老獣医

1話

1,391字 約3分 2016年9月18日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 糟谷獣医(かすやじゅうい)は、去年の()()しつまってから、この外手町(そとでまち)()してきた。入り口は黒板(くろいた)べいの一部を()りあけ、(かたち)ばかりという門がまえだ。引きちがいに立てた格子戸(こうしど)(まい)は、新しいけれど、いかにも、できの安物(やすもの)らしく立てつけがはなはだ(わる)い。むかって右手(みぎて)門柱(もんちゅう)看板(かんばん)がかけてある。板も手ごしらえであろう、字ももちろん自分で書いたものらしい、しろうとくさい幼稚(ようち)な字だ。

家畜診察所(かちくしんさつじょ)

とある大字のわきに小さく「病畜(びょうちく)入院(にゅういん)(もと)めに(おう)(そうろう)」と書いてある。板の新しいだけ、なおさら(やす)っぽく、尾羽(おは)()()らした、糟谷(かすや)の心のすさみがありありと()まれる。

 あがり口の(あさ)土間(どま)にあるげた(ばこ)が、門外(もんがい)往来(おうらい)から見えてる。家はずいぶん古いけれど、根継(ねつ)ぎをしたばかりであるから、ともかくも敷居(しきい)鴨居(かもい)(くる)いはなさそうだ。

 入り口の障子(しょうじ)をあけると、二(つぼ)ほどな(いた)()がある。そこが病畜診察所(びょうちくしんさつじょ)(けん)薬局(やっきょく)らしい。さらに入院家畜(にゅういんかちく)病室(びょうしつ)でもあろう、犬の(はこ)ねこの箱などが三つ四つ、すみにかさねあげてある。

 ほかに六(じょう)()二間(ふたま)台所(だいどころ)つき二(じょう)一間(ひとま)ある。これで家賃(やちん)が十円とは、おどろくほど家賃も高くなったものだ。それでも他区(たく)にくらべると、まだたいへん安いといって、糟谷(かすや)はよろこんで()してきたのである。

 糟谷(かすや)次男(じなん)芳輔(よしすけ)(じょ)(れい)親子(おやこ)四人の家族(かぞく)であるが、その四人の生活が、いまの糟谷(かすや)(はたら)きでは、なかなかほねがおれるのであった。

 平顔の目の小さいくちびるの(あつ)い、見たとおりの好人物(こうじんぶつ)、人と話をするにかならず、にこにこと(わら)っている人だ。なにほど心配なことがあっても、心配ということを知っていそうなふうのない人である。

 細君(さいくん)はそれと正反対(せいはんたい)に、色の青白(あおじろ)い、細面(ほそおもて)なさびしい顔で、用談(ようだん)のほかはあまり口はきかぬ。声をたてて笑うようなことはめったにない。そうかといって、つんとすましているというでもない。

 それは、前途(ぜんと)におおくの希望(きぼう)を持った、(わか)時代(じだい)には、ずいぶんいやにすました人だといわれたこともあった。実際(じっさい)気位(きぐらい)高くふるまっていたこともあった。しかしながらいまのこの人には、そんな内心(ないしん)にいくぶん自負(じふ)しているというような、気力(きりょく)(かげ)もとどめてはいない。きどって(だま)っていた、むかしのおもかげがただその(かたち)ばかりに残ってるのだ。

 天性(てんせい)陰気(いんき)なこの人は、人の目にたつほど、愚痴(ぐち)()やみもいわなかったものの、内心(ないしん)にはじつに長いあいだの、苦悶(くもん)悔恨(かいこん)とをつづけてきたのである。いまは苦悶(くもん)の力もつきはてて、目に気張(きば)りの色も消えてしまった。

 ()まれが生まれだけにどことなし、人柄(ひとがら)なところがあって、さびしい(おも)ざしがいっそうあわれに見える。もうもう我が世はだめだとふかくあきらめて、なるままに身をも心をもまかせてしまったというふうである。それでもさすがに、ここへ(うつ)ってきた夜は、だれにいうとはなく、

()()すたびに家が小さくなる」

とひとりごとをくりかえしておった。

 糟谷(かすや)はあければ五十七才になる。細君(さいくん)はそれより十一の年下とかいった。糟谷は本所(ほんじょ)()してきて、生活の道が確立(かくりつ)したかというに、まだそうはいかぬらしい。

 糟谷が上京以来(じょうきょういらい)たえず同情(どうじょう)()せて、ねんごろまじわってきた、当区(とうく)畜産家(ちくさんか)西田(にしだ)という人が、糟谷の現状(げんじょう)を見るにしのびないで、ついに自分の手近(てぢか)()さしたのであるが、糟谷が十年()んでおった、新小川町のとにかく中流(ちゅうりゅう)住宅(じゅうたく)をいでて、家賃(やちん)十円といういまの家へ(うつ)ってきたについては、一(じょう)悲劇(ひげき)があった結果(けっか)である。

目次に戻る

目次