51話 (十一)の二
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恰度鶴飼橋へ差掛つた時、円い十四日の月がユラ/\と姫神山の上に昇つた。空は雲一片なく穏かに晴渡つて、紫深く黝んだ岩手山が、歴然と夕照の名残の中に浮んでゐる。
仄りと暗い中空には、弱々しい星影が七つ八つ、青びれて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第/\に高く上る。町からはモウ太鼓の響が聞え出した。
たとへ何を言つたとて小妹共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ静子の心は、言ふ許りなく動悸いてゐた。家には媒介者が来てゐる。松原との縁談は静子の絶対に好まぬ所だ。その話の発落が恁うして歩いてゐ乍らも心に懸らぬではない。否、それが心に懸ればこそ、静子は種々の思ひを胸に畳んだ。
『若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! 否、若し此人が現在自分の夫であつたら!』
月明かに静かな四辺の景色と、遠き太鼓の響とは、静子の此心境に適合しかつた。静子は小妹共の罪なき言葉に吉野と声を合して笑ひ乍ら、何がなき心強さと嬉しさを禁ずることが出来なかつた。よし何事が次いで起らなかつたにしても、静子は此夜の心境を忘れる事は出来ぬであらう。
松原からの縁談は、その初め、当の対手の政治に対する嫌悪の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な思慮やら或る侮辱の感やらで、静子は兄に手頼つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの静子は、今迄の理由の外に、モ一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出来た。
恰度橋の上に来た時である。
『此処で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』
恁う静子は慣々しく言つてみた。月は其夢みる様な顔を照した。
『然うでしたねえ!』
と吉野は答へた。そして、何か思出した様に少許俯向いて黙つた。
その態度は、屹度那の時の事を詳しく思出してるのだと静子に思はせた。静子も強ひて其時の事を思出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき満足を与へた。
が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。渠は、信吾が屹度智恵子の家にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに帰らなかつた申訳をするだらうと想像してゐた。
町に入ると、常ならぬ花やかな光景が、土地慣れぬ吉野の目に珍しく映つた。家々の軒には、怪気な画や「豊年万作」などの字を書いた古風の行燈や提灯が掲げてある。街路の両側には、門々に今を盛りと樺火が焚いてある。其赤い火影が、一筋町の賑ひを楽しく照して、晴着を飾つた徂来の人の顔が何れも/\酔つてる様に見える。
町は悦気な密語に充ちた。寄太鼓の音は人々の心を誘ふ。其処此処に新しい下駄を穿いた小児らが集つて、樺火で煎餅などを焼いてゐる。火が爆ぜて火花が街路に散る。年長な小児らは勢ひ込んで其列んだ火の上を跳ねてゆく。恰度夕餉の済んだところ。赤い着物を着た女児共は、打連れて太鼓の音を的にさゞめいて行く。
町も端れの智恵子の宿の前には、消えかかつた樺火を取巻いて四五人の小児等がゐた。
『梅ちやん! 梅ちやん!』
と、小妹共が先づ駆け寄る。其後から静子は、
『梅ちやん、先生は?』
と優しく言ひながら近づいた。
静子は直ぐ気が付いた。梅ちやんの着てゐる紺絣の単衣、それは嘗て智恵子の平常着であつた!
あな我が君のなつかしさよ、
まみゆる日ぞまたるる。
君は谷の百合、峰のさくら、
うつし世にたぐひもなし。
家の中からは幽かに讃美歌の声が洩れる。信吾は居ない! 恁う吉野は思つた。
『先生! 先生!』と、梅ちやんは門口から呼ぶ。