で、其処が温泉宿だ、と教へて、山間の崖を樹の茂つた細い路へ、……背負つて居た、丈の伸びた雑木の薪を、身躰ごと横にして、ざつと入つて行く。
しばらく、ざわ/\と鳴つて居た。
急に何だか寂しく成つて、酔ざめのやうな身震ひが出た。急いで、燈火を当に駆下りる、と思ひがけず、往には覚えもない石壇があつて、其を下切つた処が宿の横を流れる矢を射るやうな谿河だつた。――驚いたのは、山が二わかれの真中を、温泉宿を貫いて流れる、其の川を、何時の間に越へて、此の城趾の方へ来たか少しも覚えが無い。
岸づたひに、岩を踏んで後戻りを為て、橋の取着の宿へ帰つた、――此は前刻渡つて、向ふ越で、山路の方へ、あの婆さんの店へ出た橋だつた。
『お帰りなさいまし。』
と向ふ廊下から早足で、すた/\来懸つた女中が一人、雪枝を見て立停まつた。
『御緩り様で、』と左側の、畳五十畳計りの、だゞつ広い帳場、……真中に大な炉を切つた、其の自在留の、ト尾鰭を刎ねた鯉の蔭から、でつぷり肥つた赤ら顔を出して亭主が言ふ。
『同伴は帰つたらうね。』と聞いた時、雪枝は其の間違の無い事を信じながら、何だか胸がドキ/\した。
『奥方様で、はゝ、何や、一寸お見申せ。』と頤を向けると、其処に居た女中が、
『御一所では無かつたのでございますか。』
で、ばた/\と廊下を、直ぐに二階へ駆上つた。
何故か雪枝は他人を訪問に来たやうな心持に成つて、うつかり框際の広土間に突立つて居た。
山路から、後を跟けて来たらしい嵐が、袂をひら/\と煽つて、颯と炉傍へ吹込むと、燈が下伏に暗く成つて、炉の中が明く燃える。これが赫と、壁に並んだ提灯の箱に映る、と温泉の薫が芬とした。
五六段階子を残して、女中が廊下の高い処へ顔を出して、
『まだ、お帰り遊ばしません。』
『下りて来て、ちやんと申さぬかい、何ぢや、不作法な。』と亭主が炉端から上睨みを行る。
雪枝は一文字に其の前を突切つて、階子段を駆上り状に、女中と摺違つて、
『そんな筈は無い。そんな、お前、』と躾めるやうに言ひ/\飛上つたのであつた。
『それともお湯へお出でなさいましてですか、お座敷には居らつしやいませんですよ。』と小走りに跟いて来る。
固より女中が串戯を言ふわけは無い。居ないものは居ないので、座敷を見ると、あとを片附けて掃出したらしく、きちんと成つて、点けたての真を細めた台洋燈が、影を大きく床の間へ這はして、片隅へ二間に畳んだ六枚折の屏風が如何にも寂しい。
而して誰も居ない八畳の真中に、其の双六巌に似たと言ふ紫縞の座蒲団が二枚、対坐に据えて有つたのを一目見ると、天窓から水を浴びたやうに慄然とした。此処へも颯と一嵐、廊下から追つて来て座敷を吹抜けて雨戸をカタリと鳴らす。
恁うして、お浦に別かれるのが極つた運命では無からうかと思つた……
「浴室だ、浴室だ。見ておいで。と女中を追遣つて、倒れ込むやうに部屋に入つて、廊下を背後向きに、火鉢に掴つて、ぶる/\と震へたんです。……老爺さん。」
と雪枝は片手で胸を抱いた。
「亭主が上つて来ました。
『えゝ、一寸お引合はせ申しまする。此男が其の、明日双六谷の途中まで御案内しまするで。さあ、主、お知己に成つて置けや。』と障子の蔭に蹲んで居た山男に顔を出させる、と此が、今しがたつひ其処まで私を送つてくれた若いもの、……此方は其処どころぢや無い。」