関孝和

1話 古い頃の日本の数学

958字 約2分 2019年10月24日 公開

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 数学と()えば、今ではすべて西洋から輸入した算法(さんぽう)が用いられ、それが一般に行われているのですが、日本にも昔の江戸時代には和算と(とな)えられている数学がかなりに発達して、たくさんの和算学者が出たのでした。この和算がなぜ西洋の数学に変えられたかと()うことについては、いろいろの理由もあるのですが、大体には運算(うんざん)の方法がめんどうであったり、またごく特別な問題だけを主にしていましたので、それよりも広い西洋の数学で置き換えられることになったのでした。しかしそれにしても、かなりに古い頃にこのような和算が我が国で発達したということは、大いに注目されなくてはならない事がらでもあり、それについて誰しもが幾らかは知っておかなくてはならないのであるとも思われるのです。

 和算の初まりは、もちろん支那の数学が我が国に伝えられたことにあるのですが、支那ではごく古い時からかなりにすぐれた数学者が出ているので、(とう)(そう)の頃にはよほど進んで来て居り、その後の元の郭守敬(かくしゅけい)という人の(はじ)めた天元術というのは、(こと)に名だかいものです。そういう支那の算法が我が国に伝わって来たのは、江戸時代の初期の頃でありますが、それから(ようや)くこれを研究する学者が我が国にも出て来たので、万治、寛文年間に世に出た磯村吉徳(いそむらよしのり)算法闕疑抄(さんぽうけつぎしょう)とか、佐藤正興(さとうまさおき)算法根源記(さんぽうこんげんき)とか、澤口一之(さわぐちかずゆき)古今算法記(ここんさんぽうき)とかは、その当時の算学書としていずれも名だかいものでありました。ところでその後に和算を大いに進めたのが、ここでお話ししようとする關孝和(せきたかかず)でありまして、その並々ならぬ努力によって關流の算法というものが出来あがり、この伝統が近く明治の初年までも続いて、その間にたくさんの名だかい数学者を輩出させたのでありました。明治以後になって、さきに述べましたように、これは西洋の数学に変えられることになったのですが、しかし和算がこれだけに進んだというのも、それは最初にその発展に努めた關孝和の大きな仕事のおかげであり、またそのなかには実際に同じ時代に西洋で見出だされたものに比べられるすばらしい発見などもあったことを想いますと、和算家としての關孝和の名は、我が国での大きな誇りの一つと見なくてはならないのでしょう。そこで關孝和がどんな仕事をのこしたかと()うことについて、ここでごく大略のお話をしてみることにします。

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