4話 四 二葉亭は失敗の英雄
読み方を変える
二葉亭は失敗の英雄であった。小説家としては未成の巨人であった。事業家としてドレほどの手腕があったかは疑問であるが、事を侶にした人の憶出を綜合して見ると相当の策もあり腕もあったらしく、万更な講釈屋ばかりでもなかったようだ。実をいうと実務というものは台所の権助仕事で、馴れれば誰にも出来る。実務家が自から任ずるほどな難かしいものではない。ところが日本では昔から法科万能で、実務上には学者を疎んじ読書人を軽侮し、議論をしたり文章を書いたり読書に親んだりするとさも働きのない低能者であるかのように軽蔑されあるいは敬遠される。二葉亭ばかりが志を得られなかったのではない。パデレフスキーも日本に生れたら大統領は魯か文部の長官にだって選ばれそうもない。ダンヌンチオも日本だったら義兵を募る事も軍資を作る事も決して出来なかったろう。西洋では詩人や小説家の国務大臣や商売人は一向珍らしくないが、日本では詩人や小説家では頭から対手にされないで、国務大臣は魯か代議士にだって選出される事は覚束ない。こういう国に二葉亭の生れたのは不運だった。
小説家としても『浮雲』は時勢に先んじ過ぎていた。相当に売れもし評判にもなったが半ばは合著の名を仮した春廼舎の声望に由るので、二葉亭としては余りありがたくもなかった。数ある批評のどれもが感服しないのはなかったが、ドレもこれも窮所を外れて自分の思う坪に陥ったのが一つもなかったのは褒められても淋しかった。『其面影』や『平凡』は苦辛したといっても二葉亭としては米銭の方便であって真剣でなかった。褒められても貶されても余り深く関心しなかったろうし、自ら任ずるほどの作とも思っていなかった。
正直にいったら『浮雲』も『其面影』も『平凡』も皆未完成の出来損ないである。あの三作で文人としての名を残すのは仮令文人たるを屑しとしなくてもまた遺憾であったろう。
結局二葉亭は日本には余り早く生れ過ぎた。もし欧羅巴だったら小説家としても相応に優遇され、二葉亭もまた文人たるを甘んずる事が出来たであろう。
(大正十四年一月『女性』一部登載)