黒百合

2話 黒百合(2)

7,221字 約14分 2005年4月14日 公開

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 場末ではあるけれども、富山で(にぎや)かなのは総曲輪(そうがわ)という、大手先。城の外壕(そとぼり)が残った水溜(みずたまり)があって、片側町に小商賈(こあきゅうど)が軒を並べ、壕に沿っては昼夜交代に露店(ほしみせ)を出す。観世物(みせもの)小屋が、氷店(こおりみせ)(まじ)っていて、町外(まちはずれ)には芝居もある。

 ここに中空を(しの)いで(えのき)が一本、(こずえ)にははや三日月が白く(ななめ)(かか)った。蝙蝠(こうもり)が黒く、見えては隠れる横町、総曲輪から裏の旅籠町(はたごまち)という大通(おおどおり)に通ずる小路を、ひとしきり急足(いそぎあし)往来(ゆきき)があった後へ、もの(さみ)しそうな姿で歩行(ある)いて来たのは、大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。

 久留米の蚊飛白(かがすり)兵児帯(へこおび)して、少し(しわ)になった(つむぎ)の黒の紋着(もんつき)を着て、紺足袋を穿()いた、鉄色の目立たぬ胸紐(むなひも)を律義に結んで、懐中物を入れているが、夕涼(ゆうすずみ)から出懸けたのであろう、帽は(かぶ)らず、髪の短かいのが(うるし)のようで、色の美しく白い、細面の、背のすらりとしたのが、片手に帯を挟んで、俯向(うつむ)いた、紅絹(もみ)(きれ)で目を軽く押えながら、物思いをする風で、何か足許(あしもと)覚束(おぼつか)ないよう。

 静かに歩を移して、もう少しで(とおり)へ出ようとする、二(けん)幅の町の両側で、思いも懸けず、(わッ)! といって、動揺(どよ)めいた、四五人の小児(こども)鯨波(とき)を揚げる。途端に足を取られた男は、横様にはたと(つち)の上。

「あれ、」という声、旅籠町の角から、白い脚絆(きゃはん)、素足に草鞋穿(わらじばき)(すそ)端折(はしょ)った、中形の浴衣に繻子(しゅす)の帯の幅狭(はばぜま)なのを、引懸(ひっか)けに結んで、結んだ上へ、桃色の帯揚(おびあげ)をして、胸高に乳の下へしっかと()めた、これへ女扇をぐいと差して、膝の下の隠れるばかり、甲斐々々しく、水色唐縮緬(とうちりめん)の腰巻で、手拭(てぬぐい)を肩に当て、縄からげにして巻いた茣蓙(ござ)(かろ)げに(にな)った、(あきない)帰り。町や辻では評判の花売が、曲角から遠くもあらず、横町の怪我(けが)を見ると、我を忘れたごとく一飛(ひととび)に走り着いて、転んだ(つち)へ諸共に膝を折敷いて、(たす)け起そうとする時、さまでは顛動(てんどう)せず、力なげに身を起して立つ。

「どこも怪我はしませんか。」と人目も構わず、紅絹を持った男の手に(すが)らぬばかりに、ひたと寄って顔を(のぞ)く。

「やあい、やあい。」

盲目(めくら)やあい、按摩針(あんまはり)。」と(はや)したので、娘は心着いて、(きっ)と見て、立直った。

「おいらのせいじゃあないぞ、」

「三年先の烏のせい。」

 甲走(かんばし)った早口に言い交わして、両側から二列に並んで()げ出した。その西の手から東の手へ、一条(ひとすじ)の糸を渡したので町幅を()って引張(ひっぱり)合って、はらはらと走り、三ツ四ツ小さな顔が、(かわ)(がわ)る見返り、見返り、

(がん)が一羽(かか)った、」

「懸った、懸った。」

「晩のお(かず)に煮て食おう。」と囃しざま、糸に(つなが)ったなり一団(ひとかたまり)になったと見ると、(おおき)(ひさし)の、暗い中へ、ちょろりと入って隠れてしまった。

  新庄(しんじょ)通れば、(いばら)と、藤と、

藤が巻附く、茨が留める、

  茨放せや、帯ゃ切れる、

      さあい、さんさ、よんさの、よいやな。

 と女の子のあどけないのが幾(たり)か声を揃えて唄うのが、町を隔てて彼方(あなた)に聞える。

 二人は聞いて立並んで、黙って、顔を見て(ほっ)と息。

       八

小児(こども)衆ですよ、不可(いけ)ません。両方から縄を引張(ひっぱ)って、軒下に隠れていて、人が通ると、足へ引懸(ひッか)けるんですもの、悪いことをしますねえ。」

「お雪さん、」と言いかけて、男はその淋しげな顔を背けた。声は、足を(から)んで(たお)された五分を経ない(のち)にも似ず、落着いて沈んでいる。

「はい、どこも何ともなさいませんか。」

 お雪と呼ばれた花売の娘は、優しく男の胸の辺りで百合の姿のしおらしい顔を、傾けて仰いで見た。

「いえ、何、擦剥(すりむき)もしないようだ。」と力なく手を垂れて、膝の辺りを(しずか)(はた)く。

「まあ、砂がついて、あれ、こんなに、」と可怨(うらめ)しそうに、袖についた(ほこり)を払おうとしたが、ふと気を着けると、(たもと)冷々(ひやひや)と湿りを持って、(まみ)れた砂も落尽くさず、またその漆黒な髪もしっとりと濡れている。男の眉は(おのず)から(ひそ)んで、紅絹(もみ)(きれ)で、赤々と押えた目の(ふち)も潤んだ様子。娘は袂に(すが)ったまま、荷を結えた縄の端を、思わず落そうとしてしっかり取った。

「今帰るのかい。」

「は……い。」

「暑いのに随分だな。」

 思入って(ねぎら)う言葉。お雪は身に染み、胸に(こた)えて、

「あなた。」

「ああ、」

「お医者様は、」

 問われて目を(おさ)えた手が(かすか)に震え、

「悪い方じゃあないッていうが、どうも捗々(はかばか)しくは()かぬそうだ。なりたけまあ大事にして、ものを見ないようにする方が()いっていうもんだから、ここはちょうど人通の少い処、(そっ)と目を(ふさ)いで探って来たので、ついとんだ(わな)蹈込(ふみこ)んださ、意気地(いくじ)はないな、忌々(いまいま)しい。」

 とさりげなく打頬笑(うちほほえ)む。これに心を安んじたか、お雪もやや色を直して、

「どうぞまあ、お医者様を内へお呼び申すことにして、あなたはお()って、何にもしないでいらっしゃるようにしたいものでございますね。」

「それは何、懇意な男だから、先方(さき)でもそう言ってくれるけれども、上手なだけ流行るので(ひま)といっちゃあない様子、それも気の毒じゃあるし、何、寝ているほどの事もないんだよ。」

「でも、随分お悪いようですよ。そしてあの、お帰途(かえり)に湯にでもお入りなすったの。」

 考えて、

「え、なぜね。」

「お(つむり)が濡れておりますもの。」

「む、何ね、そうか、濡れてるか、そうだろう。医者が(ひや)してくれたから。」と、(なじ)られて言開(いいひらき)をする者のような弱い調子で、努めて平気を装って言った。

「冷しますと、お薬になるんですか。」と袂を持つ手に力が入ると、男は心着いて探ってみたが、苦笑して

「おお、湿った手拭を入れておいたな、だらしのない、袂が濡れた。成る程女房(おかみさん)には叱られそうなこッた。」

「あれ、あんなことをいっていらっしゃるよ。」と嬉しそうに莞爾(にっこり)したが、これで愁眉(しゅうび)が開けたと見える。

「御一所に帰りましょうか。」

「別々に()こうよ、ちっと(おだやか)でないから。いや、大丈夫だ。」

「気を着けて下さいましよ。」

       九

 男女(ふたり)が前後して総曲輪(そうがわ)へ出て、この町の角を横切って、往来(ゆきき)の早い人中に(まじ)って見えなくなると、小児(こども)がまた四五人一団になって(あらわ)れたが、ばらばらと()けて来て、左右に分れて、(もと)のごとく軒下に(しゃが)んで隠れた。

 月の色はやや青く、蜘蛛(くも)はその()を営むのに(せわ)しい。

 その時旅籠町(はたごまち)(とおり)の方から、同じこの小路を抜けようとして、薄暗い中に入って来たのは、一(にん)の美少年。

 パナマの帽を前下り、目も隠れるほど深く俯向(うつむ)いたが、口笛を吹くでもなく、右の指の節を唇に当て、素肌に着た絹セルの単衣(ひとえ)衣紋(えもん)(くつろ)げ――弥蔵(やぞう)という奴――内懐に落した手に、何か持って一心に(みつ)めながら、悠々と歩を移す。小間使が言った千破矢の若君という御容子(ごようす)はどこへやら、これならば、不可(いけね)えの、居やがるのと、いけぞんざいなことも言いそうな滝太郎。

「ふん。」

 片微笑(かたほえみ)をして、また懐の中を(じっ)と見て、

「おいらのせいじゃあないぞ。」と仇口(あだぐち)(つぶや)いた。

「やあい、やい」

盲目(めくら)やあい。」

 小児(こども)一時(いちどき)(どッ)と囃したが、滝太郎は俯向いたまま、突当ったようになって立停(たちどま)ったばかり、形も崩さず自若としていた。

 膝の辺りへ一条(ひとすじ)の糸が(かか)ったのを、一生懸命両方から引張(ひっぱ)って、

「雁が一羽懸った、」

「懸った、懸った、」と夢中になり、口々に騒ぎ立つのは、大方獲物が先刻(さっき)のごとく足を取られたと思ったろう。幼いものは、驚破(すわ)というと自分の目を先に(ふさ)ぐのであるから、敵の動静はよくも認めず、血迷ってただ(はしゃ)ぐ。

 左右を《みまわ》して、叱りもしない、滝太郎の涼しやかな目は極めて優しく、口許(くちもと)にも愛嬌(あいきょう)があって、柔和な、大人しやかな、気高い、可懐(なつか)しいものであったから、南無三(なむさん)仕損じたか、逃後(にげおく)れて間拍子を失った悪戯者(いたずらもの)此奴(こいつ)羽搏(はばたき)をしない雁だ、と高を(くく)って図々しや。

「ええ、そっちを引張んねえ。」

「下へ、下へ、」

(ゆる)めて、(くぐ)らせやい。」

「巻付けろ。」

 遊軍に控えたのまで手を添えて、(から)め倒そうとする糸が乱れて、網の目のように、裾、袂、帯へ来て、懸っては(はず)れ、また(まと)うのを、身動きもしないで、(たたず)んで、目も放さず、面白そうに見ていたが、やや有って、(ねらい)を着けたのか、ここぞと呼吸を合わせた気勢(けはい)、ぐいと引く、糸が張った。

 滝太郎は早速に押当てていた唇を指から放すと、薄月(うすづき)にきらりとしたのは、(さき)に勇美子に望まれて、断乎として辞し去った指環である。と見ると糸はぷつりと切れて、足も、膝も遮るものなく、滝太郎の身は前へ出て、見返りもしないで()と通った。

 そのまま総曲輪へ出ようとする時、背後(うしろ)ではわッといって、我がちに()げ出す跫音(あしおと)

 蜘蛛の子は、糸を切られて、驚いて散々(ちりぢり)なり。

「貰ったよ。」

 滝太郎は左右を《みまわ》し、今度は(はばか)らず、袂から出して、(たなそこ)に据えたのは、薔薇(ばら)(かおり)蝦茶(えびちゃ)のリボン、勇美子が下髪(さげがみ)を留めていたその飾である。

       十

 土地の口碑(こうひ)、伝うる処に因れば、総曲輪のかの(えのき)は、稗史(はいし)が語る、佐々成政(さっさなりまさ)がその愛妾(あいしょう)、早百合を枝に懸けて惨殺した、三百年の老樹(おいき)の由。

 髪を(つか)んで(つる)し下げた女の顔の形をした、ぶらり火というのが、今も小雨の降る夜が更けると、樹の(また)(かか)るというから、縁起を祝う夜商人(よあきんど)は忌み(はばか)って、ここへ露店を出しても、榎の下は四方を丸く明けて避ける習慣(ならわし)

 片側の商店(あきないみせ)の、(おびただ)しい、瓦斯(がす)洋燈(ランプ)の灯と、露店のかんてらが薄くちらちらと黄昏(たそがれ)の光を放って、水打った跡を、浴衣着、団扇(うちわ)を手にした、手拭を提げた漫歩(そぞろあるき)の人通、行交(ゆきちが)い、立換(たちかわ)って(にぎや)かな(あかる)い中に、榎の(こずえ)蓬々(ほうほう)としてもの寂しく、風が渡る根際に、何者かこれ店を拡げて、薄暗く控えた商人(あきんど)あり。

 ともすると、ここへ、痩枯(やせが)れた坊主の易者が出るが、その者は、何となく、幽霊を済度しそうな、怪しい、そして頼母(たのも)しい、呪文を唱える、堅固な行者のような風采(ふうさい)を持ってるから、(ひと)の忌む処、かえって、底の見えない、霊験ある趣を添えて、誰もその易者が榎の下に居るのを怪しまぬけれども、今夜のはそれではない。

 今灯を()けたばかり、油煙も揚らず、かんてらの火も新しい、店の茣蓙(ござ)の端に、汚れた風呂敷を敷いて坐り込んで、物()れた軽口で、

「召しませぬか、さあさあ、これは阿蘭陀(オランダ)トッピイ産の銀流し、何方(どなた)もお煙管(きせる)なり、お(かんざし)なり、真鍮(しんちゅう)(あかがね)、お試しなさい。鍍金(めっき)、ガラハギをなさいましても、鍍金、ガラハギは、鍍金ガラハギ、やっぱり鍍金、ガラハギは、ガラハギ。」

 と尻ッ(ぱね)の上調子で言って、ほほと笑った。鉄漿(かね)を含んだ唇赤く、細面で鼻筋通った、引緊(ひきしま)った顔立の中年増(ちゅうどしま)年紀(とし)は二十八九、三十でもあろう、白地の手拭(てぬぐい)(あね)さん(かぶり)にしたのに額は隠れて、あるのか、無いのか、これで眉が見えたらたちまち五ツばかりは若やぎそうな目につく器量。垢抜(あかぬけ)して色の浅黒いのが、(しぼり)の浴衣の、(のり)の落ちた、しっとりと露に湿ったのを懊悩(うるさ)げに(まと)って、衣紋(えもん)(くつろ)げ、左の手を二の腕の見ゆるまで蓮葉(はすは)(まく)ったのを膝に置いて、それもこの売物の広告か、手に持ったのは銀の斜子打(ななこうち)の女煙管である。

 氷店(こおりみせ)白粉首(しろくび)にも、桜木町の赤襟にもこれほどの美なるはあらじ、ついぞ見懸けたことのない、大道店の掘出しもの。流れ渡りの旅商人(たびあきんど)が、因縁は知らずここへ茣蓙(ござ)を広げたらしい。もっとも総曲輪一円は、露店も各自(てんでん)に持場が(きま)って、駈出(かけだ)しには割込めないから、この空地へ持って来たに違いない。それにしても大胆な、女の癖にと、珍しがるやら、(あやし)むやら。ここの国も物見高で、お先走りの若いのが、早や大勢。

 婦人(おんな)は流るるような瞳を(めぐ)らし、人だかりがしたのを見て、得意な顔色(かおつき)

「へい、鍍金(めっき)は鍍金、ガラハギはガラハギ、品物に品が備わりませぬで、一目見てちゃんと知れる。どこへ出しても偽物(いかもの)でございますが、手前商いまする銀流しを少々、」と言いかけて、膝に着いた手を(うしろ)へ引き、煙管を差置いて箱の中の粉を一捻(いちねん)し、指を仰向(あおむ)けて、前へ出して、つらりと見せた。

「ほんの(わずか)ばかり、一(つま)み、手巾(ハンケチ)、お手拭の端、(きれ)(くず)、お鼻紙、お手許お有合せの柔かなものにちょいとつけて、」

 婦人(おんな)は絹の襤褸切(ぼろきれ)(くだん)の粉を包んで、俯向(うつむ)いて、真鍮の板金を取った。

 お掛けなさいまし、お休みなさいましと、間近な氷店で金切声。夜芝居(よしばい)の太鼓、どろどろどろ、(はるか)に聞える観世物(みせもの)の、評判、評判。

       十一

「訳のないこと、子供(しゅ)でも誰でも出来る。ちょいと水をつけておいて、柔かにぐいぐいとこう()りさえすりゃ、あい、(たか)化して(はと)となり、(からかさ)変わって助六となり、田鼠(でんそ)化して(うずら)となり、真鍮変じて銀となるッ。」

雀入海中為蛤(すずめかいちゅうにいってはまぐりとなる)か。」と、立合の(うち)から声を懸けるものがあった。

 婦人(おんな)はその声の(ぬし)を見透そうとするごとく、人顔をじろりと見廻わし、黙って莞爾(にっこり)して、また陳立(のべた)てる。

「さあさあ召して下さい、召して下さいよ。御当地は薬が名物、津々浦々までも効能が行渡るんでございますがね、こればかりは看板を掛けちゃ売らないのですよ。一家秘法の銀流(ぎんながし)、はい、やい、お立合のお方は御遠慮なく、お持合せのお煙管なり、お(かんざし)なり、これへ出してお(ため)しなさいまし、目の前で銀にしてお(なぐさみ)に見せましょう、御遠慮には及びません。」

 といってちょいと句切り、煙管を手にして、(たばこ)(ひね)りながら、動静を伺って、

「さあさあ、誰方(どなた)でもどうでござんす。」

 若い同士耳打をするのがあり、尻を(つつ)いて促すのがあり、中には耳を引張(ひっぱ)るのがある。止せ、と退(しさ)る、遣着(やッつ)けろ、と出る、ざまあ見ろ、と笑うやら、痛え、といって身悶(みもだ)えするやら、一斉に皆うようよ。有触れた銀流し、汚い親仁(おやじ)なら何事もあるまい、いずれ器量が操る木偶(でく)であろう。

(ねえ)や。」

 この時、人の背後(うしろ)から呼んだ、しかしこれは、前に黄な声を発して雀海中に()ってを云々(うんぬん)したごとき厭味(いやみ)なものではない。(すず)しい活溌なものであった。

 婦人(おんな)(きっ)其方(そなた)を見る、トまた悪怯(わるび)れず呼懸けて、

「姉や、姉や。」

「何でございますか、は、(わたくし)、」

「指環でも出来るかい。」

「ええ、出来ますとも、何でもお出しなさいましよ。」

「そう、」と極めてその意を得たという調子で、いそいそずッと出て、店前(みせさき)(つち)へ伝法に(かが)んだのは、滝太郎である。遊好(あそびずき)の若様は時間に関らず、横町で糸を切って、勇美子の頭飾(かみかざり)をどうして取ったか、人知れず(たなそこ)(もてあそ)んだ上に、またここへ来てその姿を(あらわ)した。

 滝太郎は、さすがに玉のような美しい手を握って、猶予(ためら)わず、売物の銀流の()の包、お験しの真鍮板、水入、絹の切などを並べた女の膝の前に真直(まっすぐ)に出した。指環のきらりとするのを差向けて、

「こいつを一つ()ってくんねえな。」

 立合の手合はもとより、世擦れて、人馴れて、この榎の下を物ともせぬ、弁舌の(さわやか)な、見るから下っ腹に毛のない姉御(あねご)も驚いて目を《みは》った。その容貌(ようぼう)、その風采(ふうさい)、指環は紛うべくもない純金であるのに、銀流しを懸けろと言うから。

「これですかい。」

「ちょいと遣っておくんな。」

「結構じゃありませんかね。」

「お(あし)がなくっちゃあ不可(いけ)ねえか、ここにゃ持っていねえんだが、()かったらつけてくんねえ。後で持たして寄越(よこ)すぜ。」

 と真顔でいう、言葉つき、顔形、目の(うち)をじっと見ながら、

「そんな(けち)じゃアありませんや。お(のぞみ)なら、どれ、附けて上げましょう。」と婦人(おんな)は切の端に銀流を(まぶ)して、滝太郎の手を(そっ)と取った。

「ようよう、」とまた(うしろ)の方で、雀海中に入った時のごとき、奇なる音声を発する者あり。

       十二

()いぜ、可いぜ、沢山だ、」と滝太郎はやや有って手を引こうとする、ト指の(さき)を握ったのを放さないで、銀流の(きれ)摺着(すりつ)けながら、

「よくして上げましょう、もう少しですから。」

「沢山だよ。」

「いいえ、これだけじゃあ綺麗にはなりません。」と婦人(おんな)は急に()めそうにもない。

「さあ、大変。」

「お(しずか)に、お静に。」

「構わず、ぐっと握るべしさ、」

「しっかり頼むぜ。」

 などと立合はわやわやいうのを、(すま)したもので、

口切(くちきり)(あきない)でございます、本磨(ほんみがき)にして、成程これならばという処を見せましょう、これから艶布巾(つやぶきん)をかけて、仕上げますから。」

「止せ。」

 滝太郎の声はやや激して、振放そうとして力を入れる。押えて動かさず、

「ま、もうちっと辛抱をなさいましな、これから裏の方を磨きましょうね。」

 婦人(おんな)はこういいつつ、ちらちらと目をつけて、指環の形、顔、服装(みなり)天窓(あたま)から爪先(つまさき)まで、(きっ)と見てはさりげなく装うのを、滝太郎は独り見て取って、何か(はばか)る処あるらしく、一度は一度、婦人(おんな)が黒い目で(にら)む数の(かさな)るに従うて、次第に暗々()(おのれ)を襲うものが(きた)り、(ちかづ)いて迫るように覚えて、今はほとんど耐難(たえがた)くなったと見え、知らず知らず左の手が、片手その婦人(おんな)に持たれた腕に(かか)って、力を添えて放そうとする。肩は(そび)え、顔には薄く血を染めて、滝太郎は眉を(ひそ)めた。

「可いッてんだい。」

「お待ち!」とばかりで婦人(おんな)も商売を忘れて、別に心あって存するごとく、瞳を据えて(おもて)を合せた。

 ちょうどその時、四五十歩を隔てた、夜店の賑かな中を、背後(うしろ)の方で、一声高く、馬の(いなな)くのが、往来の跫音(あしおと)を圧して近々と響いた。

 と思うと、滝太郎は、うむ、といって、振向いたが、吃驚(びっくり)したように、

「義作だ、おう、ここに居るぜ。」

「ちょいと、」

「ええ、」

「あれ、」といって振返された手を押えた。指の間には(くれない)一滴、見る見る長くなって、手首へ掛けて糸を引いて血が流れた。

(ねえ)さん、」

「どうなすった。」

 押魂消(おッたまげ)た立合は、もう他人ではなくなって、驚いて声を懸ける。滝太郎はもう影も見えない。

 婦人(おんな)は顔の色も変えないで、(きれ)で、血を押えながら、(ねえ)さん(かぶり)のまま真仰向(まあおの)けに榎を仰いだ。晴れた空も(こずえ)のあたりは尋常(ただ)ならず、木精(こだま)気勢(けはい)暗々として中空を()めて、星の色も物凄(ものすご)い。

「おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝から(しずく)が落ちたそうで、指が(ひや)りとしたと思ったら、まあ。」

「へい、引掻(ひっか)いたんじゃありませんか。」

「今のが切ったんじゃないんですかい。」

「指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。」

「さればさ。」

(いや)だ、私は、」と薄気味の悪そうな、(しょ)げた様子で、婦人(おんな)は人の目に立つばかり身顫(みぶるい)をして黙った。榎の下(せき)として声なし、いずれも顔を見合せたのである。

       十三

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