譬へば幻の女の姿に憧がるゝのは、老の身に取り、極楽を望むと同じと為る。けれども其の姿を見やうには、……沼へ出掛けて、四つ手場に蹲つて、或刻限まで待たねばならぬ。で、屋根から月が射すやうな訳には行かない。其処で、稼ぎも為ず活計も立てず、夜毎に沼の番の難行は、極楽へ参りたさに、身投げを為るも同じ事、と老爺は苦笑ひをしながら言つた。
そんなら、四つ手場を留めにして、小家で草鞋でも造れば可が、因果と然うは断念められず、日が暮れると、そゝ髪立つまで、早や魂は引窓から出て、城ヶ沼を差してふわ/\と白い蝙蝠のやうに《さまよ》ひ行く。
待てよ、恁うまで、心を曳かるゝのは、よも尋常ごとでは有るまい。伝へ聞く沼の中へは古城の天守が倒に宿る……我が祖先の術の為に、怪しき最後を遂げた婦が、子孫に絡る因縁事か。其とも弔らはれず浮かばぬ霊が、無言の中に供養を望むのであらうも知れぬ。独りでは何しろ荷が重い。村の誰にかも見せて、怪しさを唯《しぶき》の如く散らさう、と人に告げぬのでは無いけれども、昼間さへ、分けて夜に成つて、城ヶ沼の三町四方へ寄附かうと言ふ兄哥は居らぬ。
殆んど我身を持て余した頃の、其の夜……
「お前様が逢はしつた坊主が来て、のつそり立つた。や、これも怪しい。顔色の蒼ざめた墨の法衣の、がんばり入道、影の薄さも不気味な和尚、鯰でも化けたか、と思ふたが、――恁く/\の次第ぢや、御出家、……大方は亡霊が廻向を頼むであらうと思ふで、功徳の為め、丑満まで此処にござつて引導を頼むでがす。――旅の疲労も有らつしやらうか、何なら、今夜は私が小家へ休んで、明日の晩にも、と言ふたが、其には及ばぬ……若しや、其が真実なら、片時も早く苦艱を救ふて進ぜたい。南無南無と口の裡で唱うるで、饗応振に、藁など敷いて坐らせて、足代の上を黒坊主と入替つた。
さあ、身代りは出来たぞ! 一目彼の女を見され、即座に法衣を着た巌と成つて、一寸も動けまい、と暗の夜道を馴れた道ぢや、すた/\と小家へ帰つてのけた……
翌朝疾く握飯を拵へ、竹の皮包みに為て、坊様を見舞に行きつけ…靄の中に影もねえだよ。
はあ、よもや、とは思ふたが、矢張り鯰めが来せたげな。えゝ、埒もない、と気が抜けて、又番人ぢや、と落胆したゞが、其の晩もう一度行く、と待つとも無う夜が更けても、何時の影は映らなんだ。四手を上げても星も懸らず、鬢の香のする雫も落ちぬ。あゝ、引導を渡したな。勿躰ない、名僧智識で有つたもの、と足代の藁を頂いたゞがの、……其では、お前様が私の後へござつて、其の坊主に逢しつたものだんべい。
……までは、はあ、分つたが、私が城ヶ沼の水の映る女を見はじめたは久い以前ぢや。お前様湯治にござつて、奥様の行方が知れなく成つたは、つひ此の頃の事ではねえだか、坊様は何処で聞いて、奥様の言づけを為たゞがの。」
「其を坊様が言つたんです。其の出家の言ふには、
『……人は知らぬが、此処に居た老人に、水の中へ姿を顕はす幻の婦に廻向を、と頼まれて、出家の役ぢや、……宵から念仏を唱へて待つ、と時刻が来た。
大沼の水は唯、風にも成らず雨にも成らぬ、灰色の雲の倒れた広い亡体のやうに見えたのが、汀からはじめて、ひた/\と呼吸をし出した。ひた/\と言ひ出した。幽にひた/\と鳴出した。
町方、里近の川は、真夜中に成ると流の音が留むと言ふが反対ぢやな。此の沼は、其時分から動き出す……呼吸が全躰に通ふたら、真中から、むつくと起きて、どつと洪水に成りはせぬかと思ふ物凄さぢや。
と其の中に何やら声がする。』……と坊主が言ひます。」