鳥影

36話 (八)の三

1,442字 約3分 2008年11月11日 公開

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 やや急な西向の傾斜、幾年(いくとせ)の落葉の朽ちた土に心地よく下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、処々、虎斑(とらふ)の様に影を落して、そこはかとなく揺めいた。細き太き、数知れぬ樹々の梢は参差(しんし)として相交つてゐる。

 (そその)かす様な青葉の香が、頬を撫で、髪に戯れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。

『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隠れに昼杜鵑が啼く。酔つた様な、愉しい様な、切ない様な、若い胸の底から漂ひ出る様な声だ。その声が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何処ともなき青葉の《さや》ぎ!

 と、少し隔つた彼方(かなた)から、『ククヽヽクウ』と同じ声が起る。

『ククヽヽクウ、ククヽヽクウ。』と、背後(うしろ)の方からも。

漂へる声(ワンダリングブオイス)』とライダル湖畔の詩人が(うた)つた。それだ、全くそれだ。甘き青葉の香を吸ひ、流れるこの鳥の声を聞いては、身は詩人でなくても、魂が胸を出て、声と共にそこはかとなく森の下蔭を小迷(さまよ)うてゆく思ひがする。

 声の在所(ありか)(もと)むる如く、キヨロ/\と落着かぬ様に目を働かせて、径もなき木蔭地(こさぢ)の湿りを、智恵子は樹々の間を其方(そなた)に抜け此方(こなた)に潜る。夢見る人の足調(あしどり)とは是であらう。髪は肩に乱れ、胸に波打ち、ハラ/\と顔にも懸る。それを払はうとするでもない。

 故もなく胸が騒いでゐる。酔つた様な、(たの)しい様な、切ない様な……宛然(さながら)葉隠の鳥の声の、何か定めなき思ひが、総身の脈を乱してゐる。

『ククヽヽクウ』と鳥の声。

「私ほど辛い悲しいものはない!」

 ()う理由のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。ただ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。

『吉野さんが町に、加藤の(うち)に来てゐる。』智恵子に解つてるのは之だけだ。

 初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の挙動(やうす)は、今猶明かに心に残つてゐる。然し言葉を交したのでもない。友の静子は耳の根迄紅くなつてゐた。その静子は又、自分とアノ人が端なくも車に乗合せて盛岡に行く時、田圃に出て(ハンケチ)を振つた。静子の底の底の心が、何故か自分に解つた様な気がする。

『何故那時(あのとき)、私はアノ人の背後(うしろ)に隠れたらう?』恁う智恵子は自分に問うて見る。我知らず顔が紅くなる。

 其晩、同じ久子の家に泊つた。久子兄妹とアノ人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の夜の風を、四人は(どんな)(うれ)しんだらう! 久子の兄とアノ人との会話(はなし)が、解らぬ乍らに甚に面白かつたらう!

『君は天才なんだ。』()う久子の兄が幾度(いくたび)真摯(まじめ)に言つた。何かの話の時、

矢張(やつぱり)女といふものは全く放たれる事が出来ん。男は結局一人ぼつちよ、死ぬまで。』

とアノ人が言つた!

 翌日(あくるひ)久子と大沢に行つて、昨日午前再び下小路(しもこうぢ)なる久子の家まで帰つた。

『日向(さん)は何日お帰りになります?』恁うアノ人が言つた。

明日(あした)になさいな、ねえ!』と久子が(かたは)らから言つた、『吉野(さん)も然う遊ばせな何卒。』

(いや)、僕は今日午後に発ちます。』

 遂に同じ汽車で帰つて、再会を約して好摩が原で別れた。

『それだけだ。』と智恵子は言つて見た。何が(それだけ)なのか解らぬ。(それだけ)が()れだけなのか解らぬ。

 解つてるのは、その吉野が今昌作と二人加藤の家にゐる事だけだ。或はモウ、加藤の家を出たかも知れぬ。出て(さう)して、何処へ? 何処へ?

『ククヽヽクウ。』といふ声は(ずつ)背後(うしろ)に聞えた。智恵子は何時しか雑木の木立を歩み尽きて、幾百本の杉の暗く茂つた、急な坂の上に立つてゐた。

 (きつ)と其下の方を見て居たが、何を思つてか、智恵子は(いそが)しく其急な坂を(くだ)り初めた。

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