5話 五、失神
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船が着いて、船客は一人残らず上陸してしまったのに、まだ私が姿を見せない。部屋には鍵がかかっている。というのでまず第一に迎えに来てくれた同僚が心配をしはじめた。事務長に頼んで合鍵で開けてみると、室内は少しも取り乱されていないが、肝心の私の姿はどこにもない。どうも不思議だ。そこで船員達は手分けして船中隈なく探すことになったがやはり見つからない。勿論上陸していない証拠には荷物だってそのままに残っている。事によったら殺されたのじゃあるまいか、殺されて海中に投げ込まれたのかも知れない。などと云い出すものもあって、急に大騒ぎになった。
軈て水夫の一人が船底に近い物置部屋で私を発見したのだった。
私はそこで毛布に包まれて、死んだようになって眠っていた。
揺り動かされてもなかなか眼を開けなかった。が、軈て船員達や出迎えに来てくれた同僚の顔が段々判然と見えてきて意識を回復すると、急いで胴中に手をやった。そして愕然とした。
私は皆が止めるのもきかないで夢中で飛び起き、物置部屋を出たが、どこに自分の部屋があったのか見当さえもつかなくなった。
私はボーイに案内してもらって、自分の室へ入ると急いで中から鍵をかけた。
洋服を脱ぎ胴巻をとって改めて見たが、大切な暗号はどこにもない。大変だ! かあッとして全身の血が一時に頭にのぼるように思った。
眩暈がして倒れそうになったが、軈ていくらか落付きを取り戻し、冷静になると昨夜からのいろいろのことが頭に浮んできた。
ウイスキーを飲んだ。チョコレートを食べた。お父さんの話を聞きながら眠くなって――。それからあとはどうしても思い出せない。
しかしどうして私を物置部屋まで運び込んだのだろう。暗号を盗むだけが目的なら、そんな手数をかけないで殺してしまえばいいじゃないか。また殺さないでもあれほど意識を失なっているのだから、暗号を取り出す位何でもあるまい。わざわざ遠方の船底近くまで連れ込まないだって、と、ここまで考えてきた時、始めて彼等の用意周到な計画に気がついたのだった。
乗客が上陸してしまってから、私の紛失に気がついて、船員達が発見するまでには相当の時間がかかる、彼等はその時間が欲しかったのだ。その間に充分ある目的を達し得られる、それには容易に発見出来ない物置部屋のような処を選ぶ必要があったのだろうが、しかし私としてはむしろ殺された方がよかった。この重大な過失をやった私はまあどうしたらいいだろう? そう思うと、全く生きているそらはなかった。が、一刻も早く訴え出なければならない。愚図々している場合でないので、悲壮な決心をして立ち上り、ズボンに手を突込んで手巾を出そうとした拍子に、ぱらりと落ちた紙片があった。小さく折り畳んであったが、ちょっと気にかかったので拾い上げてひろげてみた。
『あなたは嘗て、トワンヌのなかにあるチックという小説をお読みなったことがありますか?
あなたの興味をそそった物語は、勿論私達の身の上話ではありません。
夫はある人への暗号通信以外に空中に英文を書く必要もないし、従って妻の白い手袋の中にある五本の指もみな無事について居ります。
愛国心に燃ゆる吾々が、ある目的のため危険を冒す場合に演じる一幕は、役者が命がけでやっている芸なのですから、見物人が魂を奪われたって仕方がありますまい。しかもあなたの場合は薬まで呑まされているのですから――。多分罪にはなるまいと思います。またそうあろうことを希望してやみません。一時にせよお互はよいお友達であったのですから。
無断で拝借した暗号はなるべく早くお返しするようにいたします。それまであなたが今のまま安らかに眠りつづけていて下すったら――、と念じつつ――』
そこまで読むと私はその紙片をびりびりに引裂いて床の上にたたきつけ、扉を開けて外へ出た。
「お待ちどおさまでした、さあお伴いたしましょう」
同僚と一緒に桟橋を降りると、そこに待たせてあった自動車に乗った。