2話

1,760字 約4分 1999年3月1日 公開

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 白はやっと(あえ)ぎ喘ぎ、主人の家へ帰って来ました。黒塀(くろべい)の下の犬くぐりを抜け、物置小屋を廻りさえすれば、犬小屋のある裏庭です。白はほとんど風のように、裏庭の芝生(しばふ)()けこみました。もうここまで逃げて来れば、(わな)にかかる心配はありません。おまけに青あおした芝生には、幸いお嬢さんや坊ちゃんもボオル投げをして遊んでいます。それを見た白の嬉しさは何と云えば()いのでしょう? 白は尻尾(しっぽ)を振りながら、一足飛(いっそくと)びにそこへ飛んで行きました。

「お嬢さん! 坊ちゃん! 今日は犬殺しに()いましたよ。」

 白は二人を見上げると、息もつかずにこう云いました。(もっともお嬢さんや坊ちゃんには犬の言葉はわかりませんから、わんわんと聞えるだけなのです。)しかし今日はどうしたのか、お嬢さんも坊ちゃんもただ呆気(あっけ)にとられたように、頭さえ()でてはくれません。白は不思議に思いながら、もう一度二人に話しかけました。

「お嬢さん! あなたは犬殺しを御存じですか? それは恐ろしいやつですよ。坊ちゃん! わたしは助かりましたが、お隣の黒君は(つか)まりましたぜ。」

 それでもお嬢さんや坊ちゃんは顔を見合せているばかりです。おまけに二人はしばらくすると、こんな妙なことさえ云い出すのです。

「どこの犬でしょう? 春夫(はるお)さん。」

「どこの犬だろう? 姉さん。」

 どこの犬? 今度は白の方が呆気(あっけ)にとられました。(白にはお嬢さんや坊ちゃんの言葉もちゃんと聞きわけることが出来るのです。我々は犬の言葉がわからないものですから、犬もやはり我々の言葉はわからないように考えていますが、実際はそうではありません。犬が芸を覚えるのは我々の言葉がわかるからです。しかし我々は犬の言葉を聞きわけることが出来ませんから、(やみ)の中を見通すことだの、かすかな(におい)()ぎ当てることだの、犬の教えてくれる芸は一つも覚えることが出来ません。)

「どこの犬とはどうしたのです? わたしですよ! 白ですよ!」

 けれどもお嬢さんは不相変(あいかわらず)気味悪そうに白を眺めています。

「お隣の黒の兄弟かしら?」

「黒の兄弟かも知れないね。」坊ちゃんもバットをおもちゃにしながら、考え深そうに答えました。

「こいつも体中(からだじゅう)まっ黒だから。」

 白は急に背中の毛が逆立(さかだ)つように感じました。まっ黒! そんなはずはありません。白はまだ子犬の時から、牛乳(ぎゅうにゅう)のように白かったのですから。しかし今前足を見ると、いや、――前足ばかりではありません。胸も、腹も、後足(あとあし)も、すらりと上品に()びた尻尾(しっぽ)も、みんな鍋底(なべそこ)のようにまっ黒なのです。まっ黒! まっ黒! 白は気でも違ったように、飛び上ったり、()ね廻ったりしながら、一生懸命に()え立てました。

「あら、どうしましょう? 春夫さん。この犬はきっと狂犬(きょうけん)だわよ。」

 お嬢さんはそこに立ちすくんだなり、今にも泣きそうな声を出しました。しかし坊ちゃんは勇敢(ゆうかん)です。白はたちまち左の肩をぽかりとバットに打たれました。と思うと二度目のバットも頭の上へ飛んで来ます。白はその下をくぐるが早いか、元来(もとき)た方へ逃げ出しました。けれども今度はさっきのように、一町も二町も逃げ出しはしません。芝生(しばふ)のはずれには棕櫚(しゅろ)の木のかげに、クリイム色に()った犬小屋があります。白は犬小屋の前へ来ると、小さい主人たちを振り返りました。

「お嬢さん! 坊ちゃん! わたしはあの白なのですよ。いくらまっ黒になっていても、やっぱりあの白なのですよ。」

 白の声は何とも云われぬ悲しさと怒りとに(ふる)えていました。けれどもお嬢さんや坊ちゃんにはそう云う白の心もちも呑みこめるはずはありません。現にお嬢さんは(にく)らしそうに、

「まだあすこに()えているわ。ほんとうに図々(ずうずう)しい野良犬(のらいぬ)ね。」などと、地だんだを踏んでいるのです。坊ちゃんも、――坊ちゃんは小径(こみち)砂利(じゃり)を拾うと、力一ぱい白へ投げつけました。

畜生(ちくしょう)! まだ愚図愚図(ぐずぐず)しているな。これでもか? これでもか?」砂利は続けさまに飛んで来ました。中には白の耳のつけ根へ、血の(にじ)むくらい当ったのもあります。白はとうとう尻尾(しっぽ)を巻き、黒塀の外へぬけ出しました。黒塀の外には春の日の光に銀の(こな)を浴びた紋白蝶(もんしろちょう)が一羽、気楽そうにひらひら飛んでいます。

「ああ、きょうから宿無し犬になるのか?」

 白はため息を()らしたまま、しばらくはただ電柱の下にぼんやり空を眺めていました。

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