2話

2,038字 約4分 2016年9月18日 公開

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 昼乳(ひるちち)をしぼる刻限(こくげん)になった。女が若衆(わかしゅう)をおこす。細君は花前(はなまえ)にひととおりのさしずをしてくださいというてきた。ほかのふたりの(わか)いものは運動場の乳牛(にゅうぎゅう)を入れにかかる。はり(いた)をふみたてる牛の足音がバタバタ混合(こんごう)して聞こえる。主人も牛舎(ぎゅうしゃ)へでた。乳牛(にゅうぎゅう)はそれぞれ馬塞(ませ)にはいって、ひとりは掃除(そうじ)にかかる、ひとりは()()にかかる。主人はここではじめて花前に()った。

 五十になってもしりのおちつかない、()ちぶれはてた花前は、さだめてそぼろなふうをしているかと思いのほか、(かみ)をみじかく()り、ひげをきれいにそって、ズボンにチョッキもややあかぬけのしたのを()てる。白いシャツをひじまでまくり、天竺(てんじく)もめんのまっ白い前掛(まえか)けして、かいがいしい()ごしらえだ。

 主人はまずそれがおおいに気持ちよかった。花前は主人に(たい)しても、ただ(れい)のごとくちょっと頭をさげたばかりである。かえって主人のほうからしたしくことばをかけた。

花前(はなまえ)、おまえのうわさはちょいちょい()いていたよ、こんどよくきてくれた、なにぶん(たの)むぞ」

 花前(はなまえ)は、はいともいわない、わずかに目であいさつしてる。主人は家の習慣(しゅうかん)とだいたいの順序(じゅんじょ)とをつげて、これだけの仕事(しごと)はおまえにまかせるからと(めい)じた。

 花前は、耳で合点(がてん)したともいうべきふうをして仕事(しごと)にかかる。片手(かたて)にしぼりバケツと腰掛(こしか)けとを持ち、片手(かたて)乳房(ちぶさ)(あら)うべき()をくんで、じきにしぼりにかかる。花前もここでは、

「どれとどれをしぼるのですか」

と主人に聞いた。

 主人はこれとこれとと、つぎつぎ(かぞ)えてつごう十余頭(よとう)(ちち)のでるのだ。それからこの西側(にしがわ)から三つめの黒白まだらが足をあげるから、()()をやっておいて、しぼらねばいかぬとつげる。花前はそういう下から、すぐはじめの赤牛からしぼりにかかった。花前の乳しぼる姿勢(しせい)ははなはだ気にいった。

 左の足を乳牛(にゅうぎゅう)(むね)あたりまでさし入れ、かぎの手に()った右足のひざにバケツを持たせて、(かた)乳牛(にゅうぎゅう)のわき(ばら)につけ、手も動かずからだも動かず、乳汁(にゅうじゅう)(たき)のようにバケツにほとばしる。五分間ばかりで四(しょう)あまりの乳をしぼった。しぼった(ちち)は、高くもりあがったあわが雪のように白く、毛のさきほどのほこりもない。主人はおぼえずみごとな腕前(うでまえ)だと嘆称(たんしょう)した。

 乳を()()って()しにかけた細君も、きれの上にほこりがないのにおどろいて、

「なるほど、花前はしぼるのがじょうずだ」

と主人のところへ顔をだしてほめる。

 花前は(いろ)も動きはしない。もとより一(ごん)ものをいうのでない。主人(しゅじん)細君(さいくん)とはなんらの交渉(こうしょう)もないふうで、つぎの黒白まだらの牛にかかった。主人は兼吉(かねきち)をよんで、いましぼるからこの牛に()()をやれと(めい)じた。花前(はなまえ)はしぼりバケツを左に持ちながら、右手で乳牛(にゅうぎゅう)(かた)のへんをなでて、バアバアとやさしく二、三()声をかける。

 乳牛はすこしがたがた四()を動かしたが、飼い葉をえて一(しん)()いはじめる。花前は、いささか戒心(かいしん)態度(たいど)をとってしぼりはじめた。じゅうぶん心得(こころえ)ている花前は、なんの()もなくはね牛の乳をしぼってしまった。主人は安心(あんしん)すると同時(どうじ)に、つくづく花前の容貌風采(ようぼうふうさい)注視(ちゅうし)して、一種の感じを(きん)じえなかった。

 その毅然(きぜん)として、なにかかたく信ずるところあるがごとき花前は、その(わざ)においてもじつに(かみ)(たっ)している。しかるにもかかわらず、人に使われてるのみならず、おちついて使われている主人をすらえられないかと思うと、そこに(だい)なる矛盾(むじゅん)を思わぬわけにいかない。

 見るところ、花前は、ほとんど口をきく必要(ひつよう)のないまで、自分の思うとおりを直行(ちょっこう)するほか、なんの考えるところもないらしい。こう思うと、われわれの平生(へいぜい)は、ただ方便(ほうべん)(しゅ)とすることばかりおおくて、かえってこの花前に気恥(きは)ずかしいような感じもする。

 花前はかえって人のいつわりおおきにあきれて、ほとんど世人(せじん)眼中(がんちゅう)におかなく、心中(しんちゅう)に自分らをまで侮蔑(ぶべつ)しつくしてるのじゃないかとも思われる。さりとてまた、五十になる()を人にたくして、とんと人と交渉(こうしょう)しえない、世にもあわれな人間とも思われる。

 主人が妄想(もうそう)()ちて、いたずらに立てるあいだに、花前は二(とう)三頭とちゃくちゃくしぼり(すす)む。かれは毅然(きぜん)たる態度(たいど)でそのなすべきことをなしつつある。花前は一(めん)あわれむべき人間には相違(そうい)ないが、主人も花前を見るにつけ、みずからかえりみると、確信(かくしん)なきわが生活の、精神上(せいしんじょう)にその日暮(ひぐ)らしである()ずかしさをうち消すことができなかった。

「だんな、くそがはねますよ、すこしどうかこっちへきてください」

 そういう兼吉(かねきち)は、もはや()()をすませて、おぼれ(いた)掃除(そうじ)にかかったのだ。うまやぼうきに力を入れ、糞尿(ふんにょう)相混(あいこん)じた汚物(おぶつ)を下へ下へとはきおろしてきたのである。

()()たったから、ふすまをかいておくれ、兼吉(かねきち)

 (なが)()から細君の声で兼吉はほうきをおいて走っていく。五郎はまぐさをいっせいに乳牛にふりまく。十七、八頭の乳牛は一()騒然(そうぜん)として草をあらそいはむ。そのあいだにも花前はすこしでも、わが行為(こうい)緊張(きんちょう)をゆるめない。やがて主人は(おく)(きゃく)があるというので牛舎(ぎゅうしゃ)をでた。

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