鳥影

7話 (二)の二

1,332字 約3分 2008年11月11日 公開

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 智恵子の泊つてゐる浜野といふ家は町でもズツと北寄の――と言つても学校からは五六町しかない――寺道の入口の小い茅葺家(かやぶきや)がそれである。智恵子が此家(ここ)の前まで来ると、洗晒しの筒袖を着た小造の女が、十許りの女の児を上框(あがりがまち)に腰掛けさせて髪を結つてやつて居た。

 それと見た智恵子は直ぐ笑顔になつて、溝板を渡りながら、

『只今。』

『先生、今日は少し遅う御座(ごあ)んしたなツす。』

『ハ。』

『小川の信吾さんが、学校にお(いで)御座(ごあ)んしたらう?』

『え、被来(いらしつ)てよ。』と言つた顔は心持(あか)かつた。『それに今日は三十日ですから少し月末の調べ物があつて……。』と何やら弁疎(いひわけ)らしく言ひながら、下駄を脱いで、『アノ、郵便は来なくつて、小母さん?』

『ハ、何にも……然う/\、先刻(さつき)静子さんがお出になつて、アノ、兄様(にいさん)もお帰省(かへり)になつたから先生に遊びに被来(いらしつ)て下さる様にツて。』

『然う? 今日ですか?』

(いいえ)。』と笑を含んだ。『何日(いつ)とも被仰(おつしや)らな御座(ごあ)んした。』

『然うでしたか。』と安心した様に言つて、『祖母(おばあ)さんは今日は?』

『少し()い様で御座んす。今よく眠つてあんすから。』

『夜になると何日でも悪くなる様ね。』と言ひながら、直ぐ横の破れた襖を開けて中を覗いた。薄暗い取散らかした室の隅に、臥床(ふしど)が設けてあつて、汚れた布団の襟から、彼方向(あちらむき)の小い白髪頭が見えてゐる。枕頭(まくらもと)には、漆の剥げた盆に茶碗やら、薬瓶やら、流通の悪い空気が、薬の()と古畳の香に湿つて、気持悪くムツとした。

 智恵子は稍(しば)しその物憐れな室の中を見てゐたが、黙つて襖を閉めて、自分の室に入つて行つた。

 上り口の板敷から、敷居を跨げば、大きく焚火の炉を切つた、田舎風の広い台所で、其炉の横の滑りの悪い板戸を開けると、六畳の座敷になつてゐる。隔ての(すす)びた障子一重で、隣りは老母の病室――畳を布いた所は此二室(ふたま)しかないのだ。

 東向に格子窓があつて、(へや)の中は暗くはない。畳も此処は新しい。が、壁には古新聞が手際悪く貼られて、真黒(まつくろ)に煤びた屋根裏が見える、壁側に積重ねた布団には白い毛布が(かか)つて、(それ)に並んだ箪笥の上に、枕時計やら鏡台やら、種々(いろん)な手廻りの物が整然(きちん)と列べられた。

 脱いだ袴を畳んで、桃色メリンスの袴下(はかました)を、同じ地の、大きく菊模様を染めた腹合せの平生(ふだん)帯に換へると、智恵子は窓の前の机に坐つて、襟を正して新約全書(バイブル)を開いた。――これは基督教信者(クリスチヤン)なる智恵子の自ら定めた日課の一つ。五時間の授業に相応に疲れた心の()もすれば弛むのを、()うして励まさうとするのだ。

 (ひら)かれたのは、モウ手癖のついてゐる(いつも)馬太(マタイ)伝第二十七章である。智恵子は心を沈めて小声に読み出した。縛られた耶蘇(イエス)がピラトの前に引出されて罪に定められ、(いばら)(かんむり)を冠せられ、其(おもて)に唾せられ、雨の様な嘲笑を浴びて、遂にゴルゴタの刑場に、二人の盗賊(ぬすびと)と相並んで死に就くまでの悲壮を尽した詩――『耶蘇(イエス)また大声に(よばは)りて息絶たり。』と第五十節迄読んで来ると、智恵子は両手を強く胸に組合せて、稍暫し黙祷に耽つた。何時でも此章を読むと、言ふに言はれぬ、深い/\心持になるのだ。

 (やが)て智恵子は、昨日(きのう)来た朋友(おともだち)の手紙に返事を書かうと思つて、墨を磨り乍ら考へてゐると、不図、今日初めて逢つた信吾の顔が心に浮んだ。………

 恰度此時、信吾は学校の門から出て来た。

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