7話 七
読み方を変える
一週間ばかりたつ。あれ以来、娘の茫然とした無口にわたしは手古擦つてゐる。――娘も婆やもわたしを敬遠して、その癖言ひ分ありげな様子を見せてゐる。その態度がわたしに堪へられなかつた。わたしは自分から荒々しく切り出した。わたしのどこに悪い処があつたかと! ところが娘も婆やも部屋の隅で、互に引つ附きあはん計りにしてゐるのだ。わたしは強情に――さういふ感じがしたのだが――押し黙つてゐる娘をたうとう打つた。あれを打つたといふ触感が淋しくわたしの手に残つた。娘は泣く、わたしも涙をこぼす始末だ。それから感情が鎮まると、「これも皆お前が可愛いからだ」といふやうな愚痴を、わたしはしきりと説いた。酔醒の風が冷いやうに、娘の心の離反に対する不安がわたしには冷かつた。――果してその翌日位からのあの無口だ。どう手を替へて見てもそれが緩まない。わたしは海水浴にも婆やを附けて行かせる事にしてゐる。……独りで留守をしてゐると、此先どうしたものかを心細く考へる。何か娘に向つて具体的な事を云ひ出さねばなるまいと思ひながら、藪蛇を恐れて一日々々と延ばしてしまふ。
けふもわたしは皆を海辺に出した。五時過ぎだつた。子供達が遠くからそれと分る話声を立てて帰つて来ると、秋子が一所にゐない。「姉さんは」とわたしは聞いてみた。頭痛がすると云つてさつき一人で家へ帰つたといふ。さう云はれれば、階下でコト/\と物音がしてゐたやうにも思つた。部屋になつてゐる四畳半の襖に行つて、「どうかしたかね」かう断つて開けて見たが、ガラ空きである。だがわたしは机の上の紙片を目に付けた。
――お定まりの書き置きだ! 娘は青木の家に帰つたのだ。
「俺の立場を一体どうしてくれる!」わたしは思つた。勝手にするがいゝ、さう思つた。わたしは未練がましく女学校風な文章を飛ばし読みした。
「……確かに私はヒステリーとか云ふ風になつてゐたのでございます。あんまり境遇が一時に変つて、気にかけなくてはならない事ばかり、(これは辛い事の意味ではございません)身のまはりにあるので、それが段々重荷になつて、つまらない事まで気になり始めたのでございます。自分で只無暗とつらい/\と思ひ込むやうになつて、たうとうあんな真似をしてしまひました。けれども今になつて見ると、やはり青木に帰らなくては、私は落ち着けないやうに思ひます。これは父上様のよく仰る、気まぐれではないやうに思はれます。云々」
「なーんだ」わたしは出し抜かれたやうな空ろな気になつた。わたしは腕組をして、四畳半をたゞうろついた。帽子をかぶつて外に出た。
兎も角もわたしは停車場に行つて見た。だがそれは、次の汽車に乗つてでも捕へなくては、と云ふやうな焦慮からではなく、たゞ動揺してゐる感情を自分で撫でてやる為だつた。――一つ前の列車にしても、もう四十分前に出てゐた。しかし、書き置きの文句の割合にしつかりしてゐる点から、わたしには娘の身の上の間違を気遣ふ心持は殆んど起らなかつた。わたしは電信受付口で青木家に電報を書いた。わたしには一寸努力の要することだつた。……汽車の発着のない火点し頃の構内で、ガランとした三和土の上に立つて、何かこれでもう考へ落した事はなかつたかと思つて見た。元の往来を引返すと、新月が黄ろくシグナルは、夜間の電燈応用の分に変つてゐた。
あれほど折合の悪くなつて来てゐる青木の家に単独で汽車に乗つて戻つて行く。そんな気力があの娘の身体に存在してゐたかと考へると、わたしにはどうも吃驚せぬ訳には行かなかつた。「若い者の心理状態は、何が何やら訳が分らん」――わたしは足元の暗くなつて行く線路の枕木を、足の感覚に頼つて茫然踏んで行きながら嘆つたものだ。が、わたしには一方ぐつたりとした安堵もなくはなかつたのだ。もうかうなつてはわたしの思慮の尺度には合はない。すべての人間の心理状態がすべてわたしには新式過ぎる。
「痴話喧嘩の真似事でも昂じたのか」
わたしは殊更冷淡に思つて見たりした。
家に帰つてわたしは冷えた食事をした。柱時計を見て「今頃品川に着いたらう」と時刻を計つてみた。今になつてはあの青木の「高い閾」を自分から跨ぎに出て行つた娘の気力に、わたしの方から頼るやうな心持になつてゐた。そして今生きてゐず、地面が無感覚なやうに無感覚でゐる妻を、何も知らずに静かだと思つた。平穏だと思つた。
わたしは電燈を机の上に引寄せて、すぐさま先生御夫婦に報告を認めた。「何事も親馬鹿と申すべきか」――形容詞を使ふやうにこんな文句を使つた時、それが何故か今のわたしには気に入つた。