伯爵の釵

1話 伯爵の釵(1)

7,116字 約14分 2003年9月11日 公開

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       一

 このもの(がたり)の起った土地は、清きと、美しきと、二筋の大川、市の両端を流れ、真中央(まんなか)に城の天守なお高く(そび)え、森黒く、(ほり)(あお)く、国境の山岳は重畳(ちょうじょう)として、湖を包み、海に沿い、橋と、坂と、辻の柳、(いらか)の浪の町を(いだ)いた、北陸の都である。

 一年(ひととせ)、激しい旱魃(かんばつ)のあった真夏の事。

 ……と言うとたちまち、天に可恐(おそろ)しき入道雲()き、地に水論の修羅の(ちまた)の流れたように聞えるけれど、決して、そんな、物騒な沙汰(さた)ではない。

 かかる折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、この土地に七日間の興行して、全市の湧くがごとき人気を博した。

 極暑の、(ひでり)というのに、たといいかなる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、――(ことわざ)に、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、大盥(おおだらい)に満々と水を(たた)え、蝋燭(ろうそく)に灯を点じたのをその中に立てて目塗(めぬり)をすると、壁を(とお)して煙が(うち)(みなぎ)っても、火気を呼ばないで安全だと言う。……火をもって火を制するのだそうである。

 ここに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるがごとき演劇は、あたかもこの(てつ)だ、と(とな)えて()い。雲は()け、草は(しぼ)み、水は()れ、人は(あえ)ぐ時、一座の劇はさながら褥熱(じょくねつ)に対する氷のごとく、十万の市民に、一剤、清涼の気を(もた)らして剰余(あまり)あった。

 (はだ)の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、(こぞ)って座中の明星と(たた)えられた村井紫玉(しぎょく)が、

「まあ……前刻(さっき)の、あの、小さな()は?」

 公園の茶店に、一人(しずか)に憩いながら、緋塩瀬(ひしおぜ)煙管筒(きせるづつ)結目(むすびめ)を解掛けつつ、()と思った。……

 (まげ)も女優巻でなく、わざとつい通りの束髪で、薄化粧の淡洒(あっさり)した意気造(いきづくり)形容(しな)に合せて、煙草入(たばこいれ)も、好みで持った気組の婀娜(あだ)

 で、見た処は芸妓(げいしゃ)内証歩行(ないしょあるき)という風だから、まして女優の、忍びの出、と言っても()風采(ふう)

 また実際、紫玉はこの日は忍びであった。演劇(しばい)昨日(きのう)楽になって、座の中には、直ぐに(つぎ)興行の隣国へ、早く先乗(さきのり)をしたのが多い。が、地方としては、これまで経歴(へめぐ)ったそこかしこより、観光に価値(あたい)する名所が(おびただし)い、と聞いて、中二日ばかりの休暇(やすみ)を、紫玉はこの土地に居残った。そして、旅宿に二人附添った、玉野、玉江という女弟子も連れないで、一人で(そっ)と、……日盛(ひざかり)もこうした身には苦にならず、町中(まちなか)を見つつ(そぞろ)に来た。

 (おも)うに、太平の世の国の(かみ)が、隠れて民間に微行するのは、(まつりごと)を聞く時より、どんなにか得意であろう。落人(おちゅうど)のそれならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさえ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、その都度、ハッと隠れ忍んで、微笑(ほほえ)み微笑み通ると思え。

 深張(ふかばり)涼傘(ひがさ)の影ながら、なお面影は透き、色香は(ほの)めく……心地すれば、(たれ)(はばか)るともなく自然(おのず)から俯目(ふしめ)俯向(うつむ)く。謙譲の(つま)はずれは、倨傲(きょごう)の襟より品を備えて、尋常な姿容(すがたかたち)は調って、焼地に()りつく影も、水で描いたように涼しくも清爽(さわやか)であった。

 わずかに畳の(へり)ばかりの、日影を選んで辿(たど)るのも、人は目を《みは》って、鯨に乗って人魚が通ると見たであろう。……素足の白いのが、すらすらと黒繻子(くろじゅす)の上を(すべ)れば、(どぶ)(ながれ)も清水の音信(おとずれ)

 で、真先(まっさき)に志したのは、城の(やぐら)と境を接した、三つ二つ、全国に指を屈するという、景勝の公園であった。

       二

 公園の入口に、樹林を背戸に、蓮池(はすいけ)を庭に、柳、藤、桜、山吹など、飛々(とびとび)に名に呼ばれた茶店がある。

 紫玉が、いま腰を掛けたのは柳の茶屋というのであった。が、(あか)(たすき)で、色白な娘が運んだ、煎茶(せんちゃ)煙草盆(たばこぼん)を袖に控えて、さまで(たしな)むともない、その、伊達(だて)に持った煙草入を手にした時、――

「……あれは女の()だったかしら、それとも男の児だったろうかね。」

 ――と思い出したのはそれである。――

 で、華奢造(きゃしゃづく)りの黄金(きん)煙管(ぎせる)で、余り()れない、ちと覚束(おぼつか)ない手つきして、青磁色の手つきの瀬戸火鉢を探りながら、

「……帽子を……(かぶ)っていたとすれば、男の児だろうが、青い鉢巻だっけ。……麦藁(むぎわら)に巻いた(きれ)だったろうか、それともリボンかしら。色は判然(はっきり)覚えているけど、……お待ちよ、――とこうだから。……」

 取って着けたような()み方だから、見ると、ものものしいまでに、打傾いて一口吸って、

「……年紀(とし)は、そうさね、七歳(ななつ)六歳(むッつ)ぐらいな、色の白い上品な、……男の児にしてはちと綺麗過ぎるから女の児――だとリボンだね。――青いリボン。……幼稚(ちいさ)くたって()と限りもしないわね。では、やっぱり女の児かしら。それにしては麦藁帽子……もっともおさげに結ってれば……だけど、そこまでは気が付かない。……」

 大通りは一筋だが、道に迷うのも一興で、そこともなく、裏小路へ紛れ込んで、低い土塀から(うり)茄子(なす)(はたけ)(のぞ)かれる、荒れ寂れた邸町(やしきまち)を一人で通って、まるっきり人に行合(ゆきあ)わず。白熱した日盛(ひざかり)に、よくも羽が焦げないと思う、白い蝶々の、不意にスッと来て、飜々(ひらひら)と擦違うのを、吃驚(びっくり)した顔をして見送って、そして莞爾(にっこり)……したり……そうした時は象牙骨(ぞうげぼね)の扇でちょっと招いてみたり。……土塀の崩屋根(くずれやね)を仰いで血のような百日紅(さるすべり)の咲満ちた枝を、涼傘(ひがさ)(さき)(くす)ぐる、と(たま)らない。とぶるぶるゆさゆさと()るのに、「御免なさい。」と言ってみたり。石垣の草蒸(くさいきれ)に、棄ててある瓜の皮が、化けて脚が生えて、むくむくと動出しそうなのに、「あれ。」と飛退(とびの)いたり。取留めのないすさびも、この女の人気なれば、話せば逸話に伝えられよう。

 低い山かと見た、樹立(こだち)の繁った高い公園の下へ出ると、坂の上り口に(やしろ)があった。

 宮も大きく、境内も広かった。が、砂浜に鳥居を立てたようで、拝殿の裏崕(うらがけ)には鬱々(うつうつ)たるその公園の森を負いながら、広前(ひろまえ)は一面、真空(まそら)なる太陽に、(こいし)の影一つなく、ただ白紙(しらかみ)を敷詰めた光景(ありさま)なのが、日射(ひざし)に、やや(きば)んで、(びょう)として、どこから散ったか、百日紅の二三点。

 ……覗くと、静まり返った正面の(きざはし)(かたわら)に、(べに)の手綱、朱の(くら)置いた、つくりものの白の神馬(しんめ)寂寞(せきばく)として一頭(ひとつ)立つ。横に公園へ上る坂は、見透(みとお)しになっていたから、涼傘のままスッと鳥居から抜けると、紫玉の姿は色のまま鳥居の柱に映って通る。……そこに屋根囲(やねがこい)した、(おおい)なる石の御手洗(みたらし)があって、青き竜頭(りゅうず)から(たた)えた水は、且つすらすらと玉を乱して、(さっ)(すだれ)噴溢(ふきあふ)れる。その手水鉢(ちょうずばち)周囲(まわり)に、ただ一人……その稚児が居たのであった。

 が、炎天、人影も絶えた折から、父母(ちちはは)の昼寝の夢を抜出した、神官の()であろうと紫玉は()た。ちらちら廻りつつ、廻りつつ、あちこちする。……

 と、御手洗は高く、稚児は小さいので、下を伝うてまわりを廻るのが、さながら、石に刻んだ形が、噴溢れる水の影に誘われて、すらすらと動くような。……と視るうちに、稚児は伸上り、伸上っては、いたいけな手を空に、すらりと動いて、伸上っては、また空に手を伸ばす。――

 紫玉はズッと寄った。稚児はもう涼傘の陰に入ったのである。

「ちょっと……何をしているの。」

「水が欲しいの。」

 と、あどけなく言った。

 ああ、それがため足場を取っては、取替えては、手を伸ばす、が爪立っても、青い(きれ)を巻いた、その振分髪、まろが丈は……筒井筒(つついづつ)その(なかば)にも届くまい。

       三

 その御手洗の高い縁に乗っている柄杓(ひしゃく)を、取りたい、とまた稚児がそう言った。

 紫玉は思わず微笑(ほほえ)んで、

「あら、こうすれば仔細(わけ)ないよ。」

 と、半身を斜めにして、溢れかかる水の一筋を、玉の(しずく)に、(さっ)と散らして、赤く燃ゆるような唇に()けた。ちょうど(かわ)いてもいたし、水の(きよ)い事を見たのは言うまでもない。

「ねえ、お前。」

 稚児が仰いで、(じっ)と紫玉を()て、

「手を(きよ)める水だもの。」

 直接(じか)(くち)(つけ)るのは不作法だ、と(とが)めたように聞えたのである。

 劇壇の女王(にょおう)は、気色(けしき)した。

「いやにお茶がってるよ、生意気な。」と、軽くその(つむり)(てのひら)(たた)き放しに、()と広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、さてやがてこの茶屋に憩ったのであった。――

 今思うと、手を触れた稚児の(つむり)も、女か、男か、不思議にその感覚が残らぬ。気は涼しかったが、暑さに、いくらか(ぼう)としたものかも知れない。

(ねえ)さん、町から、この坂を上る処に、お宮がありますわね。」

「はい。」

「何と言う、お社です。」

「浦安神社でございますわ。」と、片手を畳に、娘は行儀正しく答えた。

「何神様が祭ってあります。」

「お父さん、お父さん。」と娘が、つい(そば)に、蓮池(はすいけ)に向いて、(じんべ)という(ひざ)ぎりの帷子(かたびら)で、眼鏡の下に内職らしい網をすいている半白の父を呼ぶと、急いで眼鏡を外して、コツンと水牛の柄を畳んで、台に乗せて、それから向直って、丁寧に辞儀をして、

「ええ、浦安様は、浦安かれとの、その御守護じゃそうにござりまして。水をばお(つかさど)りなされます、竜神と申すことでござります。これの、太夫様にお茶を替えて上げぬかい。」

 紫玉は我知らず衣紋(えもん)(しま)った。……(とな)えかたは相応(そぐ)わぬにもせよ、(へた)な山水画の(なか)の隠者めいた老人までが、確か自分を知っている。

 心着けば、正面神棚の下には、我が姿、昨夜(ゆうべ)(ふん)した、劇中女主人公(ヒロイン)の王妃なる、玉の鳳凰(ほうおう)のごときが掲げてあった。

「そして、……」

 声も朗かに、且つ慎ましく、

「竜神だと、女神(おんながみ)ですか、男神(おとこがみ)ですか。」

「さ、さ。」と老人は膝を刻んで、あたかもこの(とい)を待構えたように、

「その儀は、とかくに申しまするが、いかがか、いずれとも相分りませぬ。この公園のずッと奥に、真暗(まっくら)巌窟(いわや)の中に、一ヶ処清水の()く井戸がござります。古色の(おびただ)しい青銅の竜が(わだかま)って、井桁(いげた)(ふた)をしておりまして、金網を張り、みだりに近づいてはなりませぬが、霊沢金水(れいたくこんすい)と申して、これがためにこの市の名が起りましたと申します。これが奥の院と申す事で、ええ、貴方様(あなたさま)が御意の浦安神社は、その前殿(まえどの)と申す事でござります。御参詣(おまいり)を遊ばしましたか。」

「あ、いいえ。」と言ったが、すぐまた稚児の事が胸に浮んだ。それなり一時言葉が途絶える。

 森々(しんしん)たる日中(ひなか)の樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前に(そび)ゆる。茶店の横にも、見上るばかりの(えんじゅ)(えのき)の暗い影が(もみ)(かえで)を薄く(まじ)えて、藍緑(らんりょく)(ながれ)群青(ぐんじょう)の瀬のあるごとき、たらたら(あが)りの(こみち)がある。滝かと思う蝉時雨(せみしぐれ)。光る雨、輝く()の葉、この炎天の下蔭は、あたかも稲妻に(こも)る穴に似て、もの(すご)いまで寂寞(ひっそり)した。

 木下闇(こしたやみ)、その横径(よこみち)中途(なかほど)に、空屋かと思う、(ひさし)の朽ちた、誰も居ない店がある……

       四

 (とざ)してはないものの、奥に人が居て住むかさえ疑わしい。それとも日が暮れると、白い首でも出てちとは客が寄ろうも知れぬ。店一杯に雛壇(ひなだん)のような台を置いて、いとど薄暗いのに、三方を黒布で張廻した、壇の附元(つけもと)に、流星(ながれぼし)髑髏(しやれこうべ)(ひから)びた(ひとりむし)に似たものを、点々並べたのは(まと)である。地方の盛場には時々見掛ける、吹矢の機関(からくり)とは一目()て紫玉にも分った。

 (まこと)は――吹矢も、化ものと名のついたので、幽霊の廂合(ひあわい)の幕から(さかさま)にぶら下がり、見越入道(みこしにゅうどう)(あつら)えた穴からヌッと出る。雪女は(こしら)えの黒塀に(うっす)り立ち、産女鳥(うぶめどり)は石地蔵と並んでしょんぼり(たたず)む。一ツ目小僧の豆腐買は、流灌頂(ながれかんちょう)の野川の(へり)を、大笠(おおがさ)俯向(うつむ)けて、跣足(はだし)でちょこちょこと巧みに歩行(ある)くなど、仕掛ものになっている。……いかがわしいが、生霊(いきりょう)と札の立った就中(なかんずく)小さな的に吹当てると、床板ががらりと転覆(ひっくりかえ)って、大松蕈(おおまつたけ)を抱いた()(ふんどし)のおかめが、とんぼ返りをして莞爾(にっこり)と飛出す、途端に、四方へ引張(ひっぱ)った綱が揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで一斉(いちどき)にがんがらん、どんどと鳴って、それで(いち)が栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたい歩行(ある)波張(なみばり)切々(きれぎれ)に、藪畳(やぶだたみ)打倒(ぶったお)れ、(かざり)の石地蔵は仰向けに反って、視た処、ものあわれなまで寂れていた。

 ――その軒の土間に、背後(うしろ)むきに(しゃが)んだ僧形(そうぎょう)のものがある。坊主であろう。墨染の麻の法衣(ころも)()れ破れな(なり)で、鬱金(うこん)ももう鼠に汚れた布に――すぐ、分ったが、――三味線を一(ちょう)盲目(めくら)琵琶(びわ)背負(じょい)背負(しょ)っている、漂泊(さすら)門附(かどづけ)(たぐい)であろう。

 何をか働く。人目を避けて、(うずくま)って、(しらみ)(ひね)るか、(かさ)()くか、弁当を使うとも、掃溜(はきだめ)を探した干魚(ほしうお)の骨を(しゃぶ)るに過ぎまい。乞食のように薄汚い。

 紫玉は敗竄(はいざん)した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い歎息(ためいき)を漏らした。且つあわれみ、且つ可忌(いまわ)しがったのである。

 灰吹(はいふき)に薄い(つば)した。

 この世盛りの、思い上れる、美しき女優は、樹の緑蝉の声も(したた)るがごとき影に、(かまち)自然(おのず)から浮いて高い処に、色も濡々(ぬれぬれ)と水際立つ、紫陽花(あじさい)の花の姿を(たわ)わに置きつつ、翡翠(ひすい)紅玉(ルビイ)、真珠など、指環(ゆびわ)を三つ四つ()めた白い指をツト挙げて、(びん)後毛(おくれげ)を掻いたついでに、白金(プラチナ)高彫(たかぼり)の、翼に金剛石(ダイヤ)(ちりば)め、目には血膸玉(スルウドストン)(くちばし)と爪に緑宝玉(エメラルド)象嵌(ぞうがん)した、白く輝く鸚鵡(おうむ)(かんざし)――何某(なにがし)の伯爵が心を籠めた(おくり)ものとて、人は知って、(伯爵)と(とな)うるその釵を抜いて、脚を返して、喫掛(のみか)けた火皿の(やに)(さら)った。……伊達(だて)煙管(きせる)は、煙を吸うより、手すさみの(しぐさ)が多い慣習(ならい)である。

 三味線背負った乞食坊主が、引掻(ひっか)くようにもぞもぞと肩を(ゆす)ると、一眼ひたと()いた、(めっかち)の青ぶくれの(かお)を向けて、こう、引傾(ひっかたが)って、(じっ)と紫玉のその(さま)を視ると、肩を()いた(つえ)(さき)が、一度胸へ引込(ひっこ)んで、前屈(まえかが)みに、よたりと立った。

 杖を(こみち)に突立て突立て、辿々(たどたど)しく下闇(したやみ)(うごめ)いて下りて、城の(かた)へ去るかと思えば、のろく後退(あとじさり)をしながら、茶店に向って、(ほっ)と、立直って一息()く。

 紫玉の眉の(ひそ)む時、五間ばかり軒を離れた、そこで早や、此方(こなた)へぐったりと叩頭(おじぎ)をする。

 知らない(ふり)して、目をそらして、紫玉が釵に俯向(うつむ)いた。が、濃い睫毛(まつげ)の重くなるまで、坊主の影は(ちかづ)いたのである。

「太夫様。」

 ハッと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、目前(めさき)の土間に、両膝を折っていた。

「…………」

「お願でござります。……お慈悲じゃ、お慈悲、お慈悲。」

 仮初(かりそめ)に置いた涼傘(ひがさ)が、襤褸(ぼろ)法衣(ごろも)の袖に触れそうなので、(そっ)と手元へ引いて、

「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の父娘(おやこ)に目を()った。

 立って声を掛けて追おうともせず、父も娘も(しずか)に視ている。

       五

 しばらくすると、この(ひでり)に水は()れたが、碧緑(へきりょく)の葉の深く繁れる中なる、緋葉(もみじ)の滝と云うのに対して、紫玉は蓮池(はすいけ)(みぎわ)歩行(ある)いていた。ここに別に滝の四阿(あずまや)と称うるのがあって、八ツ橋を掛け、飛石を置いて、枝折戸(しおりど)(とざ)さぬのである。

 で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻りする事になる。紫玉はあの、吹矢の(みち)から公園へ入らないで、引返したので、……涼傘を投遣(なげや)りに(かざ)しながら、袖を柔かに、手首をやや硬くして、あすこで抜いた白金(プラチナ)鸚鵡(おうむ)(かんざし)、その翼をちょっと(つま)んで、きらりとぶら下げているのであるが。

 仔細(しさい)希有(けう)な、……

 坊主が土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お願というのが金でも米でもない。施与(ほどこし)には違いなけれど、変な事には「お禁厭(まじない)をして遣わされい。虫歯が(うず)いて堪え難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い(さま)(てのひら)で抱えて、首を引傾(ひっかたむ)けた同じ方の一眼が白くどろんとして(つぶ)れている。その目からも、ぶよぶよした唇からも、汚い(しる)が垂れそうな塩梅(あんばい)。「お慈悲じゃ。」と更に拝んで、「手足に五寸釘を打たりょうとても、かくまでの苦悩(くるしみ)はございますまいぞ、お(なさけ)じゃ、禁厭(まじの)うて遣わされ。」で、禁厭とは別儀でない。――その紫玉が手にした白金(プラチナ)の釵を、歯のうろへ挿入(さしいれ)て欲しいのだと言う。

「太夫様お手ずから。……竜と蛞蝓(なめくじ)ほど違いましても、(しょう)あるうちは(わし)じゃとて、芸人の端くれ。太夫様の御光明(おひかり)に照らされますだけでも、この疚痛(いたみ)は忘られましょう。」と、はッはッと息を()く。……

 既に、何人(なんぴと)であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言われたのでは、そのいわゆる禁厭の断り(にく)さは、金銭の無心をされたのと同じ事――但し手から手へ渡すも恐れる……落して釵を貸そうとすると、「ああ、いや、太夫様、お手ずから。……貴女様(あなたさま)(はだ)移香(うつりが)、脈の(ひびき)をお釵から伝え受けたいのでござります。貴方様の御血脈(おけちみゃく)、それが禁厭になりますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を開いた中へ、紫玉は()む事を得ず、手に持添えつつ、釵の脚を挿入れた。

 (あえ)ぐわ、(しゃぶ)るわ!鼻息がむッと(かか)る。(たま)らず袖を巻いて唇を(おお)いながら、勢い釵とともに、やや白やかな手の伸びるのが、雪白(せっぱく)なる鵞鳥(がちょう)の七宝の瓔珞(ようらく)を掛けた風情なのを、無性髯(ぶしょうひげ)で、チュッパと啜込(すすりこ)むように、坊主は犬蹲(いぬつくばい)になって、(あご)でうけて、どろりと()め込む。

 と、紫玉の手には、ずぶずぶと響いて、腐れた瓜を突刺す気味合(きみあい)

 指環は緑紅の結晶したる玉のごとき(にじ)である。(まぶ)しかったろう。坊主は開いた目も閉じて、《ぼう》とした顔色(がんしょく)で、しっきりもなしに、だらだらと(よだれ)を垂らす。「ああ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」――

 不思議な光景(ようす)は、美しき女が、針の(さき)で怪しき魔を操る、舞台における、神秘なる場面にも見えた。茶店の娘とその父は、感に堪えた観客(かんかく)のごとく、呼吸(いき)を殺して固唾(かたず)を飲んだ。

 ……「ああ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと抜衣紋(ぬきえもん)。で、両掌(りょうて)を仰向け、低く紫玉の雪の爪先(つまさき)を頂く真似して、「かように(むさ)いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお目触(めざわ)り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を()じるように杖で立って、

「お有難や、有難や。ああ、苦を忘れて()が抜けた。もし、太夫様。」と敷居を(また)いで、蹌踉(よろけ)(ざま)に振向いて、「あの、そのお釵に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡を()る時、「歯くさが着いてはおりませぬか。恐縮(おそれ)や。……えひひ。」とニヤリとして、

「ちゃっとお()きなされませい。」これがために、紫玉は手を掛けた懐紙(ふところがみ)を、余儀なくちょっと逡巡(ためら)った。

 同時に、あらぬ(かた)()(おもて)を背けた。

       六

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