鳥影

51話 (十一)の二

1,469字 約3分 2008年11月11日 公開

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 恰度(ちやうど)鶴飼橋へ差掛つた時、円い十四日の月がユラ/\と姫神山の上に昇つた。空は雲一片(ひとつ)なく穏かに晴渡つて、紫深く(くろず)んだ岩手山が、歴然(くつきり)夕照(せきせう)の名残の中に浮んでゐる。

 (ほんの)りと暗い中空(なかぞら)には、弱々しい星影が七つ八つ、青びれて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第/\に高く上る。町からはモウ太鼓の響が聞え出した。

 たとへ何を言つたとて小妹(いもうと)共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ静子の心は、言ふ許りなく動悸(ときめ)いてゐた。家には媒介者(なかうど)が来てゐる。松原との縁談は静子の絶対に好まぬ所だ。その話の発落(なりゆき)()うして歩いてゐ乍らも心に懸らぬではない。否、それが心に懸ればこそ、静子は種々(いろいろ)の思ひを胸に畳んだ。

『若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! (いな)、若し此人が現在自分の夫であつたら!』

 月明かに静かな四辺(あたり)の景色と、遠き太鼓の響とは、静子の此心境(ここち)適合(ふさは)しかつた。静子は小妹(いもうと)共の罪なき言葉に吉野と声を合して笑ひ乍ら、何がなき心強さと嬉しさを禁ずることが出来なかつた。よし何事が次いで起らなかつたにしても、静子は此夜の心境(ここち)を忘れる事は出来ぬであらう。

 松原からの縁談は、その初め、当の対手の政治に対する嫌悪の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な思慮(かんがへ)やら或る侮辱の感やらで、静子は兄に手頼(たよ)つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの静子は、今迄の理由の外に、モ一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出来た。

 恰度橋の上に来た時である。

『此処で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』

 ()う静子は慣々(なれなれ)しく言つてみた。月は其夢みる様な顔を照した。

()うでしたねえ!』

と吉野は答へた。そして、何か思出した様に少許(すこし)俯向(うつむ)いて黙つた。

 その態度(やうす)は、屹度()の時の事を詳しく思出してるのだと静子に思はせた。静子も強ひて其時の事を思出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき満足を与へた。

 が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。(かれ)は、信吾が屹度智恵子の(うち)にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに帰らなかつた申訳をするだらうと想像してゐた。

 町に入ると、常ならぬ花やかな光景(けしき)が、土地慣れぬ吉野の目に珍しく映つた。家々の軒には、怪気(あやしげ)な画や「豊年万作」などの字を書いた古風の行燈(あんどん)や提灯が掲げてある。街路(みち)の両側には、門々に今を盛りと樺火(かばび)が焚いてある。其赤い火影(ほかげ)が、一筋町の賑ひを楽しく照して、晴着を飾つた徂来(ゆきき)の人の顔が何れも/\酔つてる様に見える。

 町は悦気(たのしげ)密語(さざめき)に充ちた。寄太鼓(よせだいこ)の音は人々の心を誘ふ。其処此処に新しい下駄を穿いた小児(こども)らが集つて、樺火で煎餅などを焼いてゐる。火が()ぜて火花が街路(みち)に散る。年長(としかさ)な小児らは勢ひ込んで其(なら)んだ火の上を跳ねてゆく。恰度夕餉(ゆふげ)の済んだところ。赤い着物を着た女児共(をんなのこども)は、打連れて太鼓の音を(あて)にさゞめいて行く。

 町も端れの智恵子の宿の前には、消えかかつた樺火を取巻いて四五人の小児等がゐた。

『梅ちやん! 梅ちやん!』

と、小妹共(いもうとども)が先づ駆け寄る。(その)(うしろ)から静子は、

『梅ちやん、先生は?』

と優しく言ひながら近づいた。

 静子は直ぐ気が付いた。梅ちやんの着てゐる紺絣(こんがすり)単衣(ひとへ)、それは嘗て智恵子の平常着(ふだんぎ)であつた!

あな我が君のなつかしさよ、

   まみゆる日ぞまたるる。

君は谷の百合、峰のさくら、

   うつし世にたぐひもなし。

 (うち)の中からは幽かに讃美歌の声が洩れる。信吾は居ない! 恁う吉野は思つた。

『先生! 先生!』と、梅ちやんは門口から呼ぶ。

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