「考へると、能くあんな中で寐られたものだ。」
と男は尚ほ半ば呟くやうに、
「言つて見れば敵の中だ。敵の中で、夜の明けるのを知らなかつたのは実に自分ながら度胸が可い。……いや、然うではない、一時死んだかも分らん。
然うだ、死んだと言へば、生死の分らなかつた、お前の無事な顔を見た嬉しさに、張詰めた気が弛んで落胆して、其つ切に成つたんだ。嘸お前は、待ちに待つた私と云ふものが、目の前に見えるか見えないに、だらしなく、ぐつたりと成つて了つて、どんなにか、頼みがひがないと怨んだらう。
真個、安心の余り気絶したんだと断念めて、許してくれ。寐たんぢやない。又、何うして寐られる……実は一刻も疾く、此の娑婆へ連出すために、お前の顔を見たらば其の時! 壇を下りるなぞは間弛ツこい。天守の五階から城趾へ飛下りて帰らう! 其の意気込みで出懸けたんだ、実際だよ。
が、彼の頂上から飛だ日には、二人とも五躰は微塵だ。五躰が微塵ぢや、顔も視られん、何にも成らない。然うすりや、何を救ふんだか、救はれるんだか、……何を言ふんだか、はゝはゝ。」
と取留めもなく笑つた拍子に、草を踏んだ爪先下りの足許に力が抜けたか、婦を肩に、恋の重荷の懸つた方の片膝をはたと支く、トはつと手を離すと同時に、婦の黒髪は頬摺れにづるりと落ちて、前伏に、男の膝へ背が偃つて、弱腰を折重ねた。
「あつ!」と慌しく、青年は其の帯の上へ手を掛けて、
「危い。あゝ、何て事だ。――お浦、」
と言つたは婦の名で。
「怪我はしないか、何処も痛めはしなかつたか。可、何ともない。」
婦が、あ、とも言はず、声の無いのを、過失はせぬ事、と頷いて、さあ、起たうとすると些とも動かぬ。
「起たないか、こんな処に長居は無益だ。何うした。」
と密と揺ぶる、手に従つて揺ぶれるのが、死んだ魚の鰭を摘んで、水を動かすと同じ工合で、此方が留めれば静と成つて、浮きも沈みもしない風。
はじめて驚いた色して、
「何うかしたか、お浦。はてな、今転んだつて、下へは落さん、怪我も過失も為さうぢやない。何だか正体がないやうだ。矢張り一時に疲労が出たのか。あゝ、然う言へば前刻から人にばかりものを言はせる。確乎してくれ、お浦、何うしたんだ。」
と今は慌しく成つた。青年は矢庭に頸を抱き、膝なりに背を向ふへ捻廻はすやうにして、我が胸を前へ捻つて、押仰向けた婦の顔。
今も目は塞がず、例の眸つて、些の顰むべき悩みも無げに、額に毛ばかりの筋も刻まず、美しう優い眉の展びたまゝ、瞬もしないで、其のまゝ見据えた。
其の顔と、此の時、引返した身動ぎに、飜つた褄の乱れに、雪のやうに顕はれた円い膝頭……を一目見るや、
「うむ、」と一声、《だう》と枯蘆に腰を落して、殆んど痙攣を起した如く、足を投出してぶる/\と震へて、
「違つた/\。造りものだ、拵へものだ、彫像だ。昨夜持つて行つた形代だ、こりや、……おゝ。」
戦く手に、婦の胸を確乎と圧せば、膨らかな襟のあたりも、掌に堅く且つ冷たいのであつた。
「何だ、又これを持つて帰るほどなら、誰が命がけに成つて、這麼ものを拵へやう。……誑しやあがつたな! 山猫め、狐め、野狸め。」
と邪慳に、胸先を取つて片手で引立てざまに、渠は棒立ちにぬつくり立つ。可憐や艶麗な女の姿は、背筋を弓形、裳を宙に、縊られた如くぶらりと成る。