通俗講義 霊魂不滅論

7話 霊魂不滅論 第七回 俗物論と唯物論との別

1,582字 約3分 2017年6月6日 公開

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 これまで述べきたりしことは、俗物連中の不学無識輩の難問に答えたるまでなれば、格別の理論も説かざりしも、これより学者連の屁理屈に対して弁明するはずなれば、多少の理屈を並べなければなりますまい。さて、今日わが国にありて自ら学者、大家をもって任ずる人たちは、過半どころではなく、十人中九人までは霊魂滅亡論者ならんと考えます。もっとも、霊魂の解釈いかんによりては、不滅論に帰する人もあろうかなれども、神道や仏教やヤソ教のごとき、古来の宗教上にて立つる霊魂説に対しては、みな反対論者ならんと察します。しかして、その論の詳細に至りては、十人十色なるべきをもって、これを一概し難しといえども、もし、その多数の傾向を見れば、唯物無心論にもとづくと申してよろしい。よって、最初に唯物論の一端を説明せねばなりませぬ。

 さきに述べたるがごとく、俗物論と唯物論とは往々一致するところあれども、また大いに異なるところあれば、左にその異同表を示しましょう。

第一に、甲(俗物論)は不学無識の俗物連の唱うる霊魂滅亡論にして、乙(唯物論)は多少の知識学問を有する学者の唱うる無心論なるの別あり。

第二に、甲は生時に精神の実在を許して、死後に霊魂の不滅を否定し、乙は生時、死後ともに肉体の構造組織を離れて、精神、霊魂の存在を否定するの別あり。

第三に、甲は単に死後霊魂の滅亡を説くのみにて、(ごう)もその起源由来につきて論ぜず、乙は唯物無心の原理より、広く万般のことを論ずるの別あり。

 かくして、まず唯物論の大要を述ぶれば、この世界には物と心と並び存することは、だれも承知しているところなるが、この物と心との二者ともに実在せりと立つる論を、哲学上にては物心二元論と申します。通俗の霊魂不滅論者はもちろん、俗物の人たちはみな二元論者に相違ない。たとい霊魂滅亡論を唱うるにもせよ、生きている間は肉体と精神とともに存することを許す以上は、二元論の仲間であります。しかるに、この物心二元の本源、実体、および二者の関係を論ずるに当たり、だんだん推し究めたる結果、ついに二元ではなく一元であると申す論が起こりました。その一元論中にも、細別すれば幾とおりの学説もありて、あるいは神をもって二者の本源とし、あるいは真如(しんにょ)をもってその実体とし、あるいは物質をもって精神の本拠とし、あるいは精神をもって物質のおおもととする等、いちいち数え尽くすことはできませぬ。しかして、この物質をもって精神の本拠とする論を唯物一元論と称して、物質のほかに精神なく、精神は物力の変態に過ぎざるように申します。これに反して、精神をもって物質のおおもととする論を唯心一元論と称して、精神のほかに物質なく、物質は精神の現象に過ぎずと申します。

 この唯物論と唯心論とは古来の大敵手にして、互いに相争ってやまざるは、決して今日の自由党と進歩党との争いの比ではありませぬ。今、わが国に伝来せる神、儒、仏三道は、唯物とも唯心とも判定し難きも、やや唯心論に近き方にて、なかんずく仏教は一種の唯心論と申してよろしい。しかして、拙者も唯心論の一派なれば、唯物論とは積年の敵味方の間柄であります。よって、拙者は神、儒、仏三道の諸君とともに、あくまで力をあわせて唯物論の内閣を打ちこぼち、唯心内閣を造らねばなりませぬ。なかなかその困難は、藩閥(はんばつ)内閣を打ちこぼつよりは一層むつかしかろうと思います。なぜなれば、今日の唯物論はその本城を西洋の学術社会に置き、百科の理学を己の砲台としてその根拠を守る上に、わが国の中等以上の少々学問(ひげ)の生えたる連中は、多くその方に味方しておることなれば、これを攻撃するの困難はいうまでもなきことであります。しかれども、いかなる勁敵(けいてき)たりとも、(ごう)も恐るるに足らざることなれば、これより手に(つばき)して、唯物論者のとるところの無心論を退治してやりましょう。

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