7話 (二)の二
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智恵子の泊つてゐる浜野といふ家は町でもズツと北寄の――と言つても学校からは五六町しかない――寺道の入口の小い茅葺家がそれである。智恵子が此家の前まで来ると、洗晒しの筒袖を着た小造の女が、十許りの女の児を上框に腰掛けさせて髪を結つてやつて居た。
それと見た智恵子は直ぐ笑顔になつて、溝板を渡りながら、
『只今。』
『先生、今日は少し遅う御座んしたなツす。』
『ハ。』
『小川の信吾さんが、学校にお出で御座んしたらう?』
『え、被来てよ。』と言つた顔は心持赧かつた。『それに今日は三十日ですから少し月末の調べ物があつて……。』と何やら弁疎らしく言ひながら、下駄を脱いで、『アノ、郵便は来なくつて、小母さん?』
『ハ、何にも……然う/\、先刻静子さんがお出になつて、アノ、兄様もお帰省になつたから先生に遊びに被来て下さる様にツて。』
『然う? 今日ですか?』
『否。』と笑を含んだ。『何日とも被仰らな御座んした。』
『然うでしたか。』と安心した様に言つて、『祖母さんは今日は?』
『少し好い様で御座んす。今よく眠つてあんすから。』
『夜になると何日でも悪くなる様ね。』と言ひながら、直ぐ横の破れた襖を開けて中を覗いた。薄暗い取散らかした室の隅に、臥床が設けてあつて、汚れた布団の襟から、彼方向の小い白髪頭が見えてゐる。枕頭には、漆の剥げた盆に茶碗やら、薬瓶やら、流通の悪い空気が、薬の香と古畳の香に湿つて、気持悪くムツとした。
智恵子は稍霎しその物憐れな室の中を見てゐたが、黙つて襖を閉めて、自分の室に入つて行つた。
上り口の板敷から、敷居を跨げば、大きく焚火の炉を切つた、田舎風の広い台所で、其炉の横の滑りの悪い板戸を開けると、六畳の座敷になつてゐる。隔ての煤びた障子一重で、隣りは老母の病室――畳を布いた所は此二室しかないのだ。
東向に格子窓があつて、室の中は暗くはない。畳も此処は新しい。が、壁には古新聞が手際悪く貼られて、真黒に煤びた屋根裏が見える、壁側に積重ねた布団には白い毛布が被つて、其に並んだ箪笥の上に、枕時計やら鏡台やら、種々な手廻りの物が整然と列べられた。
脱いだ袴を畳んで、桃色メリンスの袴下を、同じ地の、大きく菊模様を染めた腹合せの平生帯に換へると、智恵子は窓の前の机に坐つて、襟を正して新約全書を開いた。――これは基督教信者なる智恵子の自ら定めた日課の一つ。五時間の授業に相応に疲れた心の兎もすれば弛むのを、恁うして励まさうとするのだ。
展かれたのは、モウ手癖のついてゐる例の馬太伝第二十七章である。智恵子は心を沈めて小声に読み出した。縛られた耶蘇がピラトの前に引出されて罪に定められ、棘の冕を冠せられ、其面に唾せられ、雨の様な嘲笑を浴びて、遂にゴルゴタの刑場に、二人の盗賊と相並んで死に就くまでの悲壮を尽した詩――『耶蘇また大声に呼りて息絶たり。』と第五十節迄読んで来ると、智恵子は両手を強く胸に組合せて、稍暫し黙祷に耽つた。何時でも此章を読むと、言ふに言はれぬ、深い/\心持になるのだ。
軈て智恵子は、昨日来た朋友の手紙に返事を書かうと思つて、墨を磨り乍ら考へてゐると、不図、今日初めて逢つた信吾の顔が心に浮んだ。………
恰度此時、信吾は学校の門から出て来た。