27話 (五)の四
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近く俥の音は遠雷の如く二人の足に響いて、吊橋は心持揺れ出した。
洋服姿の俥上の男は、麦藁帽の頭を俯向けて、膝の上の写真帖に何やら書いてゐる――一目見て静子は、兄の話で今日あたり来るかも知れぬと聞いた吉野が、この人だと知つた。好摩午後三時着の下り列車で着いて、俥だから線路伝ひの近道は取れず、態々本道を渋民の町へ廻つて来たものであらう。智恵子も亦、話は先刻聞いたので、すぐそれと気が付いた。
『お嬢様、お嬢様許のお客様を乗せて来ただあ。』と、車夫の元吉は高い声で呼びかけ乍ら轅を止めて、
『あれがハア、小川様のお嬢様でがンす。』と俥上の人に言ふ。顔一杯に流れた汗を小汚い手拭でブルリと拭つた。
智恵子は、自分がその小川家の者でない事を現す様に、一足後へ退つた。その時、傍の静子の耳の紅くなつてゐる事に気がついた。
『あ、然うですか。』と、俥上の人は鉛筆を持つた手で帽子を脱つて、
『僕は吉野満太郎です。小川が――小川君が居ませうか?』
と武骨な調子で言ふ。
『ハ。』と静子は塞つた様な声を出して、『アノ、今日あたりお着き遊ばすかも知れないと、お噂致して居りました。』
『然うですか。ぢや手紙が着いたんですね?』と親げな口を利いたが、些と俯向加減にして立つてゐる智恵子の方を偸視んで、
『失礼しました、俥の上で。……お先に。』と挨拶する。
『私こそ……。』と静子は初心に口の中で言つて頭を下げた。
『ドツコイシヨ。』と許り、元吉は俥を曳出す。二人は其背後を見送つて呆然立つてゐた。
吉野は、中背の、色の浅黒い見るから男らしく引緊つた顔で、力ある声は底に錆を有つた。すぐ目に付くのは、眉と眉の間に深く刻まれた一本の皺で、烈しい気性の輝く眼は、美術家に特有の、何か不安らしい働きをする。
俥が橋を渡り尽すと、路は少し低くなつて、繁つた楊柳の間から、新しい吉野の麦藁帽が見える。橋はその時まで、少し揺れてゐた。
『私、甚に困つたでせう、這扮装をしてゐて!』と静子は初めて友の顔を見た。
『其に! 誰だつて平常には……』と慰め顔に言つて、
『貴女の許は、これからまた賑かね。』
其は真の、ウツカリして言つたのだが、智恵子の眼は実際羨まし相であつた。
『アラ、だから貴女も毎日被来いよ。これからお休暇なんですもの。』
『有難う。』と言つて、『私モウお別れするわ。何卒皆様に宜敷!』
『一寸。』とその袂を捉へて、『可いわよ、智恵子さん、モ少し。』
『だつて。那に日が傾いちやつた。』と西の空を見る。眼は赤い光を宿して星の様に若々しく輝いた。
『構はないぢやありませんか、智恵子さん。家へ被来いな再!』
『この次に。』と智恵子は沈着いた声で言つて、『貴女も早くお帰りなすつたが可いわ。お客様が被来つたぢやありませんか。』と妹にでも言ふ様に。
『アラ、私のお客様ぢやなくつてよ。』と、静子は少し顔を染めた。心では、吉野が来た為に急いで帰つたと思はれるのが厭だつたので。
それで、智恵子が袂を分つて橋を南へ渡り切るまでも、静子は鋼線の欄に靠れて見送つてゐた。
智恵子は考へ深い眼を足の爪先に落して、帰路を急いだが、其心にあるのは、例の様に、今日一日を空に過したといふ悔ではない。神は我と共にあり! と自ら慰め乍らも、矢張、静子が何がなしに羨まれた。が、宿の前まで来た頃は、自分にも解らぬ一種の希望が胸に湧いてゐた。
で、家に入るや否や、お利代に泣付いて何か強請つてゐる五歳の新坊を、矢庭に両手で高く差上げて、
『新坊さん、新坊さん、新坊さん、奈何したんですよウ。』
と手荒く擽つたものだ。
新坊は、常にない智恵子の此挙動に喫驚して、泣くのは礑と止めて不安相に大く眼を《みは》つた。