38話 (八)の五
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胸を轟かして待つた其人では無くて訪ねて来たのは信吾であつた。智恵子は何がなしにバツが悪く思つた。
信吾は常に変らぬ態度乍らも、何処か落着かぬ様で、室に入ると不図気がさした様に見巡して坐つたが、今まで客のあつたとも見えぬ。
『吉野君が来なかつたですか?』
『否。』と対手の顔色を見る。
『来ない? 然うですか、何処へ行つたかなア。ハテナ、』と、信吾は是非逢はねばならぬ用でもある様に考へる。
『アノ、お一人でお出懸になつたんで御座いますか?』
『昌作と二人です、今朝出たつ限まだ帰らないんですが、多分貴女ン許かと思つて伺つたんです。』
何故此家に居ると思つたか、此家に来ると其人が言つて出たのか、又、若し真に用があるのなら、午前中確かに居た筈の加藤へ行つて聞けば可い。言ひ方は様々あつたが、智恵子は膝に目を落して、唯、
『否。』と許り。
危険い芸当を行つてるといふ様な気がして、心が咎める。
『ハテナ。』と、信吾はまた大袈裟に考へ込む態を見せて、『実は何です、家に親類の者が来てゐて僕は今朝出られなかつたんですが、一寸今、用が出来たもんですから探しに来たんです。』
『何方か他にお尋ねになつたんで御座いますか?』
『否、』と信吾は少許困つて、『……真直に此方へ。』
『此家へ被来るとでも被御つて、お出懸になられたんで御座いますか?』
『然うぢやないんですが、唯、多分然うかと思つたんで。』
『奈何してで御座いますか?』
『ハツハハ。』と、男は突然大きく笑つた。『違ひましたね。それぢや何処へ行つたかなア!』
智恵子は黙つて了つた。
『盛岡でお逢ひになつたんですつてね、吉野に?』
『え。渡辺様といふお友達の家に参りましたが、その方の兄さんとお親い方だとかで……アノ、些とお目に懸つたんで御座います。』
『巧く言つてやがらア、畜生奴!』と、心の中。『甚男です、貴女の見る所では?』
智恵子は不快を感じて来た。
『奈何ツて、別に……。』
『僕は、那した男が大好ですよ。僕の知つてる美術家連中も少くないが、吉野みたいな気持の好い、有望な男は居ませんよ……。』と、信吾は誇張した言方をして、女の顔色を見る。
『然うで御座いますか。』と言つた限、智恵子は真面目な顔をしてゐる。
話は遂にはづまなかつた。智恵子には若しや恁うしてる所へ其人が来はせぬかといふ心配がある。そして、其人に関する事を言ひ出されるのが、何がなしに侮辱されてる様な気がする。信吾は信吾で、妙に皮肉な考へ許り頭脳に浮んだ。
それでも、四十分許り対向つてゐて、不図気が付いた様にして信吾はその家を辞した。
『畜生奴!』
恁う先づ心に叫んだ。
元が用があつて探しに来たのでも無いのだから、その儘家路を急いだ。母は二三日前からまた枕に就いた。父は留守。其処へ饒舌家の叔母が小供達と共に泊りに来たのが、今朝も信吾は其叔母に捉まつて出懸けかねた。吉野は昌作を伴れて出懸けた。午後になつて父が帰ると、信吾は何となく吉野と智恵子の事が気に掛つた。それは一つは退屈だつた為でもある。
モ一つには、その二人が自分の紹介も待たずして知己になつたのが、訳もなく不愉快なのだ。秘して置いた物を他人に勝手に見られた様な感じが、信吾の心を焦立せてゐる。
『今日は奈何して、那冷淡だつたらう?』と、智恵子の事を考へ乍ら、信吾は強く杖を揮つて、路傍の草を自暴に薙倒した。