老獣医

6話

3,566字 約7分 2016年9月18日 公開

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 十一月も(すえ)であった。こがらしがしずかになったと思うと、ねずみ色をした雲が低く空をとじて雪でも()るのかしらと思われる不快(ふかい)午後(ごご)であった。

 糟谷(かすや)は机にむかったなり目を(くう)にしてぼうぜん考えている。細君はななめに(おっと)(たい)し、両手をそでに入れたままそれを胸に()わせ、口をかたくとじて、ほとんど人形(にんぎょう)のようにすわっている。この人をモデルにして不満足(ふまんぞく)という(だい)()なり彫刻(ちょうこく)なり作ったならばと思われる。ふたりはしばらくのあいだ口もきかなかった。

 三女の礼子(れいこ)が帰ってきて、

「おとうさんただいま、おかあさんただいま」

とにこにこしておじぎをしても、父も母もはいともいわない。礼子は両親(りょうしん)の顔をちらと見たままつぎの()へでてしまった。つづいて芳輔(よしすけ)が帰ってきた。両親のところへはこないで、台所(だいどころ)へはいって、なにかくどくど下女(げじょ)にからかってる。

芳輔(よしすけ)のやつ(かえ)ったな、芳輔(よしすけ)……芳輔」

「きょうはほんとに、なまやさしいことではあなたいけませんよ」

「こら芳輔」

 父の声はいつになく(あら)かった、芳輔は上目(うわめ)使いに両親の顔をぬすみ見しながら、からだをもじりもじり座敷(ざしき)のすみへすわった。すわったかとするともうよそ見をしてる。母なる人は無言(むごん)にたって、芳輔(よしすけ)の手を(とら)えて父の近くへ()()せた。

芳輔(よしすけ)……おまえはいま家へきしなに小川さんに()ったろ」

「知りません」

「そうか、小川さんはおまえの保証人(ほしょうにん)だぞ、学校からおまえのことについて、二()も三度も話があったというて、きょうはおまえのことについていろいろの話をしていかれた。いま帰ったばかりだがきさまといき会うはずだが、いやそりゃどうでもよいが、きさまはいくつになる」

 芳輔はこういわれてすこし父をあなどるような冷笑(れいしょう)を目に()かべる。

「自分の子の年を人に聞かねたって……」

「こら芳輔(よしすけ)、そりゃなんのことです。おとうさんに(たい)して失礼(しつれい)な」

「だっておとうさんはつまらないことを聞くから……」

「だまれこの野郎(やろう)……」

 両親はもう手もふるえ、くちびるもふるえてすぐにはつぎのことばがでない。母はまたたきもせずわが()の顔を見つめている。

芳輔(よしすけ)、きさまはなにもかもおぼえがあるだろう。きょう小川さんの話を聞くと、小川さんはおまえのために三()も学校へよばれたそうだぞ。きのうは校長まででてきて、いま一()芳輔の両親にも話し、本人にもさとしてくれ。こんど不都合(ふつごう)があればすぐ退校(たいこう)(めい)ずるからという話であったそうな。どんな不都合(ふつごう)を働いた。儀一(ぎいち)はあのとおりものにならない。あとはきさまひとりをたよりに思ってれば、この始末(しまつ)だ、警察(けいさつ)からまで、きさまのためには注意(ちゅうい)()けてる。夜遊(よあそ)びといえばなにほどいってもやめない。朝は五へんも六ぺんもおこされる。学校の成績(せいせき)がわるいのもあたりまえのことだ。十五になったら十六になったらと思ってみてれば、年をとるほどわるくなる。おかあさんを見ろ、きさまのことを心配してあのとおりやせてるわ。もうそのくらいの年になったらば、両親(りょうしん)苦心(くしん)もすこしはわかりそうなものだ」

「おかあさんはもとからやせてら……」

 母はこのぞんざいな芳輔(よしすけ)のことばを聞くやいなやひいと声をたてて()きふした。父も顔青ざめて言句(ごんく)がでない。

「おとうさん、わたしすこし用がありますから錦町(にしきちょう)までいってきます」

 そういって芳輔(よしすけ)は立ちかける。なにごとにも思いきったことのできない糟谷(かすや)も、あまりに無神経(むしんけい)芳輔(よしすけ)のものいいにかっとのぼせてしまった。

「この野郎(やろう)ふざけた野郎だ……」

 猛然(もうぜん)立ちあがった糟谷はわが子を足もとへ()(たお)し、ところきらわずげんこつを打ちおろした。芳輔はほとんど他人(たにん)とけんかするごとき語気(ごき)態度(たいど)反抗(はんこう)した。手足をわなわなさして見ておったかれの母は、力のこもった決心(けっしん)のある声をひそめて、あなた(ころ)してしまいなさい。殺してしまいなさい。(つみ)はわたしがしょいます。(ころ)してしまってください。もう()きがいのないわたし、あなたが殺されなけりゃわたしが殺す……。こうさけんで母は奥座敷(おくざしき)へとび()った。……礼子(れいこ)下女(げじょ)()(ごえ)あげて(そと)へでた。糟谷(かすや)(ころ)すの一(ごん)を耳にして思わず手をゆるめる。芳輔(よしすけ)は殺せ殺せとさけんで転倒(てんとう)しながらも、(しん)に殺さんと覚悟(かくご)した母の血相(けっそう)を見ては、たちまち色を()えて()げだしてしまった。

 礼子(れいこ)は外から()()みさまに母に泣きすがった。いっしょけんめいに泣きすがって(はな)れない。糟谷(かすや)()につきながら励声(れいせい)(つま)(せい)した。隣家(りんか)夫婦(ふうふ)()()んできてようやく座はおさまる。

 糟谷はまだ手をぶるぶるさしてる。礼子はただがたがたふるえて母を見守(みまも)っている。母はほとんど正気(しょうき)(うしな)ってものすさまじく、ただハアハア、ハアハアと(いき)をはずませてる。はっきりと口をきくものもない。

 ようやくのこと糟谷は、

増山(ますやま)さん(となりの主人)いやはやまことに面目(めんぼく)もないしだいで、なんとも(もう)しあげようもありません」

「いやお(さっ)し申しあげます、いかにもそりゃ……まことにお()のどくな、しかし糟谷さんあまり無分別(むふんべつ)なことをやってしまっては()りかえしがつきませんよ、奥さんはよほど興奮(こうふん)していらっしゃるから、しばらくお()かしもうしたがよろしいでしょう」

「どうも面目(めんぼく)ありません」

 ほとんど人のみさかいもないように見えた細君(さいくん)も、礼子(れいこ)下女(げじょ)増山(ますやま)家内(かない)から、いろいろなぐさめられていうがままに(とこ)についた。やがて増山夫婦(ますやまふうふ)も帰った。あとへ深川の牛乳屋(ぎゅうにゅうや)(それがし)がくる、子宮脱(しきゅうだつ)ができたからというので車で(むか)えにきたのである。家のありさまには気がつかず、さあさあといそぎたてるのである。糟谷(かすや)はとつおいつ、あいさつのしようにも(きゅう)して、いたりたったりしていた。

 子宮脱(しきゅうだつ)はかれこれ六時間以上(いじょう)になるという。いちばん高い牛だから、気が気でないという。糟谷(かすや)はいかれないともいえず、危険(きけん)意味(いみ)ある(つま)下女(げじょ)と子どもとにまかせてでるのはいかにも不安(ふあん)だし、糟谷(かすや)はとほうに()れてしまった。おりよくもそこへ西田(にしだ)がひょっこりはいってきた。深川の乳屋(ちちや)も知ってる人と見え、やあとあいさつして遠慮(えんりょ)もなくあがってきた。

「うちでしたな、えいあんばいであった。じつはころあいのうちが見つかったもんですからな」

 西田の声がして家のなかの空気は見るまに()わってしまった。陰欝(いんうつ)な空気が見るまにうすらぐような気がした。糟谷は手短(てみじか)にきょうのできごとから目の前の窮状(きゅうじょう)を西田に(かた)った。

「うん、きみもかわいそうな人だな、なるほど奥さんも無理(むり)はない。ああ奥さんもかわいそうだ」

 (なみだ)もろい西田(にしだ)は、もう目をうるおした。礼子(れいこ)もでてきて(だま)ってお辞儀(じぎ)をする。西田はたちながら、

子宮脱(しきゅうだつ)ならなるたけ早いほうがえいでしょう。糟谷(かすや)くん職務(しょくむ)はだいじだ。ぼくが留守(るす)をしてあげるから、すぐと深川へでかけたまえ」

 西田はこういい()てて、細君の寝間(ねま)へはいった。細君も同情(どうじょう)深い西田の声を聞いてから、夢からさめたように正気(しょうき)づいた。そうしてはいってきた西田におきて礼儀(れいぎ)をした。

「いま糟谷くんからかいつまんで聞きましたが、もうひとすじに思いつめんがようございますよ」

 細君は、

「ありがとうございます」

と細い声でいってさんさんと()くのである。

「それじゃ西田(にしだ)さんちょっといってくるから(たの)む」

糟谷(かすや)唐紙(からかみ)の外から声をかけてでてしまった。

 西田は細君(さいくん)に対し、外手(そとで)町に家のあったこと、本所(ほんじょ)()してからの業務(ぎょうむ)方法(ほうほう)、そのほかここの家賃(やちん)のとどこおりまで弁済(べんさい)してあげるということまで話して、細君をなぐさめた。

 子どもをりっぱにして自分がしあわせをしようと思うても、それはあてにならないから、なんでも人間のしあわせということは、自分にできることの上に求めねばならぬ。とかく無理(むり)希望(きぼう)()ってると、自分のすることにも無理(むり)ができるから、無理とくるしみを求めるようになるなどと話されて、細君もひたすら西田(にしだ)好意(こうい)に感じて胸が(ひら)いた。

 あかしのつくころに糟谷(かすや)は帰ってきた。西田は帰ってしまうにしのびないで、()まって話しすることにする。夜になって礼子や下女の笑い声ももれた。細君もおきて酒肴(しゅこう)用意(ようい)手伝(てつだ)った。

 糟谷は飲めない口で西田の相手をしながら、いまいってきた某氏(ぼうし)の家の惨状(さんじょう)を語った。

 ひとりむすこに(よめ)をとって、(まご)がひとりできたら(よめ)は死んだ。まもなくむすこも病気になった。ちょうどきょう某博士(ぼうはくし)というのがきた。病気は胃癌(いがん)だといわれて、(いえ)じゅう()きの涙でいた。牛のほうはぞうさないけれど、むすこは助かる見込(みこ)みがない。おふくろが前掛(まえか)けで(なみだ)をふきながら茶をだしたが、どこにもよいことばかりはないと、しみじみ糟谷(かすや)嘆息(たんそく)した。

 西田はあいさつのしようがなく、

「ぼくのような友人があるのをしあわせと思ってるさ」

()げだすようにいう。

「ほんとにそうでございます」

と細君はいかにもことばに力を入れていった。芳輔(よしすけ)は、十時ごろに台所(だいどころ)からあがってこっそり自分のへやへはいった。パチリパチリと()の音は十二時すぎまで()こえた。

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