまでは来たが、筑紫の果てへ往くことを思えば、まだ家を出たばかりと言ってよい。これから陸(おか)を行ったものであろうか。または船路(ふなじ)を行ったものであろうか。主人(あるじ)は船乗りであってみれば、定めて遠国のことを知っているだろう。どうぞ教えてもらいたいと、子供らの母が頼んだ。

 大夫は知れきったことを問われたように、少しもためらわずに船路を行くことを勧めた。陸を行けば、じき隣の越中の国に入る界(さかい)にさえ、親不知子不知(おやしらずこしらず)の難所がある。削り立てたような巌石の裾(すそ)には荒浪(あらなみ)が打ち寄せる。旅人は横穴にはいって、波の引くのを待っていて、狭い巌石の下の道を走り抜ける。そのときは親は子を顧みることが出来ず、子も親を顧みることが出来ない。それは海辺(うみべ)の難所である。また山を越えると、踏まえた石が一つ揺(ゆる)げば、千尋(ちひろ)の谷底に落ちるような、あぶない岨道(そわみち)もある。西国へ往くまでには、どれほどの難所があるか知れない。それとは違って、船路は安全なものである。たしかな船頭にさえ頼めば、いながらにして百里でも千里でも行かれる。自分は西国まで往くことは出来ぬが、諸国の船頭を知っているから、船に載せて出て、西国へ往く舟に乗り換えさせることが出来る。あすの朝は早速船に載せて出ようと、大夫は事もなげに言った。

 夜が明けかかると、大夫は主従四人をせき立てて家を出た。そのとき子供らの母は小さい嚢(ふくろ)から金を出して、宿賃を払おうとした。大夫は留めて、宿賃はもらわぬ、しかし金の入れてある大切な嚢は預かっておこうと言った。なんでも大切な品は、宿に着けば宿の主人(あるじ)に、舟に乗れば舟の主(ぬし)に預けるものだというのである。

 子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに抗(あらが)うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない。

 母親は余儀ないことをするような心持ちで舟に乗った。子供らは凪(な)いだ海の、青い氈(かも)を敷いたような面(おもて)を見て、物珍しさに胸をおどらせて乗った。ただ姥竹が顔には、きのう橋の下を立ち去ったときから、今舟に乗るときまで、不安の色が消え失せなかった。

 山岡大夫は纜(ともづな)を解いた。《さお》で岸を一押し押すと、舟は揺(ゆら)めきつつ浮び出た。

     ――――――――――――

 山岡大夫はしばらく岸に沿うて南へ、越中境(えっちゅうざかい)の方角へ漕(こ)いで行く。靄(もや)は見る見る消えて、波が日にかがやく。

 人家のない岩蔭に、波が砂を洗って、海松(みる)や荒布(あらめ)を打ち上げているところがあった。そこに舟が二艘(そう)止まっている。船頭が大夫を見て呼びかけた。

「どうじゃ。あるか」

 大夫は右の手を挙げて、大拇(おやゆび)を折って見せた。そして自分もそこへ舟を舫(もや)った。大拇だけ折ったのは、四人あるという相図(あいず)である。

 前からいた船頭の一人は宮崎の三郎といって、越中宮崎のものである。左の手の拳(こぶし)を開いて見せた。右の手が貨(しろもの)の相図になるように、左の手は銭の相図になる。これは五貫文につけたのである。

「気張るぞ」と今一人の船頭が言って、左の臂(ひじ)をつと伸べて、一度拳を開いて見せ、ついで示指(ひとさしゆび)を竪(た)てて見せた。この男は佐渡の二郎で六貫文につけたのである。

「横着者奴(おうちゃくものめ)」と宮崎が叫んで立ちかかれば、「出し抜こうとしたのはおぬしじゃ」と佐渡が身構えをする。二艘の舟がかしいで、舷(ふなばた)が水を笞(むちう)った。

 大夫は二人の船頭の顔を冷ややかに見較べた。「あわてるな。どっちも空手(からて)では還(かえ)さぬ。お客さまがご窮屈でないように、お二人ずつ分けて進ぜる。賃銭はあとでつけた値段の割じゃ」こう言っておいて、大夫は客を顧みた。「さあ、お二人ずつあの舟へお乗りなされ。どれも西国への便船じゃ。舟足というものは、重過ぎては走りが悪い」

 二人の子供は宮崎が舟へ、母親と姥竹とは佐渡が舟へ、大夫が手をとって乗り移らせた。移らせて引く大夫が手に、宮崎も佐渡も幾緡(いくさし)かの銭を握らせたのである。

「あの、主人(あるじ)にお預けなされた嚢(ふくろ)は」と、姥竹が主(しゅう)の袖(そで)を引くとき、山岡大夫は空舟をつと押し出した。

「わしはこれでお暇(いとま)をする。たしかな手からたしかな手へ渡すまでがわしの役じゃ。ご機嫌ようお越しなされ」

 《ろ》の音が忙(せわ)しく響いて、山岡大夫の舟は見る見る遠ざかって行く。

 母親は佐渡に言った。「同じ道を漕いで行って、同じ港に着くのでございましょうね」

 佐渡と宮崎とは顔を見合わせて、声を立てて笑った。そして佐渡が言った。「乗る舟は弘誓(ぐぜい)の舟、着くは同じ彼岸(かのきし)と、蓮華峰寺(れんげぶじ)の和尚(おしょう)が言うたげな」

 二人の船頭はそれきり黙って舟を出した。佐渡の二郎は北へ漕ぐ。宮崎の三郎は南へ漕ぐ。「あれあれ」と呼びかわす親子主従は、ただ遠ざかり行くばかりである。

 母親は物狂おしげに舷(ふなばた)に手をかけて伸び上がった。「もうしかたがない。これが別れだよ。安寿(あんじゅ)は守本尊の地蔵様を大切におし。厨子王(ずしおう)はお父うさまの下さった護り刀を大切におし。どうぞ二人が離れぬように」安寿は姉娘、厨子王は弟の名である。

 子供はただ「お母あさま、お母あさま」と呼ぶばかりである。

 舟と舟とは次第に遠ざかる。後ろには餌(え)を待つ雛(ひな)のように、二人の子供があいた口が見えていて、もう声は聞えない。

 姥竹は佐渡の二郎に「もし船頭さん、もしもし」と声をかけていたが、佐渡は構わぬので、とうとう赤松の幹のような脚にすがった。「船頭さん。これはどうしたことでございます。あのお嬢さま、若さまに別れて、生きてどこへ往かれましょう。奥さまも同じことでございます。これから何をたよりにお暮らしなさいましょう。どうぞあの舟の往く方へ漕いで行って下さいまし。後生でございます」

「うるさい」と佐渡は後ろざまに蹴った。姥竹は舟(ふなとこ)に倒れた。髪は乱れて舷にかかった。

 姥竹は身を起した。「ええ。これまでじゃ。奥さま、ご免下さいまし」こう言ってまっさかさまに海に飛び込んだ。

「こら」と言って船頭は臂(ひじ)を差し伸ばしたが、まにあわなかった。

 母親は袿(うちぎ)を脱いで佐渡が前へ出した。「これは粗末な物でございますが、お世話になったお礼に差し上げます。わたくしはもうこれでお暇を申します」こう言って舷に手をかけた。

「たわけが」と、佐渡は髪をつかんで引き倒した。「うぬまで死なせてなるものか。大事な貨(しろもの)じゃ」

 佐渡の二郎は牽(つなで)を引き出して、母親をくるくる巻きにして転がした。そして北へ北へと漕いで行った。

     ――――――――――――

「お母あさまお母あさま」と呼び続けている姉と弟とを載せて、宮崎の三郎が舟は岸に沿うて南へ走って行く。「もう呼ぶな」と宮崎が叱った。「水の底の鱗介(いろくず)には聞えても、あの女子(おなご)には聞えぬ。女子どもは佐渡へ渡って粟(あわ)の鳥でも逐(お)わせられることじゃろう」

 姉の安寿と弟の厨子王とは抱き合って泣いている。故郷を離れるも、遠い旅をするも母と一しょにすることだと思っていたのに、今はからずも引き分けられて、二人はどうしていいかわからない。ただ悲しさばかりが胸にあふれて、この別れが自分たちの身の上をどれだけ変らせるか、そのほどさえ弁(わきま)えられぬのである。

 午(ひる)になって宮崎は餅(もち)を出して食った。そして安寿と厨子王とにも一つずつくれた。二人は餅を手に持って食べようともせず、目を見合わせて泣いた。夜は宮崎がかぶせた苫(とま)の下で、泣きながら寝入った。

 こうして二人は幾日か舟に明かし暮らした。宮崎は越中、能登(のと)、越前(えちぜん)、若狭(わかさ)の津々浦々を売り歩いたのである。

 しかし二人がおさないのに、体もか弱く見えるので、なかなか買おうと言うものがない。たまに買い手があっても、値段の相談が調(ととの)わない。宮崎は次第に機嫌を損じて、「いつまでも泣くか」と二人を打つようになった。

 宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由良(ゆら)の港に来た。ここには石浦というところに大きい邸(やしき)を構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟(かり)をさせ、海では漁(すなどり)をさせ、蚕飼(こがい)をさせ、機織(はたおり)をさせ、金物、陶物(すえもの)、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫(さんしょうだゆう)という分限者(ぶげんしゃ)がいて、人なら幾らでも買う。宮崎はこれまでも、よそに買い手のない貨(しろもの)があると、山椒大夫がところへ持って来ることになっていた。

 港に出張っていた大夫の奴頭(やっこがしら)は、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。

「やれやれ、餓鬼(がき)どもを片づけて身が軽うなった」と言って、宮崎の三郎は受け取った銭を懐(ふところ)に入れた。そして波止場の酒店にはいった。

     ――――――――――――

 一抱えに余る柱を立て並べて造った大廈(おおいえ)の奥深い広間に一間四方の炉を切らせて、炭火がおこしてある。その向うに茵(しとね)を三枚畳(かさ)ねて敷いて、山椒大夫は几(おしまずき)にもたれている。左右には二郎、三郎の二人の息子が狛犬(こまいぬ)のように列(なら)んでいる。もと大夫には三人の男子があったが、太郎は十六歳のとき、逃亡を企てて捕えられた奴(やっこ)に、父が手ずから烙印(やきいん)をするのをじっと見ていて、一言も物を言わずに、ふいと家を出て行くえが知れなくなった。今から十九年前のことである。

 奴頭(やっこがしら)が安寿、厨子王を連れて前へ出た。そして二人の子供に辞儀をせいと言った。

 二人の子供は奴頭の詞(ことば)が耳に入らぬらしく、ただ目をみはって大夫を見ている。今年六十歳になる大夫の、朱を塗ったような顔は、額が広く《あご》が張って、髪も鬚(ひげ)も銀色に光っている。子供らは恐ろしいよりは不思議がって、じっとその顔を見ているのである。

 大夫は言った。「買うて来た子供はそれか。いつも買う奴(やっこ)と違うて、何に使うてよいかわからぬ、珍らしい子供じゃというから、わざわざ連れて来させてみれば、色の蒼(あお)ざめた、か細い童(わらわ)どもじゃ。何に使うてよいかは、わしにもわからぬ」

 そばから三郎が口を出した。末の弟ではあるが、もう三十になっている。「いやお父っさん。さっきから見ていれば、辞儀をせいと言われても辞儀もせぬ。ほかの奴のように名のりもせぬ。弱々しゅう見えてもしぶとい者どもじゃ。奉公初めは男が柴苅(しばか)り、女が汐汲(しおく)みときまっている。その通りにさせなされい」

「おっしゃるとおり、名はわたくしにも申しませぬ」と、奴頭が言った。

 大夫は嘲笑(あざわら)った。「愚か者と見える。名はわしがつけてやる。姉はいたつきを垣衣(しのぶぐさ)、弟は我が名を萱草(わすれぐさ)じゃ。垣衣は浜へ往って、日に三荷(が)の潮を汲め。萱草は山へ往って日に三荷の柴を刈れ。弱々しい体に免じて、荷は軽うして取らせる」

 三郎が言った。「過分のいたわりようじゃ。こりゃ、奴頭。早く連れて下がって道具を渡してやれ」

 奴頭は二人の子供を新参小屋に連れて往って、安寿には桶(おけ)と杓(ひさご)、厨子王には籠(かご)と鎌(かま)を渡した。どちらにも午餉(ひるげ)を入れる子(かれいけ)が添えてある。新参小屋はほかの奴婢(ぬひ)の居所とは別になっているのである。

 奴頭が出て行くころには、もうあたりが暗くなった。この屋(いえ)には燈火(あかり)もない。

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