6話 六
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十一月も末であった。こがらしがしずかになったと思うと、ねずみ色をした雲が低く空をとじて雪でも降るのかしらと思われる不快な午後であった。
糟谷は机にむかったなり目を空にしてぼうぜん考えている。細君はななめに夫に対し、両手をそでに入れたままそれを胸に合わせ、口をかたくとじて、ほとんど人形のようにすわっている。この人をモデルにして不満足という題の絵なり彫刻なり作ったならばと思われる。ふたりはしばらくのあいだ口もきかなかった。
三女の礼子が帰ってきて、
「おとうさんただいま、おかあさんただいま」
とにこにこしておじぎをしても、父も母もはいともいわない。礼子は両親の顔をちらと見たままつぎの間へでてしまった。つづいて芳輔が帰ってきた。両親のところへはこないで、台所へはいって、なにかくどくど下女にからかってる。
「芳輔のやつ帰ったな、芳輔……芳輔」
「きょうはほんとに、なまやさしいことではあなたいけませんよ」
「こら芳輔」
父の声はいつになく荒かった、芳輔は上目使いに両親の顔をぬすみ見しながら、からだをもじりもじり座敷のすみへすわった。すわったかとするともうよそ見をしてる。母なる人は無言にたって、芳輔の手を捕えて父の近くへ引き寄せた。
「芳輔……おまえはいま家へきしなに小川さんに会ったろ」
「知りません」
「そうか、小川さんはおまえの保証人だぞ、学校からおまえのことについて、二度も三度も話があったというて、きょうはおまえのことについていろいろの話をしていかれた。いま帰ったばかりだがきさまといき会うはずだが、いやそりゃどうでもよいが、きさまはいくつになる」
芳輔はこういわれてすこし父をあなどるような冷笑を目に浮かべる。
「自分の子の年を人に聞かねたって……」
「こら芳輔、そりゃなんのことです。おとうさんに対して失礼な」
「だっておとうさんはつまらないことを聞くから……」
「だまれこの野郎……」
両親はもう手もふるえ、くちびるもふるえてすぐにはつぎのことばがでない。母はまたたきもせずわが子の顔を見つめている。
「芳輔、きさまはなにもかもおぼえがあるだろう。きょう小川さんの話を聞くと、小川さんはおまえのために三度も学校へよばれたそうだぞ。きのうは校長まででてきて、いま一度芳輔の両親にも話し、本人にもさとしてくれ。こんど不都合があればすぐ退校を命ずるからという話であったそうな。どんな不都合を働いた。儀一はあのとおりものにならない。あとはきさまひとりをたよりに思ってれば、この始末だ、警察からまで、きさまのためには注意を受けてる。夜遊びといえばなにほどいってもやめない。朝は五へんも六ぺんもおこされる。学校の成績がわるいのもあたりまえのことだ。十五になったら十六になったらと思ってみてれば、年をとるほどわるくなる。おかあさんを見ろ、きさまのことを心配してあのとおりやせてるわ。もうそのくらいの年になったらば、両親の苦心もすこしはわかりそうなものだ」
「おかあさんはもとからやせてら……」
母はこのぞんざいな芳輔のことばを聞くやいなやひいと声をたてて泣きふした。父も顔青ざめて言句がでない。
「おとうさん、わたしすこし用がありますから錦町までいってきます」
そういって芳輔は立ちかける。なにごとにも思いきったことのできない糟谷も、あまりに無神経な芳輔のものいいにかっとのぼせてしまった。
「この野郎ふざけた野郎だ……」
猛然立ちあがった糟谷はわが子を足もとへ引き倒し、ところきらわずげんこつを打ちおろした。芳輔はほとんど他人とけんかするごとき語気と態度で反抗した。手足をわなわなさして見ておったかれの母は、力のこもった決心のある声をひそめて、あなた殺してしまいなさい。殺してしまいなさい。罪はわたしがしょいます。殺してしまってください。もう生きがいのないわたし、あなたが殺されなけりゃわたしが殺す……。こうさけんで母は奥座敷へとび去った。……礼子と下女は泣き声あげて外へでた。糟谷も殺すの一言を耳にして思わず手をゆるめる。芳輔は殺せ殺せとさけんで転倒しながらも、真に殺さんと覚悟した母の血相を見ては、たちまち色を変えて逃げだしてしまった。
礼子は外から飛び込みさまに母に泣きすがった。いっしょけんめいに泣きすがって離れない。糟谷も座につきながら励声に妻を制した。隣家の夫婦も飛び込んできてようやく座はおさまる。
糟谷はまだ手をぶるぶるさしてる。礼子はただがたがたふるえて母を見守っている。母はほとんど正気を失ってものすさまじく、ただハアハア、ハアハアと息をはずませてる。はっきりと口をきくものもない。
ようやくのこと糟谷は、
「増山さん(となりの主人)いやはやまことに面目もないしだいで、なんとも申しあげようもありません」
「いやお察し申しあげます、いかにもそりゃ……まことにお気のどくな、しかし糟谷さんあまり無分別なことをやってしまっては取りかえしがつきませんよ、奥さんはよほど興奮していらっしゃるから、しばらくお寝かしもうしたがよろしいでしょう」
「どうも面目ありません」
ほとんど人のみさかいもないように見えた細君も、礼子や下女や増山の家内から、いろいろなぐさめられていうがままに床についた。やがて増山夫婦も帰った。あとへ深川の牛乳屋某がくる、子宮脱ができたからというので車で迎えにきたのである。家のありさまには気がつかず、さあさあといそぎたてるのである。糟谷はとつおいつ、あいさつのしようにも窮して、いたりたったりしていた。
子宮脱はかれこれ六時間以上になるという。いちばん高い牛だから、気が気でないという。糟谷はいかれないともいえず、危険な意味ある妻を下女と子どもとにまかせてでるのはいかにも不安だし、糟谷はとほうに暮れてしまった。おりよくもそこへ西田がひょっこりはいってきた。深川の乳屋も知ってる人と見え、やあとあいさつして遠慮もなくあがってきた。
「うちでしたな、えいあんばいであった。じつはころあいのうちが見つかったもんですからな」
西田の声がして家のなかの空気は見るまに変わってしまった。陰欝な空気が見るまにうすらぐような気がした。糟谷は手短にきょうのできごとから目の前の窮状を西田に語った。
「うん、きみもかわいそうな人だな、なるほど奥さんも無理はない。ああ奥さんもかわいそうだ」
涙もろい西田は、もう目をうるおした。礼子もでてきて黙ってお辞儀をする。西田はたちながら、
「子宮脱ならなるたけ早いほうがえいでしょう。糟谷くん職務はだいじだ。ぼくが留守をしてあげるから、すぐと深川へでかけたまえ」
西田はこういい捨てて、細君の寝間へはいった。細君も同情深い西田の声を聞いてから、夢からさめたように正気づいた。そうしてはいってきた西田におきて礼儀をした。
「いま糟谷くんからかいつまんで聞きましたが、もうひとすじに思いつめんがようございますよ」
細君は、
「ありがとうございます」
と細い声でいってさんさんと泣くのである。
「それじゃ西田さんちょっといってくるから頼む」
と糟谷は唐紙の外から声をかけてでてしまった。
西田は細君に対し、外手町に家のあったこと、本所へ越してからの業務の方法、そのほかここの家賃のとどこおりまで弁済してあげるということまで話して、細君をなぐさめた。
子どもをりっぱにして自分がしあわせをしようと思うても、それはあてにならないから、なんでも人間のしあわせということは、自分にできることの上に求めねばならぬ。とかく無理な希望を持ってると、自分のすることにも無理ができるから、無理とくるしみを求めるようになるなどと話されて、細君もひたすら西田の好意に感じて胸が開いた。
あかしのつくころに糟谷は帰ってきた。西田は帰ってしまうにしのびないで、泊まって話しすることにする。夜になって礼子や下女の笑い声ももれた。細君もおきて酒肴の用意に手伝った。
糟谷は飲めない口で西田の相手をしながら、いまいってきた某氏の家の惨状を語った。
ひとりむすこに嫁をとって、孫がひとりできたら嫁は死んだ。まもなくむすこも病気になった。ちょうどきょう某博士というのがきた。病気は胃癌だといわれて、家じゅう泣きの涙でいた。牛のほうはぞうさないけれど、むすこは助かる見込みがない。おふくろが前掛けで涙をふきながら茶をだしたが、どこにもよいことばかりはないと、しみじみ糟谷は嘆息した。
西田はあいさつのしようがなく、
「ぼくのような友人があるのをしあわせと思ってるさ」
と投げだすようにいう。
「ほんとにそうでございます」
と細君はいかにもことばに力を入れていった。芳輔は、十時ごろに台所からあがってこっそり自分のへやへはいった。パチリパチリと碁の音は十二時すぎまで聞こえた。