2話 二
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昼乳をしぼる刻限になった。女が若衆をおこす。細君は花前にひととおりのさしずをしてくださいというてきた。ほかのふたりの若いものは運動場の乳牛を入れにかかる。はり板をふみたてる牛の足音がバタバタ混合して聞こえる。主人も牛舎へでた。乳牛はそれぞれ馬塞にはいって、ひとりは掃除にかかる、ひとりは飼い葉にかかる。主人はここではじめて花前に会った。
五十になってもしりのおちつかない、落ちぶれはてた花前は、さだめてそぼろなふうをしているかと思いのほか、髪をみじかく刈り、ひげをきれいにそって、ズボンにチョッキもややあかぬけのしたのを着てる。白いシャツをひじまでまくり、天竺もめんのまっ白い前掛けして、かいがいしい身ごしらえだ。
主人はまずそれがおおいに気持ちよかった。花前は主人に対しても、ただ例のごとくちょっと頭をさげたばかりである。かえって主人のほうからしたしくことばをかけた。
「花前、おまえのうわさはちょいちょい聞いていたよ、こんどよくきてくれた、なにぶん頼むぞ」
花前は、はいともいわない、わずかに目であいさつしてる。主人は家の習慣とだいたいの順序とをつげて、これだけの仕事はおまえにまかせるからと命じた。
花前は、耳で合点したともいうべきふうをして仕事にかかる。片手にしぼりバケツと腰掛けとを持ち、片手に乳房を洗うべき湯をくんで、じきにしぼりにかかる。花前もここでは、
「どれとどれをしぼるのですか」
と主人に聞いた。
主人はこれとこれとと、つぎつぎ数えてつごう十余頭が乳のでるのだ。それからこの西側から三つめの黒白まだらが足をあげるから、飼い葉をやっておいて、しぼらねばいかぬとつげる。花前はそういう下から、すぐはじめの赤牛からしぼりにかかった。花前の乳しぼる姿勢ははなはだ気にいった。
左の足を乳牛の胸あたりまでさし入れ、かぎの手に折った右足のひざにバケツを持たせて、肩を乳牛のわき腹につけ、手も動かずからだも動かず、乳汁は滝のようにバケツにほとばしる。五分間ばかりで四升あまりの乳をしぼった。しぼった乳は、高くもりあがったあわが雪のように白く、毛のさきほどのほこりもない。主人はおぼえずみごとな腕前だと嘆称した。
乳を受け取って濾しにかけた細君も、きれの上にほこりがないのにおどろいて、
「なるほど、花前はしぼるのがじょうずだ」
と主人のところへ顔をだしてほめる。
花前は色も動きはしない。もとより一言ものをいうのでない。主人や細君とはなんらの交渉もないふうで、つぎの黒白まだらの牛にかかった。主人は兼吉をよんで、いましぼるからこの牛に飼い葉をやれと命じた。花前はしぼりバケツを左に持ちながら、右手で乳牛の肩のへんをなでて、バアバアとやさしく二、三度声をかける。
乳牛はすこしがたがた四肢を動かしたが、飼い葉をえて一心に食いはじめる。花前は、いささか戒心の態度をとってしぼりはじめた。じゅうぶん心得ている花前は、なんの苦もなくはね牛の乳をしぼってしまった。主人は安心すると同時に、つくづく花前の容貌風采を注視して、一種の感じを禁じえなかった。
その毅然として、なにかかたく信ずるところあるがごとき花前は、その技においてもじつに神に達している。しかるにもかかわらず、人に使われてるのみならず、おちついて使われている主人をすらえられないかと思うと、そこに大なる矛盾を思わぬわけにいかない。
見るところ、花前は、ほとんど口をきく必要のないまで、自分の思うとおりを直行するほか、なんの考えるところもないらしい。こう思うと、われわれの平生は、ただ方便を主とすることばかりおおくて、かえってこの花前に気恥ずかしいような感じもする。
花前はかえって人のいつわりおおきにあきれて、ほとんど世人を眼中におかなく、心中に自分らをまで侮蔑しつくしてるのじゃないかとも思われる。さりとてまた、五十になる身を人にたくして、とんと人と交渉しえない、世にもあわれな人間とも思われる。
主人が妄想に落ちて、いたずらに立てるあいだに、花前は二頭三頭とちゃくちゃくしぼり進む。かれは毅然たる態度でそのなすべきことをなしつつある。花前は一面あわれむべき人間には相違ないが、主人も花前を見るにつけ、みずからかえりみると、確信なきわが生活の、精神上にその日暮らしである恥ずかしさをうち消すことができなかった。
「だんな、くそがはねますよ、すこしどうかこっちへきてください」
そういう兼吉は、もはや飼い葉をすませて、おぼれ板の掃除にかかったのだ。うまやぼうきに力を入れ、糞尿相混じた汚物を下へ下へとはきおろしてきたのである。
「湯が煮たったから、ふすまをかいておくれ、兼吉」
流し場から細君の声で兼吉はほうきをおいて走っていく。五郎はまぐさをいっせいに乳牛にふりまく。十七、八頭の乳牛は一時に騒然として草をあらそいはむ。そのあいだにも花前はすこしでも、わが行為の緊張をゆるめない。やがて主人は奥に客があるというので牛舎をでた。