暗黒星

9話 空を歩く妖怪

4,071字 約8分 2022年10月21日 公開

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 タイル張りの浴槽の中にはまっ赤な湯があふれていた。そして、その血の池の中に、一人の女性が屍体(したい)となって浮き上がっていた。

「君たち、少し遠慮してくれたまえ。そして、お父さまや綾子姉さんにこのことを知らせ、女中たちをよこしてくれたまえ」

 一郎青年は書生たちを、両手で湯殿のそとへ押し出すようにしながら叫んだ。

 被害者は一郎たちの義母の君代であった。まだ三十歳を少し越したばかりの美しい君代であった。悪魔の(おきて)にしたがって、彼女もやはり眼をやられていた。そして、心臓の一と(えぐ)りが、彼女の生命を完全に奪い去っていた。

 やがて、父の伊志田氏と綾子と女中たちがかけつけ、美しい義母の屍体には何枚かの湯上がりタオルがまきつけられて、彼女の寝室へ運ばれた。

 重傷の明智探偵は、すぐさま外科病院へ運ばなければならなかった。明智自身の希望によって、彼の友人の医学博士が経営している外科病院に電話がかけられ、時を移さずそこから寝台自動車がきて、名探偵を運んで行った。

 一方警視庁にこの事が急報されたのはいうまでもない。間もなく北森捜査課長が、部下を引きつれて駈けつけ、綿密な調査をとげたが、結局犯人については、なんの手掛りを(つか)むこともできなかった。邸内の人々は一人一人取調べ、あらゆる出入口を検査したが、黒い怪物はどこから侵入し、どこから逃げ去ったのか、まったく不明であった。庭にも足跡らしいものさえ残っていなかった。

 悪魔は一郎青年を傷つけ、名探偵を倒し、ついに伊志田夫人の生命を奪ったのである。主人の伊志田氏はもとより、家族のものの悲歎と恐怖とは極点に達した。

 何よりも恐ろしいのは相手の正体がまったくわからぬことであった。今の世に妖怪(ようかい)を信じることはできないが、やはり妖怪の仕業とでも考えるほかには解釈のくだしようがなかった。頼みに思う名探偵さえ病床の人となってしまった。警察もこれという意見を立て得ない様子である。今は神仏に頼りでもするほかには、この恐怖をまぎらす手段もないような有様であった。

 そういう頼るところもない不安と焦慮のうちに、三日間が過ぎ去って行った。それでも、君代の葬儀がすむまでは人の出入りも多く、邸内がざわめいていて、何かと気もまぎれていたが、それもすんでしまうと、いよいよ堪えがたいさびしさがおそってきた。古い西洋館の隅々に悪鬼の怨念(おんねん)が潜んでいるかと疑われ、殊にあの三階の円塔は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)()みかのようにさえ思われて、誰もその付近へ近よるものもない有様であった。

 浴場殺人事件の翌々日に葬儀がおこなわれ、その翌日、すなわち事件から三日後の夜八時頃のことであった。一郎青年はもうすっかり床ばらいをして、二階の書斎で父の伊志田氏と、今後の邸内の警戒について、いろいろと話し合っていた。

 書生は元の通り五人にふえていたし、その上、北森課長の計らいで、警視庁の腕ききの刑事が一人、邸内に泊まり込んで警戒に当たっていてくれた。それほどにしても、一郎はまだ安心はできないというのである。

「しかし、もうこれ以上、どうも仕方がないじゃないか。お前に何か名案でもあるのかね」

 伊志田氏は一郎ほどは神経質でなかった。

「引越しをするんです。僕はこの陰気な広い建物がいけないと思うんです。あいつはこの古い西洋館にずっとつきまとっている何かの怨霊かもしれません。僕はこうしていても、あいつが、屋敷のどこかの隅に身を潜めて、じっと機会を(ねら)っているような気持がして仕方がないのです。お父さま、僕たちは引越しをするわけにはいかないのでしょうか」

 一郎は熱心に転宅を勧めるのであった。

「ウム、それはわしも考えないではない。しかし、あんなやつ一人のために、永年住み慣れたこの家を引越すというのも、なんだかあいつに負けて逃げ出すようで、気が進まないのだよ。

 お前はじき怨霊などというが、そんなものがあるはずはない。やはりあいつも人間なのだ。ただ少しわる賢い人間というだけのことだ。人間を人間の力で防げぬはずはない。

 わしの気持ではね、一郎、あいつがもう一度現われるのを待っているのだよ。そして、今度こそ引っ(とら)えて眼に物見せてくれようと、それを楽しみに思っているくらいだ。わしは君代の(かたき)が討ちたいのだよ」

 伊志田氏は何か心中深く決するところあるもののように、強い調子でいうのであった。

「しかし僕は……」

 一郎は何か言いかけて、突然ギョッとだまり込んでしまった。そして、父と子とは、刺すような眼でお互いの顔を見つめあった。

 それは銃声であった。邸内のどこかから、ピストルらしい銃声が聞こえてきたのであった。

「下のようですね」

「ウン、見てきてごらん」

 短い言葉をかわして、一郎は飛ぶように部屋を出て行った。

 階段を()け降りて、廊下へ出ると、向こうから、一人の書生が、顔色を変えて走ってきた。

「鞠子さんが……」

「エッ、鞠子が? 撃たれたのか」

「部屋に倒れていらっしゃるのです」

 鞠子の勉強部屋は姉の綾子の部屋の隣にあった。一郎は先ずその綾子の部屋のドアをひらいてみたが、彼女の姿は見えなかった。

 鞠子の部屋へ飛びこむと、部屋のまん中に、女学生服の少女が、俯伏(うつぶ)せに倒れたまま、じっと身動きもしないでいた。

「鞠ちゃん! どうしたの?」

 大声で呼んで、肩に手をかけ、引き起こそうとしたが、その手がたちまち血に染まった。よく見ると、鞠子は胸の心臓のあたりを撃たれて、まったくこときれていることがわかった。

「おい、斎藤君」

 一郎は廊下に立っている書生を呼んで(たず)ねた。

「君はあいつを見たのか」

「いいえ、誰も見ません。廊下を見まわっていますと、突然この部屋の中でピストルの音が聞こえたのです。すぐドアをあけてはいってみましたが、鞠子さんが倒れていらっしゃるばかりで、ほかには誰もいませんでした」

 書生が答えた。

「フーン、じゃあ窓から逃げたのかな」

 すぐ庭に面した窓へ行って、調べてみたが、ガラス戸はちゃんと閉まっていた。その上内部から掛け金さえかけてあった。窓を除くと、その部屋には廊下にひらいているドアのほかには、まったく出入口がないのである。

「変だなあ。窓は中から閉まってるぜ。君は、その音を聞いた時、このドアの見える場所にいたのかい」

「ええ、つい一(けん)ほど向こうを歩いていたのです。逃げ出すやつがあれば、私の眼にはいらぬはずはなかったのです」

「ドアは閉まっていたのかい」

「そうです。ちゃんと閉まったままでした。私がここへはいるまで誰もひらいたものはないのです」

 黒覆面の怪物はカーテンのうしろに姿を隠す癖があった。だが、この鞠子の部屋には、そんな大きなカーテンはなかった。机の下や箪笥(たんす)のうしろなども調べてみたが、どこにも怪しいところはなかった。

 一郎はさらに、天井を見廻(みまわ)したり、ジュウタンをめくって床板を調べたりしたが、秘密の出入口があるようにも見えなかった。

 伊志田氏もおくればせにはいってきて、鞠子の死骸(しがい)を抱き上げていた。さすがの伊志田氏も、矢つぎ早におそいかかる不幸に、すっかりうちのめされているように見えた。

「やっぱり、あいつは幽霊です。どこにも出入りした跡がないのです。窓のそとからピストルを撃ったとすれば、ガラスが割れていなければなりませんし、ほかに弾丸のはいってくるような隙間(すきま)はありません。これでも、あいつは骨と肉を持った人間なのでしょうか」

 一郎は現実家の父を反駁(はんばく)するように言って、伊志田氏の青ざめた顔を見つめるのであった。

「一郎さん、ちょっと、ちょっとあれを……」

 突然、書生の斎藤がささやくように言って、一郎の腕を取って、庭に面した窓のそばへつれて行った。

 窓のそとにはまっ暗に庭樹が茂っていた。常夜燈の淡い光が、立木の茂みをボンヤリと照らし出していた。

 書生の眼は、それらの木々の枝を越して、屋敷を囲む煉瓦(れんが)塀の上に注がれているように見えた。

 その部分は樹木が少しまばらになって、古い煉瓦塀の一部が、黒い(つつみ)かなんかのように見えすいていた。

 一郎が書生の眼を追って、そこを注視すると、煉瓦塀の頂上に、何か黒い影がうごめいていた。闇夜(やみよ)だったので、空も暗く、そのものは闇の中から闇が抜け出したような感じで動いていた。

 眼が慣れるにしたがって、その黒いものが人間の形をしていることがわかった。常夜燈の光にも遠いので、非常にボンヤリした姿ではあったが、決して人間以外の生きものではなかった。

 そのものは、まるで綱渡りでもするように、からだで調子を取りながら、高い塀の頂上を、直立して右から左へと、ゆっくりゆっくり歩いていた。

 白いはずの顔もまっ黒であった。覆面をしているのだ。着物の(すそ)が広くダブダブして、足を隠しているように見えた。黒いマントを着ているのに違いない。

 ああ、あいつだ。覆面の怪物だ。悪魔は第二の犠牲(いけにえ)を屠って、闇の空をいずれへか立ち去ろうとしているのだ。

「お父さん、あいつです。おい、君たち早く!」

 そこに集まっていた書生の二、三は、ためらわず窓をひらいて、庭へ飛び出して行った。警視庁からきている刑事も時を移さず庭へ出て行った。

 樹木の中に懐中電燈の光が交錯し、黒い人影が右往左往するのが眺められた。いつの間にか煉瓦塀を乗り越して、そとへ出ているものもあるらしく、内とそとから呼びかわす声が無気味に聞こえた。

 だが、怪物はどこをどう逃げたのか、いくら探してもその姿を(とら)えることができなかった。

 刑事や書生たちがむだな捜索を打ち切って、がっかりして元の部屋に引き返し、不思議だ不思議だと言いかわしているところへ、外出姿の洋装の綾子が、どこからか帰ってきた。そして、妹の変死を知ると、いきなりその屍体にすがりついて、鞠子の名を呼びながら、むせび泣くのであった。

「姉さん、どこへ行っていたの? 夜外出なんかして物騒じゃないか」

 一郎が詰問するように言うと、綾子は涙に濡れた顔を上げてじっと弟の顔を見つめたが、何も言わず、ただ一種異様の(なぞ)のような微笑を浮かべるばかりであった。

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