9話 霊魂不滅論 第九回 物質中に精神を現ずべき理を具すること
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さてこれより、唯物論の第一則たる物質不滅の理法につきて論ずるに、拙者は決してその理法を攻撃するどころではなく、かえってこれによりて霊魂説を立て、あわせて唯物論を排するつもりでありますから、唯物論者は物質のほかに精神なしと申すなら、仮にその説を真理と許して考うるに、物質すでに不滅なる以上は、われわれの肉体は生前と死後とにわたりて、毫も増減生滅のあるべきはずはない。さすれば、その論はやはり霊魂不滅論となりましょう。なぜなれば、たとい精神は物質の作用にもせよ、物力の変態にもせよ、われわれの生時にありて精神作用の存することは、決して否定することができますまい。そうすると、物質の解釈の仕方によりては、精神は物質中に存するように考えてもよろしい。しかして物質全体が不滅ならば、その中に存する精神もまた不滅と考えて差し支えない。かく申さば、唯物論者は必ず答えて、「人の生時の精神は、別に一種の精神分子のごときものあるにあらずして、物質の作用に過ぎざれば、死時肉体が活動作用を失うと同時に、精神は滅するものである。いずくんぞこれを不滅と許すべけんや」というに相違ありませぬ。しからば、しばらくその説に従い、精神は物質の作用に過ぎずとして考うるも、物質の組織そのよろしきを得るに至れば、必ず精神作用を生ずることと定めねばなりますまい。すでにかく定めたる上は、人の死時ひとたび物質の組織破れて、精神の作用を現ぜざるに至るも、他日再び物質が適当の組織を有するに至らば、再び精神作用を現ずるに相違なく、もし前時と寸分も異なることなき組織を有するときは、前時と毫もたがわざる精神作用を発するに相違ないと考えます。果たしてしからば、肉体死して精神ひとたび滅するも、これ真に滅するにあらずして、一時その作用を休止したるまでなりと解して差し支えない。換言すれば、いやしくも物質相集まりて精神作用を生ずる事実ある以上は、物質その体の中に常に永く精神作用を生ずべき理は、依然として存するに相違ない道理であります。よってこの説も、霊魂不滅論の一種と定めてよかろうと思います。たとい霊魂は不滅なりと申すも、永き年月の間常にたえず働くわけではなく、ときどき休止中絶するものと定めて差し支えない。すでに人の一生中にても、夜中熟眠のときはもちろんのこと、その他おりおり精神の作用を中絶することあるも、なお一生中は精神不滅なりと申すではありませぬか。さすれば、死後永くその作用を中絶することあるも、やはり不滅といってよろしいと考えます。かつ、ここに一例を挙げて示さば、若干の柱と石と壁と瓦とを結合すれば、一棟の住家ができる以上は、これを分解すると同時に住家の形を失うも、なおその若干の柱、石等の中には、一棟の住家を現ずる理は依然として存するに相違なく、他日これらを集めて再び結合すれば、再び同一の住家を見るに至る以上は、その理は永く柱、石の中に存すと申してよろしい。これと同じく、物質そのものの中に精神を再現する理を具する以上は、精神不滅の理は物質中に永く存すと申して差し支えなかろうと考えます。
唯物論者はさらにこれに答えて、「われわれの肉体はひとたび不滅に帰する以上は、決して再びその形を結ぶことなし」と申すかも知れませぬ。しかれども、仮に人身は甲元素何匁、乙元素何匁、丙丁各何匁ずつ集まりてできるものと定むるに、無限の歳月、無窮の時間の間には、これと同一の割合をもって、各元素の結合することなしとは申されまい。これを天地自然の進化に一任するも、必ずかかる割合あるべき道理と考えます。例えば、シナの文字の五万も十万も数多き中から、二十八字を取り出せば、「月落烏啼霜満天、江楓漁火対愁眠、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船。」(月落ち烏啼いて、霜、天に満つ。江楓漁火、愁眠に対す。姑蘇城外、寒山寺。夜半の鐘声、客船に至る)の詩ができるとすれば、これを自然に任せても、無数回かかりて二十八字ずつ取り集むれば、必ず再びこれと同じき詩ができるに相違ない。この例に照らして、人の精神の再現を知ることができます。