平賀源内

3話 源内の遺業

2,434字 約5分 2019年12月18日 公開

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 源内が最初本草(ほんぞう)学を修めてそれに詳しかったことは、(すで)に記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教をうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などと()う人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないと()うので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。

 また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津川に赴いて、そこで金、銀、銅、鉄、緑青(ろくしょう)明礬(みょうばん)、たんぱん、磁石などを見つけ出し、そこで山金採掘の仕事にとりかかりましたが、それはさほどうまくゆかなかったとのことです。しかしその傍らに秩父の山から木炭の焼出しを行い、またそれを運び出すために、荒川に通船業を起して、それには大いに成功したと()われています。この炭焼を始めたのは少し後の事がらで安永四年のことでした。この外に鉱山の関係では、出羽の新庄(しんじょう)侯のために銅の検査を行い、また秋田の佐竹侯のために院内の銀山を視まわったこともあるとのことです。

 源内の始めてつくった源内焼という一種の陶器も広く世間に知られたのでしたが、これは彼が支那交趾(こうし)の陶器の美しい彩色を研究して、それからつくり上げたのだと伝えられています。また明和七年に長崎に赴いた際には、天草深江の土が特別に陶器をつくるのに適しているのを見つけ出し、それを建白(けんぱく)したとのことです。また金唐革とか、紅革などと()われるものを製作したり、伽羅(きゃら)の木で源内櫛(げんないぐし)というのを作ったり、硝子(ガラス)板に水銀を塗って自惚鏡(うぬぼれかがみ)という鏡をも作りました。

 このように源内は実に多方面の仕事をしたのでしたが、(さら)に驚くべきことは、その頃オランダ人の持ち来した考案に基づいて、自分でいろいろな科学的な装置を工夫したことであります。そのなかには()ず今日の寒暖計に相当する寒熱昇降器というのがあり、また方向を示す磁針器や、水平面を見る平線儀というのもありました。平線儀は、その頃田畑用水掛井手(かけいで)溜池(ためいけ)などを築くときに水盛違いで仕損じるのを防ぐためなのでした。しかし源内がそのほかに最も得意としていたのは火浣布(かかんぷ)というのとエレキテルと()う器械との二つでした。

 この中で、火浣布(かかんぷ)というのは、秩父の奥で見つけ出した石綿をつかって、それで織った布なのですが、これで唐米袋と言われているような袋をつくると、それは火に焼けないばかりでなく、その布のよごれは火に(あらわ)れるようにとれてしまうと()うので、火浣布(かかんぷ)と名づけたのでした。それを敷いて香をたくのに最も都合がよいと()うので、香敷に多く使われたということです。

 エレキテルというのは、つまり今日の摩擦起電機のことなのですが、源内はオランダ人の記した処によって自分で工夫して、これをつくったので、安永五年にそれを発明したと伝えられているのです。外側は木箱で出来ており、その側にハンドルをつけて(まわ)すようになっています。箱のなかには車があって、それがハンドルの廻転(かいてん)につれて(まわ)るようになっており、それと共に調帯が硝子(ガラス)の円筒と銀箔(ぎんぱく)の貼ってある板とを摩擦して電気をおこす仕掛けになっています。そしてこの電気は針金の線で蓄電器へ導かれるようにしてあります。源内はこのエレキテルをつかって、紙細工の人形を動かしたり、火花をとばしたりしたので、その頃の人々はそれを眺めて、いかにも驚いたと()うことであります。安永五年と()えば、西暦一七七六年に当るので、西洋でもまだ電流をつくる電池などはまるで無かった時代であり、クーロンが電気力の法則を見つけ出したのも、それより後の一七八五年のことであったのですから、そういう時代に我が国で源内によりエレキテルがつくられたと()うことは、まことに著しいことであったと()わなければなりますまい。

 このほかに、源内の行った仕事としては、西洋の油絵の描き方を会得して、それを人々に伝えたり、また田沼侯のためにオランダ語の翻訳(ほんやく)に従事したりしたことです。その著書としては、本草(ほんぞう)に関するものがたくさんにある外に、農作物、物産に関するものもあり、火浣布(かかんぷ)、陶器、寒熱昇降器などの説明もあり、また他面には多くの滑稽本(こっけいぼん)洒落本(しゃれぼん)、及び浄瑠璃の作品があるので、これ等は実は源内があらゆる方面においてすぐれた才能をもっていたことを示すものであります。しかしそれにも拘らず晩年には甚だ不遇であったので、殊に安永八年には図らずも罪を得て十一月二十日に牢獄(ろうごく)につながれることとなり、十二月十八日に獄内で死歿したと()うことです。この罪を得た原因についてもいろいろの説があって、どれが本当かわかりませんが、ともかくその際に人に刄傷(にんじょう)を加えたのは確かなようです。その墓所は江戸、浅草橋場町の総泉寺と、郷里の志度浦の自性院とにあるのですが、杉田玄白がその碑文のなかに、「非常の人あり、非常の事を好む。(ああ)非常の人、(つい)に非常に死す」と記しているそうです。ともかくこのように平賀源内はその当時において(まれ)に見る非常の人であったに違いないので、しかし一般の人々に先だって彼が科学や技術の道に進んだことは、いつ迄も忘れられない事がらなのでありましょう。この点を尊重して大正十三年には源内に従五位を追贈せられたので、彼もまたこれによりて安んじて(めい)することができるのでありましょう。また現に彼の遺品としては、磁針器と平線儀とが香川県の教育会議所蔵として残っており、エレキテルの一つは逓信博物館に、もう一つは志度町の平賀家にあり、金唐革張りの手文庫が秩父の久保道三氏の許にあるとのことです。私たちは今日において遠い以前の源内のことを想うと、そこにいろいろな感想をもたないわけにゆかないのでしょう。

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