2話 第六一段 余論 (二)卜筮論
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未来の吉凶禍福をいちいち前知予定するは、人力のなしあたわざるところにして、古来、卜筮家の言うところ、決して信ずべからざるなり。たとえその予言の的中することあるも、これ、いわゆる「当たるも八卦、当たらぬも八卦」にして、その結果よく百発百中、千発千中を得るにあらざれば、卜筮そのものの上に信を置くことあたわざるなり。かつ、卜筮は易筮にせよ亀卜にせよ、その種のなんたるを問わず、今日まで民間に伝わるものは、すべて非道理的のものにして、学術上、論ずべき価値あるものにあらず。そのうち、ひとり易学においては、シナ哲学中最も玄妙なるものにして、学術上、講究するに足るといえども、これを人事に応用して、即座に未来の吉凶禍福を予知せんとするに至っては、非道理的のはなはだしきものなり。ゆえに余は、卜筮排斥論者の一人なり。
従来の卜筮は、その原理その応用ともに非道理的のものなるも、もし、今日の学理にもとづきて別に道理的の方法を考定するに至らば、卜筮そのもの必ずしも排斥するを要せんや。今日は百般のこと、みな旧を脱して新につく際なれば、卜筮そのものもまた一段の改新を要する時機なり。しかれども、未来の吉凶禍福は到底人力の予知しあたわざるものなれば、いかに卜筮を改新すとも、これによって運命の前定を望むべからず。ただ余は、人力の微弱なるために、往々取捨選択に迷うことあり、猶予踟して決することあたわざることあり。かくのごとき場合に、卜筮の助けによりて己の意向を定むるは、今後人事の複雑なるに従い、いよいよその必要を感ずべし。ゆえに、今日以後の卜筮は単にこの一事を目的とし、従来の非道理的に代うるに道理的のものをもってせざるべからず。しかるときは、卜筮必ずしも排斥するに及ばざるなり。