接吻

1話

802字 約2分 2016年12月8日 公開

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 近頃は有頂天(うちょうてん)山名宗三(やまなそうぞう)であった。何とも云えぬ暖かい、柔かい、薔薇色(ばらいろ)の、そして(かおり)のいい空気が、彼の身辺を包んでいた。それが、お役所のボロ机に向って、コツコツと仕事をしている時にでも、さては、同じ机の上でアルミの弁当箱から四角い飯を食っている時にでも、四時が来るのを遅しと、役所の門を飛び出して、柳の街路樹の下を、木枯(こがらし)の様にテクついている時にでも、いつも彼の身辺にフワフワと漂っているのであった。

 というのは、山名宗三、この一月ばかり前に新妻を迎えたので、しかも、それが彼の恋女房であったので。

 さてある日のこと、例の四時を合図に、まるで授業の済んだ小学生の様に帰り急ぎをして、課長の村山(むらやま)が、まだ机の上をゴテゴテ取片づけているのを尻目(しりめ)にかけて、役所を駈け出すと、彼は真一文字に自宅へと急ぐのであった。

 赤い手絡(てがら)のお(はな)は、例の茶の間の長火鉢(ながひばち)(もた)れて、チャンと用意の出来たお膳の前に、クツクツ笑いながら(何てお花はよく笑う女だ)ポッツリと坐っていることであろう。玄関の格子が開いたら、(うさぎ)の様に飛び出す用意をしながら、今か今かと俺の帰りを待っていることであろう。テヘヘ、何てまあ可愛い奴だろう。そんな風にはっきり考えた訳ではないが、山名宗三の道々の心持を図解すると、まあこういったものであった。

「今日は一つ、(やっこ)さん、おどかしてやるかな」

 自宅の門前に近づくと、宗三はニヤニヤ独笑(ひとりわら)いを浮べながら考えた。そこで、抜足差足(ぬきあしさしあし)、ソロリソロリと格子戸を開けて、玄関の障子を開けて、靴を脱ぐのも音のせぬ様に注意しながら、いきなり茶の間の前まで忍び込んだ。

「ここいらで、エヘンと咳ばらいでもするかな。いや待て待て。やつ独りでいる時にはどんな恰好をしているか、一寸(ちょっと)すき見をしてやれ」

 で、障子の破れから茶の間の中を覗いて見ると、さあ大変、山名宗三、青くなって硬直した。というのは、そこに、いとも不思議な光景が演じられていたからで。

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