中国怪奇小説集 11 異聞総録・其他(宋)

1話 中国怪奇小説集 11 異聞総録・其他(宋)(1)

7,336字 約15分 2003年9月24日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 第九の男は語る。

「わたくしは宋代の怪談総まくりというような役割でございますが、これも唐に劣らない大役でございます。就いてはまず『異聞総録』を土台にいたしまして、それから他の小説のお話を少々ばかり紹介いたしたいと存じます。この『異聞総録』はまったく異聞に富んだ面白いものでありますが、作者の名が伝わって居りません。専門の研究家のあいだにはすでにお判りになっているのかも知れませんが、浅学寡聞(せんがくかぶん)のわれわれはやはり作者不詳と申すのほかはございませんから、左様御承知をねがいます」

   竹人、木馬

 宋の紹興(しょうこう)十年、両淮(りょうわい)地方の兵乱がようやく鎮定したので、兵を避けて江南に渡っていた人びともだんだんに故郷へ立ち戻ることになった。そのなかで山陽(さんよう)地方の士人(しじん)ふたりも帰郷の途中、淮揚(わいよう)を通過して北門外に宿ろうとすると、宿の主人が丁寧に答えた。

「わたくしもこの宿舎を持っているのですから、お客人を長くお泊め申して置きたいのはやまやまですが、あなた方に対しては正直に申し上げなければなりません。何分にも(いくさ)のあとで、ここらも荒れ切っているので、(うち)はきたなくなっているばかりか、盗賊どもがしきりに徘徊するので困ります。ここから十里ばかり先に(りょ)という家がありまして、そこは閑静で綺麗な上に、賊をふせぐ用心も出来ていますから、そこへ行ってお泊まりなさるがよろしゅうございます。わたくしの家から(しもべ)や馬を添えてお送り申させますから」

 ふたりは素直にその忠告を()いた。殊に呂氏の家というのもかねて知っているので、それではすぐに行こうと出かけると、主人は慇懃(いんぎん)に別れを告げた。

「どうぞお帰りにもお立ち寄りください。もう日が暮れましたから、馬にお召しなさい」

 主人は達者そうな僕二人に二匹の馬をひかせて送らせた。途中も無事で、まだ夜半にならないうちにかの呂氏の家にゆき着くと、家の者は出で迎えて不思議そうに言った。

「近頃この辺にはいろいろの化け物が出るというのに、どうして夜歩きをなすったのです」

 二人はここへ来たわけを説明して、鞍から降り立とうとすると、馬も僕も突っ立ったままで動かない。

 すぐに飛び降りて燈火(あかり)に照らしてみると、人も馬も姿は消えて、そこに立っているのは、二本の枯れた太い竹と、二脚の木の腰掛けと唯それだけであった。竹も木も打ち砕いて焚かれてしまったが、別に怪しいこともなかった。

 それから五、六カ月の後、ふたたび先度の北門外へ行くと、そこは空き家で、主人らしい者は住んでいなかった。(異聞総録)

   疫鬼

 紹興三十一年、湖州の漁師の呉一因(ごいちいん)という男が魚を()りに出て、新城柵界の河岸に舟をつないでいた。

 岸の上には民家がある。夜ふけて、その岸の上で話し声がきこえた。暗いので、人の形はみえないが、その声だけは舟にいる呉の耳にも洩れた。

「おれ達も随分ここの(うち)に長くいたから、そろそろ立ち去ろうではないか。いっそこの舟に乗って行ってはどうだな」

「これは漁師の舟だ。おまけにほか土地の人間だからいけない。あしたになると、東南の方角から大きい船が来る。その船には二つの紅い食器と、五つ六つの酒瓶(さかがめ)を乗せているはずだから、それに乗り込んで行くとしよう。その(うち)はここの親類で、なかなか金持らしいから、あすこへ転げ込めば間違いなしだ」

「そうだ、そうだ」

 それぎりで声はやんだ。

 呉はあくる日、上陸してその民家をたずねると、家には疫病にかかっている者があって、この頃だんだんに快方に向かっているという話を聞かされたので、ゆうべ語っていた者どもは疫鬼(えきき)の群れであったことを初めて(さと)った。そこで、舟を東南五、六里の岸に移して、果たしてかれらの言うような船が来るかどうかと窺っていると、やがて一艘の小舟がくだって来た。舟に積んでいる物も鬼の話と符合しているので、呉は急に呼びとめて注意すると、舟の人びともおどろいた。

「おまえさんはいいことを教えて下すった。それはわたしの婿の家で、これから見舞いながら食い物を持って行ってやろうと思っていたところでした。なんにも知らずに行ったが最後、疫病神(やくびょうがみ)がこっちへ乗り込んで来て、どんな目に逢うか判らなかったのです」

 積んで来た酒や肉を彼に馳走して、舟は早々に漕ぎ戻した。(同上)

   亡妻

 宋の大観(たいかん)年中、都の医官の耿愚(こうぐ)がひとりの妾を買った。女は容貌(きりょう)も好く、人間もなかなか利口であるので、主人の耿にも眼をかけられて、無事に一年余を送った。

 ある日のこと、その女が門前に立っていると、一人の小児が通りかかって、阿母(おっか)さんと声をかけて取りすがると、女もその頭を撫でて可愛がってやった。小児は家へ帰って、その父に訴えた。

「阿母さんはこういう所にいるよ」

 しかしその母というのは一年前余に死んでいるので、父はわが子の報告をうたがった。しかしその話を聞くと、まんざら嘘でもないらしいので、ともかくも念のためにその埋葬地を調べると、盗賊のために(あば)かれたと見えて、その死骸が紛失しているのを発見した。そこで、その児を案内者にして、耿の家の近所へ行って聞きあわせると、その女は亡き妻と同名であることが(わか)った。

 もう疑うところはないと、父は行商に姿をかえ、その近所の往来を徘徊して、女の出入りを窺っているうちに、ある時あたかも彼女に出逢った。それはまさしく自分の妻であった。女も自分の夫を見識っていた。不思議の対面に、その場はたがいに泣いて別れたが、それが早くも主人の耳に入って、耿は女を詮議すると、彼女は明らかに答えた。

「あの人はわたくしの夫で、あの児はわたくしの子てございます」

「嘘をつけ」と、耿は怒った。「去年おまえを買ったときには、ちゃんと桂庵(けいあん)の手を経ているのだ。おまえに夫のないということは、証文面にも書いてあるではないか」

 女は密夫を作って、それを先夫と(いつわ)るのであろうと、耿は一途(いちず)に信じているので、彼女をその夫に引き渡すことを堅く(こば)んだ。こうなると、訴訟沙汰になるのほかはない。役人はまず女を取調べると、彼女はこう言うのである。

「わたくしも確かなことは覚えません。ただ、ぼんやりと歩きつづけて、一つの橋のあるところまで行きましたが、路に迷って方角が判らなくなってしまいました。そこへ桂庵のお婆さんが来て、わたくしを連れて行ってくれましたが、ただ遊んでいては食べることが出来ませんから、お婆さんと相談してここの(うち)へ売られて来ることになったのでございます」

 さらに桂庵婆をよび出して取調べると、その申し立てもほぼ同じようなもので、広備橋(こうびきょう)のほとりに迷っている女をみて、自分の家へ連れて来たのであると言った。なにしろ死んだ女が生き返ってこういうことになったのであるから、役人もその裁判に困って、先夫から現在の主人に相当の(あた)いを支払った上で、自分の妻を引き取るがよかろうと言い聞かせたが、耿の方が承知しない。いったん買い取った以上は、その女を他人に譲ることは出来ないというので、さらに御史台(ぎょしだい)に訴え出たが、ここでも容易に判決をくだしかねて、かれこれ暇取(ひまど)っているうちに、問題の女は又もや姿を消してしまった。

 相手が失せたので、この訴訟も自然に沙汰やみとなったが、女のゆくえは遂に判らなかった。それから一年を過ぎずして、主人の耿も死んだ。(同上)

   盂蘭盆

 ()州の南門、黄柏路(こうはくろ)というところに《たん》六、七という兄弟があって、(きぬ)を売るのを渡世としていた。又その(すえ)の弟があって、家内では彼を小哥(しょうか)と呼んでいたが、小哥は若い者の習い、賭博(とばく)にふけって家の(ぜに)を使い込んだので、兄たちにひどい目に逢わされるのを(おそ)れて、どこへか姿をくらました。

 彼はそれぎり音信不通であるので、母はしきりに案じていたが、(うらな)(しゃ)などに見てもらっても、いつも凶と判断されるので、もうこの世にはいないものと諦めるよりほかはなかった。そのうちに七月が来て、盂蘭盆会(うらぼんえ)の前夜となったので、の家では燈籠をかけて紙銭(しせん)を供えた。紙銭は紙をきって銭の形を作ったもので、亡者の冥福を祈るがために()いて祭るのである。

 日が暮れて、あたりが暗くなると、表で(かす)かに溜め息をするような声がきこえた。

「ああ、小哥はほんとうに死んだのだ」と、母は声をうるませた。盂蘭盆で、その幽霊が戻って来たのだ。

 母はそこにある一枚の紙銭を取りながら、闇にむかって言い聞かせた。

「もし本当に小哥が戻って来たのなら、わたしの手からこの(ぜに)をとってごらん。きっとおまえの追善(ついぜん)供養をしてあげるよ」

 やがて陰風がそよそよと吹いて来て、その紙銭をとってみせたので、母も兄弟も今更のように声をあげて泣いた。早速に僧を呼んで、読経(どきょう)その他の供養を営んでもらって、いよいよ死んだものと思い切っていると、それから五、六カ月の後に、かの小哥のすがたが家の前に飄然と現われたので、家内の者は又おどろいた。

「この幽霊め、迷って来たか」

 総領の兄は刀をふりまわして()い出そうとするのを、次の兄がさえぎった。

「まあ、待ちなさい。よく正体を見とどけてからのことだ」

 だんだんに詮議すると、小哥は死んだのではなかった。彼は実家を出奔(しゅっぽん)して、宜黄(ぎこう)というところへ行って或る家に雇われていたが、やはり実家が恋しいので、もう余焔(ほとぼり)()めた頃だろうと、のそのそ帰って来たのであることが(わか)った。して見ると、前の夜の出来事は、無縁の鬼がこの一家をあざむいて、自分の供養を求めたのであったらしい。(同上)

   義犬

 (せい)州に(しゅ)老人というのがあって、薬を売るのを家業とし、常に妻と妾と犬とを連れて、南康県付近を往来していた。

 紹興二十七年四月、黄岡(こうこう)の旅館にある時、近所の村民が迎いに来て、母が病中であるからその脈を見た上で相当の薬をあたえてくれと頼んだ。ここから五、六里の所だというので、朱老人は今夜そこへ一泊するつもりで、妻妾と犬とを伴って出てゆくと、途中の森のなかには村民の徒党が待ち伏せをしていて、老人は勿論、あわせて妻妾をも惨殺して、その金嚢(かねぶくろ)や荷物を奪い取った。

 そのなかで、犬は無事に逃げた。彼はその場から主人の実家へ一散に駈け戻って、しきりに悲しげに吠え立てるのみか、何事をか訴えるように爪で地を掻きむしった。家の者もそれを怪しんで、県の役所へ()いてゆくと、犬はその庭に伏して又しきりに吠えつづけた。その様子をみて、役人もさとった。

「もしやお前の主人が何者にか殺されたのではないか。それならば案内しろ」

 言い聞かされて、犬はすぐに先に立って出た。役人らもそのあとに付いてゆくと、犬はかの森のなかへ案内して、三人の死骸の埋めてある場所を教えた。

「死骸はこれで判ったが、賊のありかはどこだ」

 犬は又かれらを村民の住み家に案内したので、賊の一党はみな召捕られた。(同上)

   窓から手

 少保(しょうほ)馬亮公(ばりょうこう)がまだ若いときに、燈下で書を読んでいると、突然に扇のような大きい手が窓からぬっと出た。公は自若(じじゃく)として書を読みつづけていると、その手はいつか去った。

 その次の夜にも、又もや同じような手が出たので、公は雌黄(しおう)の水を筆にひたして、その手に大きく自分の書き判を書くと、外では手を引っ込めることが出来なくなったらしく、俄かに大きい声で呼んだ。

「早く洗ってくれ、洗ってくれ、さもないと、おまえの為にならないぞ」

 公はかまわずに寝床にのぼると、外では()れて怒って、しきりに洗ってくれ、洗ってくれと叫んでいたが、公はやはりそのままに打ち捨てて置くと、暁け方になるにしたがって、外の声は次第に弱って来た。

「あなたは今に偉くなる人ですから、ちょっと(ため)してみただけの事です。わたしをこんな目に逢わせるのは、あんまりひどい。(しん)(おんきょう)牛渚(ぎゅうしょ)をうかがって禍いを招いたためしもあります。もういい加減にして(ゆる)してください」

 化け物のいうにも一応の理屈はあるとさとって、公は水をもって洗ってやると、その手はだんだんに縮んで消え失せた。

 公は果たして後に少保の高官に立身したのであった。(同上)

   張鬼子

 洪州の州学正(しゅうがくせい)を勤めている(ちょう)という男は、元来刻薄(こくはく)の生まれ付きである上に、年を取るに連れてそれがいよいよ激しくなって、生徒が休暇をくれろと願っても容易に許さない。学官が五日の休暇をあたえると、張はそれを三日に改め、三日の休暇をあたえると二日に改めるというふうで、万事が皆その流儀であるから、諸生徒から常に怨まれていた。

 その土地に張鬼子(ちょうきし)という男があった。彼はその風貌が鬼によく似ているので、鬼子という渾名(あだな)を取ったのである。

 そこで、諸生徒は彼を鬼に仕立てて、意地の悪い張学正をおどしてやろうと思い立って、その相談を持ち込むと、彼は慨然(がいぜん)として引き受けた。

「よろしい。承知しました。しかし無暗に鬼の真似をして見せたところで、先生は驚きますまい。冥府の役人からこういう差紙(さしがみ)を貰って来たのだぞといって、眼のさきへ突き付けたら、先生もおそらく真物(ほんもの)だと思って驚くでしょう。それを付け込んで、今後は生徒を可愛がってやれと言い聞かせます」

 しかし冥府から渡される差紙などというものの書式(しょしき)を誰も知らなかった。

「いや、それはわたしが(かつ)て見たことがあります」

 張は紙を貰って、それに白礬(はくはん)で何か細かい字を書いた。用意はすべて整って、日の暮れるのを待っていると、一方の張先生は例のごとく生徒をあつめて、夜学の勉強を監督していた。

 州の学舎は日が暮れると必ず門を閉じるので、生徒は(すき)をみてそっと門をあけて、かの張鬼子を誘い込む約束になっていた。その門をまだ明けないうちに、張鬼子はどこかの隙間から入り込んで来て、教室の前にぬっと突っ立ったので、人びとはすこしく驚いた。

「畜生、貴様はなんだ」と、張先生は怒って罵った。「きっと生徒らにたのまれて、おれをおどしに来たのだろう。その手を食うものか」

「いや、おどしでない」と、張鬼子は笑った。「おれは閻羅王(えんらおう)の差紙を持って来たのだ。嘘だと思うなら、これを見ろ」

 かねて打ち合わせてある筋書の通りに、かれはかの差紙を突き出したので、先生はそれを受取って、まだしまいまで読み切らないうちに、かれはたちまちその被り物を取り除けると、そのひたいには大きい二本の角があらわれた。先生はおどろき叫んで(たお)れた。

 張は庭に出て、人びとに言った。

「みなさんは冗談にわたしを張鬼子と呼んでいられたが、実は私はほんとうの鬼です。牛頭(ごづ)の獄卒です。先年、閻羅王の命を受けて、張先生を捕えに来たのですが、その途中で水を渡るときに、誤まって差紙を落してしまったので役目を果たすことも出来ず、むなしく帰ればどんな罰を(こうむ)るかも知れないので、あしかけ二十年の間、ここにさまよっていたのですが、今度みなさん方のお蔭で()(ろう)して(しん)となし、無事に使命を勤め(おう)せることが出来ました。ありがとうございます」

 かれは丁寧に挨拶して、どこへか消えてしまったので、人びとはただ驚き呆れるばかりであった。張先生は仆れたままで再び生きなかった。(同上)

   両面銭

 南方では神鬼をたっとぶ習慣がある。狄青(てきせい)儂智高(のうちこう)を征伐する時、大兵が桂林の南に出ると、路ばたに大きい廟があって、すこぶる霊異ありと伝えられていた。

 将軍の狄青は軍をとどめて、この廟に祈った。

(いくさ)の勝負はあらかじめ判りません。就いてはここに百文の(ぜに)をとって神に誓います。もしこの軍が大勝利であるならば、銭の(おもて)がみな出るように願います」

 左右の者がさえぎって(いさ)めた。

「もし思い通りに銭の面が出ない時には、士気を(はば)める(おそ)れがあります」

 狄青は()かないで神前に進んだ。万人が眼をあつめて眺めていると、やがて狄青は手に百銭をつかんで投げた。どの銭もみな紅い面が出たのを見るや、全軍はどっと歓び叫んで、その声はあたりの林野を震わした。狄青もまた大いに喜んだ。

 彼は左右の者に命じて、百本の釘を取り来たらせ、一々その銭を地面に打付けさせた。そうして、青い(しゃ)の籠をもってそれを(おお)い、かれ自身で封印した。

凱旋(がいせん)の節、神にお礼を申してこの銭を取ることにする」

 それから兵を進めてまず崑崙関(こんろんかん)を破り、さらに智高(ちこう)を破り、(ゆうかん)を平らげ、凱旋の時にかの廟に参拝して、(さき)に投げた銭を取って見せると、その銭はみな両(おもて)であった。(鉄囲山叢談)

   古御所

 洛陽(らくよう)の御所は隋唐五代の故宮(こきゅう)である。その後にもここに都するの議がおこって、宋の太祖の開宝(かいほう)末年に一度行幸の事があったが、何分にも古御所(ふるごしょ)に怪異が多く、又その上に霖雨(ながあめ)に逢い、(ひでり)(いの)ってむなしく帰った。

 それから宣和(せんな)年間に至るまで年を重ぬること百五十、故宮はいよいよ荒れに荒れて、金鑾殿(きんらんでん)のうしろから奥へは白昼も立ち入る者がないようになった。立ち入ればとかくに怪異を見るのである。大きな熊蜂や蟒蛇(うわばみ)も棲んでいる。さらに怪しいのは、夜も昼も音楽の声、歌う声、()く声などの絶えないことである。

 宣和の末に、呉本(ごほん)という監官があった。彼は武人の勇気にまかせて、何事をも(おそ)(はばか)らず、夏の日に宮前の廊下に涼んでいて、(さる)の刻(午後三時―五時)を過ぐるに至った。まだ暗くはならないが、場所が場所であるので、従者は恐れて早く帰ろうと催促したが、呉は平気で動かなかった。

 たちまち警蹕(けいひつ)の声が内からきこえて、衛従の者が紅い絹をかけた金籠の燭を執ること数十(つい)、そのなかに黄いろい衣服を着けて、帝王の如くに見ゆる男一人、その胸のあたりにはなまなましい血を流していた。そのほかにも随従の者大勢、列を正しく廊下づたいに奥殿へ徐々(しずしず)と練って行った。

 呉と従者は急いで戸の内に避けたが、最後の衛士は呉がここに涼んでいて行列の妨げをなしたのを怒ったらしく、その臥榻(がとう)の足をとって倒すと、榻は(いしがわら)をうがって地中にめり込んだ。衛士らはそれから他の宮殿へむかったかと思うと、その姿は消えた。

 呉もこれを見て大いにおどろいた。その以来、彼は決してこの古御所に寝泊まりなどをしなかった。彼は自分の目撃したところを絵にかいて、大勢の人に示すと、洛陽の識者は評して「これは必ず唐の昭宗(しょうそう)であろう」と言った。

 唐の昭宗皇帝は英主であったが、晩唐の国勢振わず、この洛陽で叛臣朱全忠(しゅぜんちゅう)のために(しい)せられたのである。(同上)

   我来也

目次に戻る

目次