5話 第一章 愛するものの失せし時
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我は死については生理学より学べり、これを詩人の哀歌に読めり、これを伝記者の記録に見たり、時には死体を動物学実室に解剖し、生死の理由を研究せり、時には死と死後の有様について高壇より公衆に向て余の思想を演べたり、人の死するを聞くや、或は聖経の章句を引用し、或は英雄の死に際する時の状を語て、死者を悲む者を慰めんとし、もし余の言に依て気力を回復せざるものある時は余は心竊かにその人の信仰薄きを歎じ理解の鈍きを責たり、余は知れり死は生を有するものの避くべからざることにして、生物界連続の必要なるを、かつ思えらく古昔の英雄或は勇み或は感謝しつつ世を去れり、余も何ぞ均しく為し能わざらんやと、ことに宗教の助あり、復活の望あり、もし余の愛するものの死する時には余はその枕辺に立ち、讃美の歌を唱え、聖書を朗読し、かつて彼をしてその父母の安否を問わんがため一時郷里に帰省せしむる時讃美と祈祷とを以て彼の旅出を送りし時、暫時の離別も苦しけれどもまた遭う時の悦を楽み、涙を隠し愁懼を包み、潔よく彼の門出を送りしごとく彼の遠逝を送らんのみと。
ああ余は死の学理を知り、また心霊上その価値を了れり、しかれどもその深さ、痛さ、悲さ、苦さはその寒冷なる手が余の愛するものの身に来り、余の連夜熱血を灌ぎて捧げし祈祷をも省みず、余の全心全力を擲ち余の命を捨てても彼を救わんとする誠心をも省みず、無慙にも無慈悲にも余の生命より貴きものを余の手よりモギ取り去りし時始めて予察するを得たり。
生命は愛なれば愛するものの失せしは余自身の失せしなり、この完全最美なる造化、その幾回となく余の心をして絶大無限の思想界に逍遙せしめし千万の不滅燈を以て照されたる蒼穹も、その春来るごとに余に永遠希望の雅歌を歌いくれし比翼を有する森林の親友も、その菊花香しき頃巍々として千秋に聳え常に余に愛国の情を喚起せし芙蓉の山も、余が愛するものの失せてより、星は光を失て夜暗く、鶯は哀歌を弾じて心を傷ましむ、富嶽も今は余のものならで、かつて異郷に在りし時、モナドナックの倒扇形を見、コトパキシの高きを望みし時、わが故郷ならざりしがゆえにその美と厳とは反て孤独悲哀の情を喚起せしごとく、この世は今は異郷と変じ、余はなお今世の人なれどもすでにこの世に属せざるものとなれり。
愛せしものの死せしより来る苦痛はわずかにこの世を失ないしに止まらざりしなり、この世は何時か去るべきものなれば今これを失うも三十年の後に失うも大差なかるべし、しかれども余の誠心の貫かざるより、余の満腔の願として溢出せし祈祷の聴かれざるより(人間の眼より評すれば)余は懐疑の悪鬼に襲われ、信仰の立つべき土台を失い、これを地に求めて得ず、これを空に探て当らず、無限の空間余の身も心も置くべき処なきに至れり。これぞ真実の無限地獄にして永遠の刑罰とはこのことをいうならんと思えり、余は基督教を信ぜしを悔いたり、もし余に愛なる神ちょう思想なかりせばこの苦痛はなかりしものを、余は人間と生れしを歎ぜり、もし愛情ちょうものの余に存せざりしならば余にこの落胆なかりしものを、ああ如何にしてこの傷を愈すを得んや。
医師余の容体を見て奮興剤と催眠薬とを勧む、しかれども何物か傷める心を治せんや、友人は転地と旅行とを勧む、しかれども山川今は余の敵なり、哲理的の冷眼を以て死を学び思考を転ぜんとするも得ず、牧師の慰言も親友の勧告も今は怨恨を起すのみにして、余は荒熊のごとくになり「愛するものを余に帰せよ」というより外はなきに至れり。
ああ余を医する薬はなきや、宇宙間余を復活せしむる力は存せざるか、万物ことごとく希望あり、余のみ失望を以て終るべきか。
時に声あり胸中に聞ゆ、細くしてほとんど区別し難し、なおよく聞かんと欲して心を沈むればその声なし、しかれども悪霊懐疑と失望とを以て余を挫かんとする時その声また聞ゆ、いわく「生は死より強し、生は無生の土と空気とを変じアマゾンの森となすがごとく、生は無霊の動物体を取り汝の愛せし真実と貞操の現象となせしごとく、生は人より天使を造るものなり、汝の信仰と学術とはいまだここに達せざるか、この地球がいまだ他の惑星とともに星雲として存せし時、または凝結少しく度を進め一つの溶解球たりし時、これぞ億万年ののちシャロンの薔薇を生じレバノンの常盤樹を繁茂せしむる神の楽園とならんとは誰か量り知るを得しや。最始の博物学者は《けむし》の変じて蛹と成りしときは生虫の死せしと思いしならん、他日美翼を翻えし日光に逍遙する蛾はかつて地上に匍匐せし見悪くかりしものなりとは信ずることの難かりしならん。暗黒時代より信仰自由と代議政体生れ、三十年戦争の劇場としてほとんど砂漠と成りし独逸こそ今は中央欧羅巴の最強国となりしにあらずや、地球と人類が年を越ゆるほど生は死に勝ちつつあるにあらずや、さらば望と徳とを有し神と人とに事えんと己を忘れし汝の愛するものが今は死体となりしとて何ぞ失望すべけんや、理学も歴史も哲学も皆希望を説教しつつあるに何ぞ汝独り失望教を信ずるや」。
“Life mocks the idle hate
Of his arch-enemy Death, ― yea sits himself
Upon the tyrant's throne, the sepulchre,
And of the triumphs of his ghostly foe
Makes his own nourishment.”―― Bryant.
然り余は信ず余の救主は死より復活したまいしを、義人を殺してその人死せりと信ぜし猶太人のあさはかさよ、何ぞヒマラヤ山を敲いて山崩れしと信ぜざる、余が愛するものは死せざりしなり、自然は自己の造化を捨てず、神は己の造りしものを軽ずべけんや、彼の体は朽しならん、彼の死体を包みし麻の衣は土と化せしならん、しかれども彼の心、彼の愛、彼の勇、彼の節――ああもしこれらも肉とともに消ゆるならば、万有は我らに誤謬を説き、聖人は世を欺けり、余は如何にして如何なる体を以て如何なる処に再び彼を見るやを知らず、ただ
“Love does dream, Faith does trust
Somehow, somewhere meet we must.”―― Whittier.
〔愛の夢想を我疑わじ
何様か何処かで相見んと〕
しかれども彼は死せざるものにして余は何時か彼と相会することを得るといえども彼の死は余にとっては最大不幸なりしに相違なし、神もし神なれば何故に余の祈祷を聴かざりしや、神は自然の法則に勝つ能わざるか、或は祈祷は無益なるものなるか、或は余の祈祷に熱心足らざりしか、或は余の罪深きが故に聞かれざりしか、或は余を罰せんがためにこの不幸を余に降だせしか、これ余の聞かんと欲せし所なり。
細き声またいわく、「自然の法則とは神の意なり。雷は彼の声にして嵐は彼の口笛なり、然り、死もまた彼の天使にして彼が彼の愛するものを彼の膝下に呼ばんとする時遣し賜う救使なり」と。
ああ誰か神意と自然の法則とを区別し得るものあらんや、神もし余の愛するものを活かさんと欲せば自然の法則によりて活かせしのみ、余輩神を信ずるものはこれに依て神に謝す、しかれども神を信ぜざるものは或はこれを医薬の効に帰し、或は衛生の力に帰し、治癒の元なる神を讃美せざるなり、神の何たるを知り、自然の法則の何たるやを知れば「神は自然に負けたり」との言は決して出づべきものにあらず。しからば祈る何の要かある、神は祈祷に応じて雨を賜わず、また聖者の祈祷に反して種々の難苦を下せり、祈らずして神命に従うに若かず、祈祷の要は何処にあるや。
これ難問なり、余は余の愛するものの失せしより数月間祈祷を廃したり、祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕に就かじと堅く誓いし余さえも今は神なき人となり、恨を以て膳に向い、涙を以て寝所に就き、祈らぬ人となるに至れり。
ああ神よ恕し賜え、爾は爾の子供を傷けたり、彼は痛のゆえに爾に近づくこと能わざりしなり、爾は彼が祈らざる故に彼を捨てざりしなり、否な、彼が祈りし時に勝りて爾は彼を恵みたり、彼祈り得る時は爾の特別の恵と慰とを要せず、彼祈り能わざる時彼は爾の擁護を要する最も切なり、余は慈母がその子の病める時に言語に礼を失し易く、小言がましき時にあたって慈愛の情の平常に勝り病子を看護するを見たり、爾無限の慈母も余の痛める時に余を愛する余が平常無事の時の比にあらざるなり、余の愛するもの失してのち、余が宇宙の漂流者となりし時、その時こそ爾が爾の無限の愛を余に示し得る時にして、余が爾を捨んとする時爾は余の迹を逐い余をして爾を離れ得ざらしむ。
然り祈祷は無益ならざりしなり、十数年間一日のごとく朝も夕も爾に祈りつつありしが故に今日この思わざるの喜と慰とを爾より受くるを得るなり。
ああ父よ、余は爾に感謝す、爾は余の祈りを聴賜えり、汝かつて余に教えていわく、肉のために祈るなかれ霊のために祈れよと、しかして余は余の愛するものとともに爾に祈るにこの世の幸福を以てせざりしなり、もしそのために祈りし時は必ず「もし御意に叶わば」の語を付せり、自己の願事を聴かば信じ、聴ずば恨むはこれ偶像に願を掛けるもののなす所にして、基督信者の為すべき事にあらざるなり、ああ余は祈祷を廃すべけんや、余は今夕より以前に勝る熱心を以て同じ祈祷を爾に捧ぐべし。
時に悪霊余に告ていわく、「汝祈祷の熱心を以て不治の病者を救いし例を知らざるか、汝の祈祷の聴かれざりしは汝の熱心足らざりしが故なり」と、もししからば余の愛するものの死せしは余の熱心の足らざりしが故か、しからば彼を死に至らしめし罪は余にあり、余は実に余の愛せしものを殺せしものなり、もし熱心が病者を救い得ばその熱心を有せざる人こそ憐むべきかな、余は余の信仰の足らざるを知る、しかれども余は余の熱心のあらん限り祈りたり、しかして聴かれざりしなり、もしなお余の熱心の足らざるを以て余を責むるものあらば、余は余の運命に安ずるより他に途なきなり。
ああ神よ、爾は我らの有せざるものを請求せざるなり、余は余の有するだけの熱心を以て祈れり、しかして爾は余の愛するものを取去れり、父よ、余は信ず、我等の願うことを聴かれしに依て爾を信ずるは易し、聴かれざるに依てなお一層爾に近づくは難し、後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けしものなるを、もし我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものならば爾必ず我の祈祷を聴かれしならん。
ああ感謝す、ああ感謝す爾は余のこの大試錬に堪ゆべきを知りたればこそ余の願を聴賜わざりしなり、余の熱心の足らざるが故にあらずして反て余の熱心(爾の恵によりて得ば)の足るがゆえにこの苦痛ありしなり、ああ余は幸福なるものならずや。
愛なる父よ、余は信ず爾は我らを罰せんために艱難を下し賜わざることを、罰なる語は爾の如何なるものなるかを知るものの字典に存すべき語にあらざるなり、罰は法律上の語にして基督教ちょう律以上の範囲においては要もなき意味もなき名詞なり、もし強てこの語を存せんとならば「暗く見ゆる神の恵」なる定義を附して存すべきなり、刑罰なる語を以て爾に愛せらるるものをしばしば威嚇する爾の教役者をして再び爾の聖書を探らしめ、彼等の誤謬を改めしめよ。
しかれども余に一事忍ぶべからざるあり、彼何故に不幸にして短命なりしや、彼のごとき純白なる心霊を有しながら、彼のごとく全く自己を忘れて彼の愛するもののために尽しながら、彼に一日も心痛なきの日なく、この世に眼開てより眼を閉しまで、不幸艱難うち続き、しかしてのち彼自身は非常の苦痛を以て終れり、この解すべからざる事実の中にいかなる深意の存するや余は知らんと欲するなり。
聖書にいわずや地は神を敬するもののために造られたりと(約百十五章十九節)。しかるにこの最も神を慕いしものは最わずかにこの世を楽んで去れり、ブラジル国の砂中に埋もる大金剛石は誰のために造られしや、無辜を虐げ真理を蔑視する女帝女王の頭を飾るためにか、或は安逸以て貴重なる生命を消費し、春は花に秋は月にこの神聖なる神の職工場(God's Task-garden)を以て一つの遊戯場と見做す懶惰男女の指頭と襟とに光沢を加えむためにか、東台の桜、亀井戸の藤は黄土のために身を汚し天使の形に悪鬼の霊を注入せし妖怪物の特有なるか、誰がために富嶽は年々荘厳なる白冠を戴くや、誰がために富士川の銀線はその麓を縫うや、最も清きもの最も愛すべきものには朝より夕まで、月満てより月欠るまで、彼の視線は一小屋の壁に限られ、聴くべきものとては彼の援助を乞う痛めるものの声あるのみ、ああ造化はこの最良最美の地球を悪魔とその子供に譲与せしか。
この深遠なる疑問に対し答うる所二個あるのみ、すなわち神なるものは存在せざるなり、この地球に勝る世界の義人のために備えらるるあり。
しかしてもし神なしとせば真理なし、真理なしとせば宇宙を支ゆる法則なし、法則なしとせば我も宇宙も存在すべきの理なし、ゆえに我自身の存在する限りは、この天この地の我目前に存する限りは、余は神なしと信ずる能わず、ゆえに理論は余をしてやむを得ず未来存在を信ぜざるを得ざらしむ、もし神はブラジルの金剛石、ボゴタの青玉、オフルの金を以て懶惰貪慾不義をも粧いたまうなれば、勤勉無私貞節を飾るその石その金はいかなるものぞ、コーイノル、オルロー(共に大金剛石の名)の宝石を以て冠を編み、ペルシヤの真珠千百を以て襟飾となし、ウラルの白銀、オルマッヅの金を打て腕輪となして彼を飾るも神はなお足らずとなし、別に我らの知らざる結晶体を造り、金に優る鉱物を製し、彼を粧いつつあるならん、然りこの地は美にしてその富は大なり、しかれども佞人もこれを手にするを得べきものなれば決して無窮の価値を有するものにあらず、我の欲する所のものは悪人の得る能わざるもの、楽しみ得ざるものなり、義人の妝飾は「髪を辮み金を掛けまた衣〔を着〕るがごとき外面の妝飾にあらず、ただ心の内の隠たる人すなわち壊ることなき柔和恬静なる霊」なり。
余は了解せり宇宙のこの隠語を、この美麗なる造化は我らがこれを得んために造られしにあらずして、これを捨てんがために造られしなり、否な、人もしこれを得んと欲せばまずこれを捨てざるべからず(馬太伝十六章二十五節)、誠に実にこの世は試錬の場所なり、我ら意志の深底より世と世の総を捨去てのち始めて我らの心霊も独立し世も我らのものとなるなり、死て活き、捨て得る、基督教の「パラドックス」(逆説)とはこの事をいうなり、余の愛するものは生涯の目的を達せしものなり、彼の宇宙は小なりし、されどもその小宇宙は彼を霊化し、彼を最大宇宙に導くの階段となれり、然り神はこの地を神を敬するもののために造りたまえり。
余は余の失いしものを思うごとに余をして常に断腸後悔ほとんど堪ゆる能わざるあり、彼が世に存せし間余は彼の愛に慣れ、時には不興を以て彼の微笑に報い、彼の真意を解せずして彼の余に対する苦慮を増加し、時には彼を呵嘖し、はなはだしきに至りては彼の病中余の援助を乞うに当て――たとい数月間の看護のために余の身も精神も疲れたるにもせよ――荒らかなる言語を以てこれに応ぜざりし事ありたり、彼は渾て柔和に渾て忠実なるに我は幾度か厳酷にして不実なりしや、これを思えば余は地に恥じ天に恥じ、報ゆべきの彼は失せ、免を乞うの人はなく、余は悔い能わざるの後悔に困められ、無限地獄の火の中に我身で我身を責め立てたり。
一日余は彼の墓に至り、塵を払い花を手向け、最高きものに祈らんとするや、細き声あり――天よりの声か彼の声か余は知らず――余に語ていわく「汝何故に、汝の愛するもののために泣くや、汝なお彼に報ゆるの時をも機をも有せり、彼の汝に尽せしは汝より報を得んがためにあらず、汝をして内に顧みざらしめ汝の全心全力を以て汝の神と国とに尽さしめんがためなり、汝もし我に報いんとならばこの国この民に事えよ、かの家なく路頭に迷う老婦は我なり、我に尽さんと欲せば彼女に尽せ、かの貧に迫められて身を恥辱の中に沈むる可憐の少女は我なり、我に報いんとならば彼女を救え、かの我のごとく早く父母に別れ憂苦頼るべきなき児女は我なり、汝彼女を慰むるは我を慰むるなり、汝の悲歎後悔は無益なり、早く汝の家に帰り、心思を磨き信仰に進み、愛と善との業を為し、霊の王国に来る時は夥多の勝利の分捕物を以てわが主と我とを悦ばせよ」と。
ああいかなる声ぞ、かつてパマカスなる人が妻ポーリナを失いし時、聖ジェロームが彼を慰めんために「他の良人は彼等の妻の墓を飾るに菫菜草と薔薇花とを以てするなれど我がパマカスはポーリナの聖なる遺骨を湿すに慈善の香乳を以てすべし」と書送りしは蓋し余が余の愛するものの墓において心に聞きし声と均しきものならん、よし今日よりは以前に勝る愛心を以て世の憐むべきものを助けん、余の愛するものは肉身においても失せざりしなり、余はなお彼を看護し彼に報得べきなり、この国この民は余の愛するもののために余にとりては一層愛すべきものとなれり。
一婦人のために心思を奪われ残余の生を無益の悲哀の中に送るは情は情なるべけれどもこれ真正の勇気にあらず、基督教は情性を過敏ならしむるが故に悲哀を感ぜしむるまた従て強し、しかれども真理は過敏の情性を錬り無限の苦痛の中より無限の勇気を生ずるものなり、アナ、ハセルトン婦の死は宣教師ジャドソンをしてますます猛勇忠実ならしめたり、メリー、モフハト婦の死は探家リビングストンをして暗黒大陸に進入することますます深からしめたり。詩人シルレルのいわゆる
〔Der starke ist ma:chtigsten allein.〕
(勇者は独り立つ時最も強し)
の言は蓋しこの意に外ならじ、もし愛なる神の在まして勇者を一層勇ならしめんとならばその愛するものをモギ取るに勝れる法はなかるべし。
余は余の愛するものの失せしによりて国も宇宙も――時にはほとんど神をも――失いたり、しかれども再びこれを回復するや、国は一層愛を増し、宇宙は一層美と壮宏とを加え、神には一層近きを覚えたり、余の愛するものの肉体は失せて彼の心は余の心と合せり、何ぞ思きや真正の配合はかえって彼が失せし後にありしとは。
然り余は万を得て一つを失わず、神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり、万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり。
余の得し所これに止まらず、余は天国と縁を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何日かこの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眠に就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労を忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦をもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時を楽みによく戦い終えしのち心嬉しく逝かんのみ。