鳥影

34話 (八)の一

1,425字 約3分 2008年11月11日 公開

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 智恵子は渡辺の家に一泊して、渡辺の妹の久子といふのと翌一日(あくるついたち)大沢の温泉に着いたのであつた。その夕方までには、二十幾名の級友大方臨渓館といふ温泉宿の二階に、県下の各地方から集つた。

 兎角女といふものは、学校にゐる時は如何に親くても、一度別れて了へば心ならずも(うと)くなり易い。それは各々(おのおの)の境遇が変つて了ふ為で、智恵子等のそれは、卒業してからも同じ職業に就いてるからこそ、同級会といふ様なものも出来るのだ。三年の月日を姉と呼び妹と呼んで一棟の寄宿舎に起臥(おきふし)を共にした間柄、校門を辞して散々(ちりぢり)に任地に就いてからの一年半の(うち)に、身に心に変化のあつた人も多からうが、さて相共に顔を合せては、(おのづ)から気が楽しかつた寄宿舎時代に帰つた。数限りなき追憶(おもひで)が口々に語られた。気軽な連中は、階下の客の迷惑も心づかず、その一人が弾くヴアイオリンの音に伴れてダンスを始めた。()くて此若い女達は(あくる)二日の夜更までは何も彼も忘れて楽みに酔うた。欠席したのは四人、その一人は死に、その一人は病み、他の二人は懐妊中とのことで。――結婚したのはこの外にも五六人あつた。

 各々の任地の事情が、また、事細かに話し交された。語るべき友の乏しいといふ事、頭脳(あたま)の旧い校長の悪口、同じ師範出の男教員が案外不真面目な事、師範出以外の女教員の劣等な事、これらは大体に於て各々の意見が一致した。

 中に一人、智恵子の村の加藤医師と遠縁の親籍だといふのがあつた。その女から、智恵子は清子に宛てた一封の手紙を托された。

 その手紙を届けるべく、智恵子は渋民に帰つた翌日(あくるひ)の午前、何気なく加藤医院を訪づれたのであつた。

 玄関には、腰掛けたのや、上込んだのや、薄汚い扮装(なり)をした通ひの患者が八九人、詰らな相な顔をして、各自(てんで)に薬瓶の数多く並んだ棚や粉薬(こぐすり)を分量してゐる小生意気な薬局生の手先などを眺めてゐた。智恵子が其処へ入ると、(ありつ)たけの眼が等しく其美しい顔に(あつま)つた。

『奥様は?』

『ハイ。』と答へて、薬局生は(さじ)を持つた儘中に入つてゆく。居並ぶ人々は狼狽(うろた)へた様に居住ひを直した。諄々(くどくど)と挨拶したのもあつた。

 今朝髪を洗つたと見えて、智恵子は房々した長い髪を、束ねもせず、緑の雲を(かつ)いだ様に、肩から背に豊かになびかせた。白地に濃い葡萄色の矢絣(やがすり)の新しいセルの単衣に、帯は平常(ふだん)のメリンス、その整然(きちん)としたお太鼓が揺めく髪に隠れた。

 少し手間取つて、(そそくさ)と小走りに清子が出て来た。

『マア日向先生、何日(いつ)お帰りになりましたの? サ何卒(どうぞ)。』

『ハ有難う。昨日夕方に帰りました(ばつか)りで。』

『お楽みでしたわねえ。サ何卒お上り下さいまし、……アノ小川(さん)のお客様も被来(いらつしつ)てますから。』

『ハ?』と智恵子は、脱ぎかけた下駄を止めた。

『吉野さんとか被仰(おつしや)る、画をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰(おつしや)つてで御座いますよ。』

『アノ、吉野さんが?』

『え。宅が小川(さん)で二三度お目にかゝりました相で、……昌作(さん)とお二人。マ何卒。』

『ハ有難う、アノウ……。』と言ひ乍ら、智恵子は懐から例の手紙を取出して、手短に其由来(わけ)を語つて清子に渡した。

『マ然うでしたか。それは()うも。……それは然うと、サ、サ。』と、手を引く許りにする。

『アノ一寸学校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』

『アラ、日向(さん)(そんな)貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、

真箇(ほんと)よ、奥様(おくさん)。何れ後で。』

 智恵子は逃げる様にして戸外(そと)に出た、と、忽ち顔が火の様に(ほて)つて、恐ろしく動悸がしてるのに気がついた。

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