四又の百合

1話 四又の百合

2,706字 約5分 2000年8月25日 公開

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 「正知(しょうへんち)はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河(かわ)をおわたりになってこの町にいらっしゃるそうだ」

 こう言(い)う語(ご)がすきとおった風といっしょにハームキャの城(しろ)の家々にしみわたりました。

 みんなはまるで子供(こども)のようにいそいそしてしまいました。なぜなら町の人たちは永(なが)い間どんなに正知(しょうへんち)のその町に来るのを望(のぞ)んでいたかしれないのです。それにまた町からたくさんの人たちが正知(しょうへんち)のとこへ行ってお弟子(でし)になっていたのです。

 「正知(しょうへんち)はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河(かわ)をおわたりになってこの町にいらっしゃるそうだ」

 みんなは思いました、正知(しょうへんち)はどんなお顔いろでそのお眼(め)はどんなだろう、噂(うわさ)の通り紺(こん)いろの蓮華(れんげ)のはなびらのような瞳(ひとみ)をしていなさるだろうか、お指(ゆび)の爪(つめ)はほんとうに赤銅(しゃくどう)いろに光るだろうか、また町から行った人たちが正知(しょうへんち)とどんなことを言いどんななりをしているだろう、もうみんなはまるで子供(こども)のようにいそいそして、まず自分の家をきちんとととのえ、それから表へ出て通りをきれいに掃除(そうじ)しました。あっちの家からもこっちの家からも人が出て通りを掃(は)いております。水がまかれ牛糞(ぎゅうふん)や石ころはきれいにとりのけられ、また白い石英(せきえい)の砂(すな)が撒(ま)かれました。

 「正知(しょうへんち)はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河(かわ)をおわたりになってこの町にいらっしゃるそうだ」

 もちろんこの噂(うわさ)は早くも王宮(おうきゅう)に伝(つた)わりました。

 「申(もう)し上げます。如来正知(にょらいしょうへんち)はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河(かわ)をおわたりになってこの町にいらっしゃるそうでございます」

 「そうか、たしかにそうか」王さまはわれを忘(わす)れて瑪瑙(めのう)で飾(かざ)られた王座(おうざ)を立たれました。

 「たしかにさようと存(ぞん)ぜられます。今朝(けさ)ヒームキャの向(む)こう岸(ぎし)でご説法(せっぽう)のをハムラの二人の商人(しょうにん)が拝(おが)んで参(まい)ったと申(もう)します」

 「そうか、それではまちがいあるまい。ああ、どんなにお待(ま)ちしただろう。すぐ町(まち)を掃除(そうじ)するよう布令(ふれ)を出せ」

 「申(もう)し上げます。町はもうすっかり掃除(そうじ)ができてございます。人民(じんみん)どもはもう大悦(おおよろこ)びでお布令(ふれ)を待(ま)たずきれいに掃除(そうじ)をいたしました」

 「うう」王さまはうなるようにしました。

 「なお参(まい)ってよく粗匆(そそう)のないよう注意(ちゅうい)いたせ。それから千人の食事(しょくじ)のしたくを申(もう)し伝(つた)えてくれ」

 「かしこまりました。大膳職(だいぜんしょく)はさっきからそのご命(めい)を待(ま)ちかねてうろうろうろうろ廚(くりや)の中を歩きまわっております」

 「ふう。そうか」王さまはしばらく考えていられました。

 「すると次(つぎ)は精舎(しょうじゃ)だ。城外(じょうがい)の柏林(かしわばやし)に千人の宿(やど)をつくるよう工作のものへ言(い)ってくれないか」

 「かしこまりました。ありがたい思召(おぼしめし)でございます。工作の方のものどもはもう万一(まんいち)ご命令(めいれい)もあるかと柏林(かしわばやし)の測量(そくりょう)にとりかかっております」

 「ふう。正知(しょうへんち)のお徳(とく)は風のようにみんなの胸(むね)に充(み)ちる。あしたの朝はヒームキャの河(かわ)の岸(きし)までわしがお迎(むか)えに出よう。みなにそう伝(つた)えてくれ。お前は夜明の五時に参(まい)れ」

 「かしこまりました」白髯(しろひげ)の大臣(だいじん)はよろこんで子供(こども)のように顔を赤くして王さまの前を退(さ)がりました。

 次の夜明になりました。

 王様(おうさま)は帳(とばり)の中で総理大臣(そうりだいじん)のしずかにはいって来る足音を聴(き)いてもう起(お)きあがっていられました。

 「申(もう)し上げます。ただいまちょうど五時でございます」

 「うん、わしはゆうべ一晩(ひとばん)ねむらなかった。けれども今朝(けさ)わしのからだは水晶(すいしょう)のようにさわやかだ。どうだろう、天気は」王さまは帳(とばり)を出てまっすぐに立たれました。

 「大へんにいい天気でございます。修彌山(しゅみせん)の南側(みなみがわ)の瑠璃(るり)もまるですきとおるように見えます。こんな日如来正知(にょらいしょうへんち)はどんなにお立派(りっぱ)に見えましょう」

 「いいあんばいだ。街(まち)は昨日(きのう)の通りさっぱりしているか」

 「はい、阿耨達湖(アノブダブこ)の渚(なぎさ)のようでございます」

 「斎食(とき)のしたくはいいか」

 「もうすっかりできております」

 「柏林(かしわばやし)の造営(ぞうえい)はどうだ」

 「今朝(けさ)のうちには大丈夫(だいじょうぶ)でございます。あとはただ窓(まど)をととのえて掃除(そうじ)するだけでございます」

 「そうか。ではしたくしよう」

 王さまはみんなを従(したが)えてヒームキャの川岸(かわぎし)に立たれました。

 風がサラサラ吹(ふ)き木の葉(は)は光りました。

 「この風はもう九月の風だな」

 「さようでございます。これはすきとおったするどい秋(あき)の粉(こな)でございます。数知れぬ玻璃(はり)の微塵(みじん)のようでございます」

 「百合(ゆり)はもう咲(さ)いたか」

 「蕾(つぼみ)はみんなできあがりましてございます。秋風(あきかぜ)の鋭(するど)い粉(こな)がその頂上(ちょうじょう)の緑(みどり)いろのかけ金(がね)を削(けず)って減(へ)してしまいます。今朝(けさ)一斉(いっせい)にどの花も開くかと思われます」

 「うん。そうだろう。わしは正知(しょうへんち)に百合(ゆり)の花をささげよう。大蔵大臣(おおくらだいじん)。お前は林へ行って百合(ゆり)の花を一茎(ひとくき)見つけて来てくれないか」

 王さまは黒髯(くろひげ)に埋(う)まった大蔵大臣(おおくらだいじん)に言(い)われました。

 「はい。かしこまりました」

 大蔵大臣(おおくらだいじん)はひとり林の方へ行きました。林はしんとして青く、すかして見ても百合(ゆり)の花は見えませんでした。

 大臣(だいじん)は林をまわりました。林の陰(かげ)に一軒(けん)の大きなうちがありました。日がまっ白に照(て)って家は半分(はんぶん)あかるく夢(ゆめ)のように見えました。その家の前の栗(くり)の木の下に一人のはだしの子供(こども)がまっ白な貝細工(かいざいく)のような百合(ゆり)の十の花のついた茎(くき)をもってこっちを見ていました。

 大臣(だいじん)は進(すす)みました。

 「その百合(ゆり)をおれに売れ」

 「うん売るよ」子供(こども)は唇(くちびる)をまるくして答えました。

 「いくらだ」大臣(だいじん)が笑(わら)いながらたずねました。

 「十銭(せん)」子供(こども)が大きな声で勢(いきおい)よく言(い)いました。

 「十銭(せん)は高いな」大臣(だいじん)はほんとうに高いと思いながら言(い)いました。

 「五銭(せん)」子供(こども)がまた勢(いきおい)よく答えました。

 「五銭(せん)は高いな」大臣(だいじん)はまだほんとうに高いと思いながら笑(わら)って言(い)いました。

 「一銭(せん)」子供(こども)が顔をまっ赤にして叫(さけ)びました。

 「そうか。一銭(せん)。それではこれでいいだろうな」大臣(だいじん)は紅宝玉(ルビー)の首(くび)かざりをはずしました。

 「いいよ」子供(こども)は赤い石を見てよろこんで叫(さけ)びました。大臣(だいじん)は首(くび)かざりを渡(わた)して百合(ゆり)を手にとりました。

 「何にするんだい。その花を」子供(こども)がふと思いついたように言(い)いました。

 「正知(しょうへんち)にあげるんだよ」

 「あっ、そんならやらないよ」子供(こども)は首(くび)かざりを投(な)げ出しました。

 「どうして」

 「僕(ぼく)がやろうと思ったんだい」

 「そうか。じゃ返(かえ)そう」

 「やるよ」

 「そうか」大臣(だいじん)はまた花を手にとりました。

 「お前はいい子だな。正知(しょうへんち)がいらっしゃったらあとについてお城(しろ)へおいで。わしは大蔵大臣(おおくらだいじん)だよ」

 「うん、行くよ」子供(こども)はよろこんで叫(さけ)びました。

 大臣(だいじん)は林をまわって川の岸(きし)へ来ました。

 「立派(りっぱ)な百合(ゆり)だ。ほんとうに。ありがとう」王様(おうさま)は百合(ゆり)を受けとってそれからうやうやしくいただきました。

 川の向(む)こうの青い林のこっちにかすかな黄金(きん)いろがぽっと虹(にじ)のようにのぼるのが見えました。みんなは地にひれふしました。王もまた砂(すな)にひざまずきました。

 二億年(おくねん)ばかり前どこかであったことのような気がします。

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