1話

1,248字 約2分 2018年6月1日 公開

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 患者は手術の麻酔から()めて私の顔を見た。

 右手に厚ぼったく繃帯(ほうたい)が巻いてあったが、手首を切断されていることは、少しも知らない。

 彼は名のあるピアニストだから、右手首がなくなったことは致命傷(ちめいしょう)であった。犯人は彼の名声をねたむ同業者かもしれない。

 彼は闇夜の道路で、行きずりの人に、鋭い刃物で右手首関節の上部から斬り落とされて、気を失ったのだ。

 幸い私の病院の近くでの出来事だったので、彼は失神したまま、この病院に運びこまれ、私はできるだけの手当てをした。

「あ、君が世話をしてくれたのか。ありがとう……酔っぱらってね、暗い通りで、誰かわからないやつにやられた……右手だね。指は大丈夫だろうか」

「大丈夫だよ。腕をちょっとやられたが、なに、じきに治るよ」

 私は親友を落胆(らくたん)させるに忍びず、もう少しよくなるまで、彼のピアニストとしての生涯が終わったことを、伏せておこうとした。

「指もかい。指も元の通り動くかい」

「大丈夫だよ」

 私は逃げ出すように、ベッドをはなれて病室を出た。

 付添(つきそ)いの看護婦にも、今しばらく、手首がなくなったことは知らせないように、固くいいつけておいた。

 それから二時間ほどして、私は彼の病室を見舞った。

 患者はやや元気をとり戻していた。しかし、まだ自分の右手をあらためる力はない。手首のなくなったことは知らないでいる。

「痛むかい」

 私は彼の上に顔を出して(たず)ねてみた。

「うん、よほど楽になった」

 彼はそういって、私の顔をじっと見た。そして、毛布の上に出していた左手の指を、ピアノを()恰好(かっこう)で動かしはじめた。

「いいだろうか、右手の指を少し動かしても……新しい作曲をしたのでね、そいつを毎日一度やってみないと気がすまないんだ」

 私はハッとしたが、咄嗟(とっさ)に思いついて、患部を動かさないためと見せかけながら、彼の上膊(じょうはく)の尺骨神経の個所を、指で()さえた。そこを圧迫すると、指がなくても、あるような感覚を、脳中枢(のうちゅうすう)に伝えることができるからだ。

 彼は毛布の上の左手の指を、気持よさそうに、しきりに動かしていたが、

「ああ、右の指は大丈夫だね。よく動くよ」

 と、(つぶや)きながら、夢中になって、架空の曲を弾きつづけた。

 私は見るにたえなかった。看護婦に、患者の右腕の尺骨神経を圧さえているように、目顔でさしずしておいて、足音を盗んで病室を出た。

 そして手術室の前を通りかかると、一人の看護婦が、その部屋の壁にとりつけた棚を見つめて、突っ立っているのが見えた。

 彼女の様子は普通ではなかった。顔は青ざめ、眼は異様に大きくひらいて、棚にのせてある何かを凝視していた。

 私は思わず手術室にはいって、その棚を見た。そこには彼の手首をアルコール()けにした大きなガラス(びん)が置いてあった。

 一目それを見ると、私は身動きができなくなった。

 瓶のアルコールの中で、彼の手首が、いや、彼の五本の指が、白い(かに)の脚のように動いていた。

 ピアノのキイを叩く調子で、しかし、実際の動きよりもずっと小さく、幼児のように、たよりなげに、しきりと動いていた。

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