黒百合

10話 黒百合(10)

6,967字 約14分 2005年4月14日 公開

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 慶造は言効(いいがい)なしとや、握拳(にぎりこぶし)を膝に置き、(おもて)を犯さんず、意気組見えたり。

小主公(わかだんな)貴方(あなた)はなぜそう弱くおなんなすったね、(やめえ)なんざ気で勝つもんです。大方何でしょう、そんな引込思案をなさいますのは、目のためじゃあござりますまい。かえってその御病気のために、生命(いのち)()らないという女のあるせいでしょう。()うがす、何そりゃ好いた(やつ)のためにゃあ世の中を打棄(うっちゃ)るのも、時と場合にゃ男の意地でさ、品に寄っちゃあ城を一百一束(いっそくひとからげ)にして(てのひら)に握るのと違わねえんでございましょうが、何ですぜ、野郎の方で、はあと溜息(ためいき)をついて女児(あまッこ)の膝に(すが)るようじゃあ、大概(たいげえ)の奴あそこで小首を(かし)げまさ。(てめえ)のためならばな、(かぶと)(しころ)(なッ)ちも()らない、そらよ持って行きねえで、ぽんと身体(からだ)を投出してくれてやる場合もあります代りにゃ、(あま)達引(たてひ)く時なんざ、べらんめえ、これんばかしの(はした)をどうする、手の内ア受けねえよ、かなんかで横ッ(つら)へ叩きつけるくらいでなくッちゃあ、不可(いけ)ませんや。=苦労しもする、させもする=ていのはそりゃあ心意気でさ。」

 慶造は威勢よくぽんと一ツ胸を叩いた。

「ここにあるこッてす。顔へ済まねえをあらわして、さも嬉しそうに難有(ありがて)え、苦労させるなんて弱い()を出して御覧(ごろう)じろ、(やっこ)さんたちまちなめッちまいますぜ。殊に貴方だ、誰だと思ってるんだ、お(ことば)の一ツも懸けられりゃ勿体(もってえ)ねえと心得るが可い位の扱いで、結構でがす。もっとも、まあこうやって女の手一つで立過(たてすご)して、そんな(おっか)ねえ処へ貴方のために参ったんだ、憎くはありません、心中者だ。ですが、そりゃ(わっし)どもはじめ世間で感心する事で、当の対手(あいて)は何の(むすめ)ッ子の生命(いのち)なんざ、幾つ貰ったって髢屋(かもじや)にも売れやしねえ、そんな手間で気の利いた(こう)の物でも(こしら)えろと、こういった工合(ぐあい)でなくッちゃ色男は勤まりませんよ。何でも不便(ふびん)だ、可愛いと思うほど、手荒く取扱って、癇癪(かんしゃく)を起してね、横頬(よこッつら)()りのめしてやりさえすりゃ惚れた奴あ拝みまさ。貴方も江戸児(えどッこ)じゃあがあせんか。いえさ、若山さんの小主公(わかだんな)でしょう。(あま)心中立(しんじゅうだて)を物珍らしそうに、世の中にゃあ出ねえの、おいらこれッきりだのと、だらしのねえ、もう、情婦(いろ)を拵えるのと、坊主になるのとは同一(おんなじ)ものじゃあございませんぜ。しかしまあ盲目(めくら)におなんなすったから、按摩(あんま)にゃあかけがえのねえ女だと、拝んでるんでしょう。でれでれとするのはお金子(かね)のある分だ、貴方のなんざ、(あま)(すが)るんだから(たま)りませんや。え、もし、そんなこッちゃあ(あま)にだって愛想をつかされますぜ。貴方ほどの方がどういうもんです。いや、それとも按摩さんにゃあ相当か。」と、声を激ましていいながら、慶造は、目の見えぬ、(やつ)れた若山の面を見守って、目には涙を(たた)えていた。

「慶造!」と一喝した、(かれ)(あお)くなって、(きっ)と唇を結んだ。

「ええ、」

「用意が出来たらいつでも来い、同志の者の(むかい)なら、冥途(めいど)からだって辞さないんだ。失敬なことをいう、盲人(めくら)がどうした、ものを見るのが私の役か、いざといって船出をする時、船を動かすのは父上(おとっさん)の役、(いかり)を抜くのは慶造貴様の職だ。(みんな)に食事をさせるのはお兼じゃあないか。水先案内もあるだろう、医者もあろう、船の()く処は誰が知ってる、私だ、目が見えないでも勝手な処へ指揮(さしず)をしてやる、おい、星一ツない暗がりでも燈明台なんぞあてにするには及ばんから。」

 と説き得て、拓は片手を背後(うしろ)へついて、悠然として天井を仰いだ。

難有(ありがと)うござります。おお、小主公(わかだんな)。」と、慶造は思わず縁側に額をつけた。

       五十二

「いやもう(ひさし)ぶりで癇癪(かんしゃく)をお起しなすって、こんな心持の可いことはござりません。(わたくし)ゃ変な癖で、大旦那と貴方の癇癪声さえ聞きゃ、ぐっとその溜飲(りゅういん)の下りますんで。へい、それで(わたくし)も安心でござります、ついお心持を丈夫にしようとッて(さき)のように太平楽は並べましたものの、(わたくし)も涙が出ます、実は(こら)えておりました。」

 慶造は(なさけ)なさそうに笑いながら、

「大旦那様はそんなにも有仰(おっし)ゃりますまいが、貴方の御病気の様子を奥様がお聞きなすって御覧(ごろう)じろ、大旦那様の一件で気病(きやみ)でお(なくな)り遊ばしたようなお優しい、お心弱い方がどんなにお歎きでござりましょう。今じゃあ仏様で、草葉の蔭から、かえって小主公(わかだんな)をお守りなすっていらっしゃるんで、その可愛い貴方のためにそういう処へ参りました娘なら、地獄だって、魔所だって、きっとお守りなさいましょうから、御心配にゃあ及びますまい。(のぞみ)の黒百合の花を取ってやがて戻って参りましょうが、しかし打遣(うっちゃ)っちゃあおかれません、貴方に御内縁の嬢さんなら、(わたくし)にゃ新夫人様(にいおくさま)。いや話は別で、そうかといって見ております訳ではござりません。殊に千破矢様というのがその後へおいでなすったという風説(うわさ)、白魚の姉御がいった若様なんで、味方の大将を見殺(みごろし)にはされません。もっとも直ぐにその日、一昨日(おととい)でござりますな、(すくな)からぬ係合(かかりあい)の知事様の嬢さんも、あすこの茶屋まで駈着(かけつ)けましたそうで。あれそれと小田原をやってる処へ、また竜川とかいう千破矢の家の家老が貴方、参ったんだそうで、御主人の安否は拙者がか何かで、昔取った杵柄(きねづか)だ、腕に覚えがありますから、こりゃ強うがす、覚悟をして石滝へ入ろうとすると、どうでございましょう。四五間しかないそうですが、泥水を()って川へ一時に推出して来た、見る間に(くい)を浸して、早や橋板の上へちょろちょろと瀬が着く(さわぎ)。大変だという内に、水足が来て足を()めたっていうんです。それがために(みんな)一雪崩(ひとなだれ)に、引返(ひっかえ)したっていいますが、もっとも何だそうで、その(さき)から風が出て大降になりました様子でござりますな。」

「ああ、その事は昨日(きのう)知事の内から、道とかいう女中が来て私にいった。ちょいちょい見舞ってくれるんだ、今日もつい(さき)に帰ったから聞いているよ。」

「それからはまるで三日、富山中は真暗(まっくら)で、()むかと思うと滝のように降出します。いや神通が切れた、郷屋敷田圃(たんぼ)堤防(つつみ)が崩れた、牛の(ふち)から桜木町へ突懸(つッかか)る、四十物町が少し引くかと思うと、総曲輪が(うみ)だという。それに、間を置いちゃあ大雨ですから市中は(いくさ)です。壁が(くず)れたり、材木が流れたりしますんですが、幸いまだ家が流れる程じゃあないので、ちょうど石滝の方は橋が出たという噂ですから、どうにか路は歩行(ある)かれましょう。お目に(かか)って、いよいと貴方でございます日にゃあ、こっちの嬢さんは御主人なり、一方にゃあ姉御がいった若様もいらっしゃる。どうでございましょう、この辺は水は大丈夫でございますか、もしそれが心配だと貴方ばかりではお目の御不自由、と打遣(うっちゃ)っちゃあ参られませんが。」

「慶造、六十年近くもここに居る荒物屋の婆さんがいうんだ、水には大丈夫だそうだから、私には構わんでも可い。」

 心安く言ったので、慶造は雀躍(こおどり)をして、

「それじゃあ後髪を引かれねえで、可うがす。お二人の先途を見届けて参りましょう。小主公(わかだんな)お気を着けなすって、(のち)ともいわず直ぐに、」

 といった。折からの雨はまた(しの)(つか)ねて、暗々たる空の、殊に黄昏(たそがれ)を降静める。

 慶造は眉を濡らす(しずく)を払って、さし(かざ)した笠を投出すと(ひと)しく、七分三分に(もすそ)をぐい。

「してこいなと遣附(やッつ)けろ、や、本雨だ、威勢が可いぜえ。」

       五十三

 開戸から慶造が躍出したのを、拓は縁に出て送ったが、繁吹(しぶき)を浴びて身を退()いて座に戻った、(かれ)は茫然として手を(つか)ぬるのみ。(なかば)は自分の体のごときお雪はあらず、(あまり)の大降に荒物屋の(ばば)も見舞わないから、戸を閉め得ず、(ともし)()けることもしないで、渠はただ滝のなかに穴あるごとく、雨の音に紛れて物の音もせぬ真暗(まっくら)()の内に数時間を消した。()初更(しょこう)を過ぎつと覚しい時、わずかに一度やや膝を動かして、机の前に寄ったばかり。三日の内にもかばかり長い間降詰めたのは、この時ばかりであった。おどろおどろしい雨の中に、遠く山を隔てた隣国の都と思うあたり、馳違(はせちが)う人の跫音(あしおと)、ものの(ひびき)、洪水の急を報ずる乱調の湿った太鼓、人の叫声(さけびごえ)などがひとしきりひとしきり聞えるのを、奈落の底で聞くような思いをしながら、理学士は恐しい夢を見た。

 こはいかに! 乾坤別有天(けんこんべつにてんあり)。いずこともなく、天(うらら)かに晴れて、黄昏か、朝か、気(すず)しくして、仲秋のごとく澄渡った空に、日も月の形も見えない、たとえば深山(みやま)にして人跡(ひとあと)の絶えたる処と思うに、東西も分かず一筋およそ十四五町の間、雪のごとく、霞のごとく敷詰めた白い花。と見ると()の花のようで、よく山奥の溪間(たにあい)(ながれ)に添うて(むれ)生ずる、のりうつぎ(サビタの一種)であることを認めた

 時にそよとの風もなく、花はただ静かに咲満ちて、真白(まっしろ)な中に、ここかしこ二ツ三ツ岩があった。その岩の辺りで、折々花が揺れて、さらさらと(なび)くのは、下を流るる水の瀬が絡まるのであろう、一鳥声せず。

 理学士は、それともなく石滝の奥ではないかと、ふと心着いて恍惚(うっとり)となる処へ、吹落す疾風(はやて)一陣。蒼空(あおぞら)(なかば)(おお)うた黒い鳥、片翼およそ一間余りもあろうと思う(わし)が、旋風(つむじ)を起して輪になって、ばッと落して、そのうつぎの花に翼を触れたと見ると、あッという人の叫声。途端に飜って舞上った時に、粉吹雪(こふぶき)のごとくむらむらと散って立つ花片(はなびら)の中から、すっくと(あらわ)れた一個の美少年があった。(まく)()(ひじ)を曲げて手首から、垂々(たらたら)と血が流れる(こぶし)を握って、(まなじり)の切上った鋭い目にはッたと敵を(にら)んだが、打仰ぐ空次第に高く、鷲は早や光のない星のようになって消えた。

 少年は、(じっ)とその勁敵(けいてき)の逸し去ったのを見定めた様子であったが、そのまま(なめら)かな岩に(せな)を支えて、仰向(あおむ)けに倒れて、力なげに手を垂れて、(いた)く疲れているもののようである。

 やや有って、今少年が潜んでいた同じ花の下から(そっ)と出たのはお雪であった。黒髪は乱れて(えり)(もつ)れ頬に(かか)り、ふッくりした頬も(しし)落ちて、(すそ)(たもと)もところどころ破れ裂けて、岩に(すが)り草を()み、荊棘(いばら)の中を(くぐ)り潜った様子であるが、手を負うた少年の(かいな)(すが)って、懐紙(ふところがみ)(きず)を押えた、(くれない)はたちまちその幾枚かを通して染まったのである。

 お雪は見るも痛々しく、目も()れたる(さま)して、おろおろ声で、

「痛みますか、痛みますか。」というのが判然(はっきり)聞える。

 眠れるか、少年はわずかにその(かしら)()ったが、血は(とま)らず、(おさ)えた懐紙は手にも(たま)らず染まったので、花の上に棄てた。一点紅、お雪は口を着けてその疵口(きずぐち)を吸ったのである。

 唇が触れた時、少年は(すず)しい目を《みは》って(きっ)と見たが、また閉じて身動きもせず、手は忘れたもののようにお雪がするままに任せていた。

 両人が姿を見ると、我にもあらず、理学士が(ししむら)は動いたのである。

       五十四

 しばらくするとお雪は帯の端を折返して、いつも締めている桃色の下〆(したじめ)を解いて、一尺ばかり曳出(ひきだ)すと、手を掛けた(きぬ)は音がして裂けたのである。

 その(きれ)(きず)を巻いて、放すと、少年はほとんど無意識のごとく手を曲げて胸に(もたら)して咽喉(のど)のあたりへ乗せたが、疲れてすやすやと(ねむ)った様子。顔のあたり、肩のあたり、はらはらと、来て、白く(たま)って、また入乱れて立つは、風に花片(はなびら)が散るのではない、(さき)に大鷲がうつぎの森の静粛を破って以来、絶えず両人(ふたり)の身の(あたり)に飛交う、花の色と等しい、小さな、数知れぬ蝶々で。

 お雪は双の袂の真中(まんなか)を絞って持ち、留まれば美しい眉を(ひそ)める少年の顔の前を、絶えず払い退()け、払い退けする。その都度死装束(しにしょうぞく)として身装(みなり)を繕ったろう、清い襦袢(じゅばん)(くれない)の袂は、ちらちらと蝶の中に交って、()あれば、おのが肩を打ち、且つ胸のあたりを払っていたが、たちまち顔を(しか)めて唇を曲げた。二ツ三ツ体を()ったが(あわただ)しい、我を忘れて肌を脱いだ、単衣(ひとえ)(せな)(こぼ)()づる、雪なす(はだえ)にも(もつ)るる(くれない)、その()のあたりからも袂からも、むらむらとして飛んだのは、(くだん)の白い蝶であった。

 我身(なかば)はその蝶に()したるかと、お雪は呆れ顔をして身内を見たが、にわかに色を染めて(そッ)と少年を見ると、目を開かず。

 お雪は(ほっ)と息を()いて、肌を納めようとした手を動かすに(いとま)なく、きゃッといって平伏した。声に応じて少年はかッぱと()ね起きて押被(おっかぶ)さり、身をもってお雪を(かば)う。娘の体は再び花の中に(うず)もれたが、やや有って(あらわ)れた少年の(せな)には、(すさま)じい鈎形(かぎがた)に曲った(くちばし)が触れた。大鷲は虚を伺って、とこうの(すき)なく蒼空から襲い(きた)ったのであった。

 倒れながら(きっ)とその(おもて)を上げると、翼で群蝶を掻乱(かきみだ)して、白い(けぶり)の立つ中で、鷲は(さっ)と舞い上るのを、血走った目に(みつ)めながら少年は()と立った。思わず胸に縋るお雪の手を取って(たす)けながら、行方を(にら)むと、谷を隔てて(はるか)に見えるのは、杉ともいわず、(とち)ともいわず、(ひのき)ともいわず、二抱(ふたかかえ)三抱(みかかえ)に余る大喬木(だいきょうぼく)がすくすく天をさして枝を交えた、矢来のごとき木間(このま)々々には切倒したと覚しき同じほどの材木が積重なって、(よこた)わって、深森の(うち)(おのず)から(こみち)を造るその上へ、一列になって、一ツ去れば、また一ツ、前なるが隠るれば、後なるが顕れて、ほとんど間断なく牛が歩いた。いずれも鼻頭(はなづら)におよそ三間(あまり)の長綱をつけて、姿形も森の中に定かならず、牛曳(うしひき)と見えるのが飛々に現れて、のッそり悠々として通っていたのであるが、今(くだん)の大鷲が、風を起して一翼に谷を越え、その峰ある処、件の森の中へあからさまに入ったと思うと、牛は宙に躍って跳狂(はねくる)うのが、一ツならず、二ツならず、咄嗟(とっさ)(かん)(まなこ)を遮って七ツ数えると()んだ。

「しっかりしねえ、もう可いぜ。」といって、少年は手を放した。

 お雪は血の気を失った顔を、恐る恐る上げて仰いだが、少年を見ると(ひと)しく()(ふる)わした。

「あらまたお背中を、ちょいと大変でございますよ。」

「可いッてことよ、こればかしが何だ。」といったが、あわれ身を支えかねたか、またどっさりと岩に腰を掛ける。

 お雪は失心の(てい)で姿を繕うこともせず。両膝を折って少年の足許(あしもと)(ひざまず)いて、

「この足手纏(あしてまとい)さえございませねば、貴方お一方はお(たすか)り遊ばすのに訳はないのでございます。」

 と、いう声も身も顫えたのである。

       五十五

「私はどういたしましょう、花も取って頂きました上に、この山に入りましてから貴方ばかり(ひど)い目にお逢わせ申して、今までに、生命(いのち)をお取られ遊ばすかと思いましたことが幾たびあったでございましょう。体も(きず)に遊ばして(かば)って下さいますから、勿体ない、私は一ヶ所擦剥(すりむ)きました処もございません。たとい(さき)の世の約束事でも、これまでに御恩を受けますことはないのでございます。どうぞ私を打遣(うっちゃ)ってお逃げなすって下さいまし、お(ねがい)でございます。貴方にこうして頂きますより殺されます方がどんなに心安いか分りません。失礼ながらお可哀そうで、片時もこんな(こわ)い処に貴方をお置き申したくはございませんから。」と、嗚咽(おえつ)していう声も絶断(たえだえ)

 少年はかえってつッけんどんに、

「生意気な講釈をするない、手前達(てめえッち)の知ったこッちゃあねえや、見殺しにされるもんか。しかし、おい、おいらも、まさかこれほどとは思わなかったが、随分手に余る上に、ものは食わずよ。どこへ出て可いか方角が分らねえし、弱った。()きてる内ゃ助けてやらあ、不可(いけ)なかったら覚悟しねえ。おいら父様(おとっさん)はなし、母様(おっかさん)()くなったし、一人ぼッちで心細かったっけが、こんな時にゃあさっぱりだ、(なさけ)なくも何ともねえが、(てめえ)は可哀そうだな。」といって、さすがの少年が目に暗涙を(たた)えて、膝下(しっか)に、うつぎの花に(うず)もれて(うずくま)る清い(はだえ)と、美しい黒髪とが、わななくのを見た。この一雫(ひとしずく)が身に染みたら、荒鷲(あらわし)(はし)に貫かれぬお雪の五体も裂けるであろう。

 一言の(いら)えも出来ない風情。

 少年も愁然(しゅうぜん)として無言で居たが、心すともなく極めて平気な調子で、

「しょうがねえやな、おい、そうしたら一所に死のうぜ。」と、自から(うなず)くがごとく顔を傾けていった。

 理学士は夢中ながら、おのが命をもって与えんとして、三年(みとせ)の間朝夕室を(おな)じゅうした自分の口からも、かほどまでに情の(こも)った、しかも無邪気な、罪のないことをいい得なかったことを思って、ひしと胸を打たるるがごとくに感じたのである。

 我にもあらず、最後を取乱したお雪の耳にも、かかる(ことば)は聞えたのであろう。

「勿体のうございます。」と、神に謝するがごとくにいった。

「その(つもり)(あきら)めねえ。おい、そう泣くのは止せ、弱虫だと見ると馬鹿にするぜ、ももんがあ。」といって大空を。

「はい、もう泣きはいたしません。私が先へ覚悟をしておりましたものを、お可恥(はずか)しゅうございます。」と、手をついて面を上げた。そして顔と顔を見合せた時、少年はほとんど友白髪まで添遂げた夫婦(みょうと)のごとく、事もなげに冷い玉かと見えるお雪の肩に手を掛けて、

「助かったら何よ、おいらが(やしき)へ来ねえ、一所に楽をしようぜ、面白く暮そうな。」と、あたかも死を(かけもの)にしたこの難境は、将来のその(たのしみ)のために造られた階梯(かいてい)であるように考えるらしく、絶望した窮厄の中に縷々(るる)として一脈の霊光を認めたごとく、嬉しげに且つ快げにいって莞爾(かんじ)とした。いまわの際に少年は、刻下無意識になった恋人に対して、(ため)に生命を致すその報酬を求めたのではない。繊弱小心の人の、知死()の苦痛の幾分を慰めんとしたのである。

 拓は夢に、我は棄てられるのであろうと思った、お雪は自分を見棄てるであろうと思った。少年がその時のその意気、その姿、その風情は、たとい淑徳貞操の現化(げんげ)した女神(にょしん)であっても、なお且つ、一糸(おお)える者なきその身を(いだ)かれて遮ぎり難く見えたから。

       五十六

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