鳥影

27話 (五)の四

1,508字 約3分 2008年11月11日 公開

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 (ちかづ)く俥の音は遠雷の如く二人の足に響いて、吊橋は心持揺れ出した。

 洋服姿の俥上の男は、麦藁帽の頭を俯向(うつむ)けて、膝の上の写真帖(スケツチブツク)に何やら書いてゐる――一目見て静子は、兄の話で今日あたり来るかも知れぬと聞いた吉野が、この人だと知つた。好摩(かうま)午後三時着の下り列車で着いて、俥だから線路伝ひの近道は取れず、態々(わざわざ)本道を渋民の町へ廻つて来たものであらう。智恵子も(また)、話は先刻(さつき)聞いたので、すぐそれと気が付いた。

『お嬢様(ぢやうさあ)、お嬢様(とこ)のお客様を乗せて来ただあ。』と、車夫の元吉は高い声で呼びかけ乍ら(かぢ)を止めて、

『あれがハア、小川様のお嬢様(じやうさあ)でがンす。』と俥上の人に言ふ。顔一杯に流れた汗を小汚い手拭でブルリと拭つた。

 智恵子は、自分がその小川家の者でない事を現す様に、一足後へ退(すさ)つた。その時、(かたへ)の静子の耳の紅くなつてゐる事に気がついた。

『あ、()うですか。』と、俥上の人は鉛筆を持つた手で帽子を()つて、

『僕は吉野満太郎(みつたらう)です。小川が――小川君が居ませうか?』

と武骨な調子で言ふ。

『ハ。』と静子は(つま)つた様な声を出して、『アノ、今日あたりお着き遊ばすかも知れないと、お噂致して居りました。』

『然うですか。ぢや手紙が着いたんですね?』と親げな口を利いたが、(ちよい)と俯向加減にして立つてゐる智恵子の方を偸視(ぬす)んで、

『失礼しました、俥の上で。……お先に。』と挨拶する。

『私こそ……。』と静子は初心(うぶ)に口の中で言つて頭を下げた。

『ドツコイシヨ。』と許り、元吉は俥を曳出(ひきだ)す。二人は(その)背後(あと)を見送つて呆然(ぼんやり)立つてゐた。

 吉野は、中背の、色の浅黒い見るから男らしく引緊つた顔で、力ある声は底に(さび)()つた。すぐ目に付くのは、眉と眉の間に深く刻まれた一本の皺で、烈しい気性の輝く眼は、美術家に特有の、何か不安らしい働きをする。

 俥が橋を渡り尽すと、路は少し低くなつて、繁つた楊柳(やなぎ)の間から、新しい吉野の麦藁帽が見える。橋はその時まで、少し揺れてゐた。

『私、(どんな)に困つたでせう、(こんな)扮装(なり)をしてゐて!』と静子は初めて友の顔を見た。

(そんな)に! 誰だつて平常(ふだん)には……』と慰め顔に言つて、

『貴女の(とこ)は、これからまた賑かね。』

 (それ)(ほん)の、ウツカリして言つたのだが、智恵子の眼は実際羨まし相であつた。

『アラ、だから貴女も毎日被来(いらつしや)いよ。これからお休暇(やすみ)なんですもの。』

『有難う。』と言つて、『私モウお別れするわ。何卒(どうぞ)皆様に宜敷!』

一寸(ちよいと)。』とその袂を捉へて、『可いわよ、智恵子さん、モ少し。』

『だつて。(あんな)に日が傾いちやつた。』と西の空を見る。眼は赤い光を宿して星の様に若々しく輝いた。

『構はないぢやありませんか、智恵子さん。家へ被来(いらつしや)いな(また)!』

『この次に。』と智恵子は沈着(おちつ)いた声で言つて、『貴女も早くお帰りなすつたが()いわ。お客様が被来(いらつしや)つたぢやありませんか。』と妹にでも言ふ様に。

『アラ、私のお客様ぢやなくつてよ。』と、静子は少し顔を染めた。心では、吉野が来た為に急いで帰つたと思はれるのが厭だつたので。

 それで、智恵子が袂を分つて橋を南へ渡り切るまでも、静子は鋼線(はりがね)(てすり)(もた)れて見送つてゐた。

 智恵子は考へ深い眼を足の爪先に落して、帰路(かへりぢ)を急いだが、其心にあるのは、(いつも)の様に、今日一日を(むだ)に過したといふ悔ではない。神は我と共にあり! と自ら慰め乍らも、矢張、静子が何がなしに羨まれた。が、宿の前まで来た頃は、自分にも解らぬ一種の希望が胸に湧いてゐた。

 で、家に入るや否や、お利代に泣付いて何か強請(ねだ)つてゐる五歳(いつつ)の新坊を、矢庭に両手で高く差上げて、

『新坊さん、新坊さん、新坊さん、奈何(どう)したんですよウ。』

と手荒く(くすぐ)つたものだ。

 新坊は、常にない智恵子の此挙動に喫驚(びつくり)して、泣くのは(はた)と止めて不安相に(おほき)く眼を《みは》つた。

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