鳥影

38話 (八)の五

1,377字 約3分 2008年11月11日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 胸を(とどろ)かして待つた其人では無くて訪ねて来たのは信吾であつた。智恵子は何がなしにバツが悪く思つた。

 信吾は常に変らぬ態度(やうす)乍らも、何処か落着かぬ様で、室に入ると不図気がさした様に見巡(みまは)して坐つたが、今まで客のあつたとも見えぬ。

『吉野君が来なかつたですか?』

(いいえ)。』と対手の顔色を見る。

『来ない? 然うですか、何処へ行つたかなア。ハテナ、』と、信吾は是非逢はねばならぬ用でもある様に考へる。

『アノ、お一人でお出懸になつたんで御座いますか?』

昌作(しやうさん)と二人です、今朝出たつ(きり)まだ帰らないんですが、多分貴女(あんた)(とこ)かと思つて伺つたんです。』

 何故此家(ここ)に居ると思つたか、此家に来ると其人が言つて出たのか、又、若し(しん)に用があるのなら、午前中確かに居た筈の加藤へ行つて聞けば可い。言ひ方は様々あつたが、智恵子は膝に目を落して、唯、

(いいえ)。』と許り。

 危険(あぶな)い芸当を()つてるといふ様な気がして、心が咎める。

『ハテナ。』と、信吾はまた大袈裟に考へ込む(さま)を見せて、『実は何です、(うち)に親類の者が来てゐて僕は今朝出られなかつたんですが、一寸今、用が出来たもんですから探しに来たんです。』

何方(どちら)か他にお尋ねになつたんで御座いますか?』

(いいえ)、』と信吾は少許(すこし)困つて、『……真直に此方(こちら)へ。』

此家(ここ)被来(いらつしや)るとでも被御(おつしや)つて、お出懸になられたんで御座いますか?』

『然うぢやないんですが、唯、多分然うかと思つたんで。』

奈何(どう)してで御座いますか?』

『ハツハハ。』と、男は突然(いきなり)大きく笑つた。『違ひましたね。それぢや何処へ行つたかなア!』

 智恵子は黙つて了つた。

『盛岡でお逢ひになつたんですつてね、吉野に?』

『え。渡辺(さん)といふお友達の家に参りましたが、その方の兄さんとお親い方だとかで……アノ、(ちよつ)とお目に懸つたんで御座います。』

『巧く言つてやがらア、畜生()!』と、心の(うち)。『(どんな)男です、貴女の見る所では?』

 智恵子は不快を感じて来た。

奈何(どう)ツて、別に……。』

『僕は、(ああ)した男が大好(だいすき)ですよ。僕の知つてる美術家連中(なかま)も少くないが、吉野みたいな気持の好い、有望な男は居ませんよ……。』と、信吾は誇張した言方をして、女の顔色を見る。

『然うで御座いますか。』と言つた(きり)、智恵子は真面目な顔をしてゐる。

 話は遂にはづまなかつた。智恵子には若しや()うしてる所へ其人が来はせぬかといふ心配がある。そして、其人に関する事を言ひ出されるのが、何がなしに侮辱されてる様な気がする。信吾は信吾で、妙に皮肉な考へ許り頭脳(あたま)に浮んだ。

 それでも、四十分許り対向(むかひあ)つてゐて、不図気が付いた様にして信吾はその家を辞した。

『畜生奴!』

 恁う先づ心に叫んだ。

 元が用があつて探しに来たのでも無いのだから、その儘家路を急いだ。母は二三日前からまた枕に就いた。父は留守。其処へ饒舌家(おしやべり)の叔母が小供達と共に泊りに来たのが、今朝も信吾は其叔母に(つか)まつて出懸けかねた。吉野は昌作を伴れて出懸けた。午後になつて父が帰ると、信吾は何となく吉野と智恵子の事が気に掛つた。それは一つは退屈だつた為でもある。

 モ一つには、その二人が自分の紹介も待たずして知己(ちかづき)になつたのが、訳もなく不愉快なのだ。(かく)して置いた物を他人(ひと)に勝手に見られた様な感じが、信吾の心を焦立せてゐる。

『今日は奈何して、(ああ)冷淡だつたらう?』と、智恵子の事を考へ乍ら、信吾は強く(ステツキ)を揮つて、路傍(みちばた)の草を自暴(やけ)薙倒(なぎたふ)した。

目次に戻る

目次