「父は或県の書記官でした。」
と雪枝は衣兜に手を挟んだ。
「一年、此の地を巡廻した事が有ります。私が七才の時です。未だ其の頃は、今の温泉は無かつたやうですね。」
「温泉の開けたのは近い頃の事でがすよ。然うでがすとも。前から寂れては居ましつけえ、お城の居まはりに、未だ、町の形の残つた頃は、温泉は無かつけの。
地震が豪く押ぱだかつて、しやつきり残つたのはお天守ばかりぢや。人間も家も押転ばして、濠も半分がた埋りましけ。冬の事での、其の前兆べい、八尺余も積つた雪が一晩に融けて、びしや/\と消えた。あれ松が蒼いわ、と言ふ内に、天も地も赤黒く成つて、活きものと言ふ活ものは、泥の上を泳いだての。
其の響きで、今の処へ、熱湯が湧出いた。ぢやがさ、天道人を殺さずかい。生命だけは助つても、食はう飲まうの分別も出なんだ処温泉が昌つて来たで、何うやら娑婆の形に成つた。其のかはり、旧から噂の高かつたお天守の此の辺は、人の寄附かぬ凄い処に成りましたよ。見さつせえ、いまに太陽様が出さつせえても、濠端かけて城跡には、お前様と私等が他には、人間らしい影もねえだ。偶々突立つて歩行くものは、性の善くねえ、野良狐か、山猫だよ。
こんな処へ、主は何として又姉様の人形連れて来さつせえた。」
「其を順にお話しませう、」
と雪枝は一度塞いだ目を、茫乎と開けて、
「父が此の処を巡廻した節、何処か山蔭の小さな堂に、美い二十ばかりの婦の、珍しい彫像が有つたのを、私の玩弄にさせうと、堂守に金子を遣つて、供のものに持たせて帰つたのを、他に姉妹もなし、姉さんが一人出来たやうに、負つたり抱いたり為ました。大な像で、飯の時なんぞ、並んで坐る、と七才の年の私の芥子坊主より、づゝと上に、髪の垂つた島田の髷が見えたんです。衣服は白無垢に、水浅黄の襟を重ねて、袖口と褄はづれは、矢張白に常夏の花を散らした長襦袢らしく出来て居て……其が上から着せたのではない。木彫に彩色を為たんです。が、不思議なのは、其の白無垢、何うして置いても些とでも塵埃が溜らず、虫も蠅も、遂ぞ集つたことが無い。花畑へでも抱いて出ると、綺麗な蝶々は、帯に来て、留つたんです、最う一つ不思議なのは、立像に刻んだのが、膝柔かにすつと坐る。
袖は両方から振が合つて、乳のあたりで、上下に両手を重ねたのが、ふつくりして、中に何か入つて居さうで、……駆けて行つて、
『姉さん、』と捉まつた時なぞ、肩が揺れると、ころりん、ころりんと其は実に……何とも微妙な音が為て幽に鳴る、……父母をはじめ、見るほどのものは、何だらう何だらう、と言ひ/\したが、指を折らなくては分らないから、無論開けては見ず仕舞。
とう/\其の彫像を――何です――父が暖炉に燻べて焼いたまでも分らなかつたんです。
ちら/\雪の降る晩方でした。……私は、小児の群食で、欲くない。両親が卓子に対向ひで晩飯を食べて居た。其処へ、彫像を負つて入つたんですが、西洋室の扉を開けやうとして、
『姉さん、』と仰向くと上から俯向いて見たやうに思ふ、……廊下の長い、黄昏時の扉の際で、むら/\と鬢の毛が、其時は戦いだやうに思ひました。ぱつちりした目が、眉の下で、睫毛を黒く瞬いたやうで。……」
見ながら、其のまゝ、扉を開ける、と小児の背に、裾を後抱にして居た彫像の丈が反つて、髷が、天井裏の高い処に見えた。
ト半靴の先を反らした、母親の白い足が卓子掛と絨氈の間で動いた。窓の外は雪が其の光を撫でゝ、さら/\音が為さうに、月が有つて、植込の梢がちら/\黒い。烈々と燃える暖炉のほてりで、赤い顔の、小刀を持つたまゝ頤杖をついて、仰向いて、ひよいと此方を向いた父の顔が真蒼に成つた。