基督信徒のなぐさめ

8話 第三章 基督教会に捨てられし時(2)

3,775字 約8分 2021年2月13日 公開

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 これ理論なり、しかれども世はいまだ理論の世にはあらざるなり、憎愛(ぞうあい)は理論的にあらず、人は服従を愛して抵抗を(にく)むものなり、たとい余は理論上確実なるにもせよ余の先輩と説を同うせずその指揮に従わざれば余はその保護の(した)に置かれざるは決して怪むべきにあらざるなり、余は教会に捨てられたり、余は余の現世の楽園と頼みし教会より勘当(かんどう)せられたり。

 ああ神よ、この試錬にして余のいまだ充分に(なんじ)を知らざる時に来りしならば余は全く爾の手より離れしならん、しかれども爾は余に堪ゆ能わざるの試錬を(くだ)さず、教会は余が自立し得る時にあたって余を捨てたり、教会我を(すて)し時に爾は我を取り挙げたり、余の愛するもの(さっ)て余はますます爾に近く、国人(こくじん)に捨てられて余は爾の(ふところ)にあり、教会に捨てられて余は爾の心を知れり。

 教会が余を捨てざりし前は余は教会外の人を見る実に不公平なりき、余は思えらく基督教外に善人あるなしと、余は未信徒を以て神の子供と称すべからざるものと思えり、しかるに教会が余を冷遇し、その教師信徒が余の本心さえも疑う時、教会外の人にして(かえっ)て余の真意を諒察するものあるを見て、余は天父の慈悲はなお多量に未信徒社会に存するを(さと)れり、また教会外に(たっ)て局外よりこれを見る時は今日までは神意の教導によりて歩む仁人君子の集合体と思いしものもまたその内に猜疑(せいぎ)、偽善、佞奸(ねいかん)の存するなきにあらざるを知れり、尖塔(せんとう)天を指して高く、風琴(ふうきん)楽を和して(ゆう)なる処のみ神の教会ならざるを知れり、孝子家計の貧を補わんがために寒夜に物を(ひさ)ぐ処これ神の教会ならずや、貞婦良人(おっと)の病を苦慮し東天いまだ白まざる前に社壇に(がん)を込むる処これ神の教会ならずや、余世の誤解する所となり攻撃四方に起る時友人あり独り(たっ)て余を弁ずる時これ神の教会ならずや、ああ神の教会を以て白壁または赤瓦(せきが)の内に存するものと思いし余の(つた)なさよ、神の教会は宇宙の広きがごとく広く、善人の多きがごとく多し、余は教会に捨てられたりしかして余は宇宙の教会に入会せり。

 余は教会に捨てられて始めて寛容寛宥の美徳を了知するを得たり、余が小心翼々神と国とに(つか)えんとする時にあたって、余の神学上の説の異なるより教会は余の本心と意志とに疑念を懐きついに或は余を悪人と見るに至れり。

 ああ余は余が佗人(たにん)をさばきしごとくさばかれたり(馬太(マタイ)七章一、二)、余も教会にありし(うち)は余の教会外の人を議するにあたってかくありしなり、基督教を信ぜざるが故に未信者は皆信用すべからざるものなり、法王に頼むが故に天主教徒は汚穢なる豕児(ぶたご)(Foul swine,ルーテルの語)なり、魯国(ろこく)宣教師に教化されし希臘(ぎりしゃ)教徒は国賊なり、監督教会は英国が世界を掠奪せんがための機関にしてその信徒は黄白(こうはく)のために使役せらるる探偵なり、長老教会は野望人士の集合所なり、メソヂスト教会は不用人物の巣窟なり、クエークル派は偽善なり、ユニテリアン派は偶像教に(まさ)る異端なりと、もし某氏の宗教事業の(さかん)なるを聞けばいわく、彼世人に(へつら)うが故に彼の教会に聴衆多しと、某氏の学校の隆盛を聞けばいわく彼高貴に(こぶ)るが故に成功したりと、余は思えらく真正の善人にして余と説を同うせざるの理由なしと、天主教徒たり、ユニテリアンたり、メソヂストたり、プレスビテリヤンたり、みなおのおの肉慾の充たすべきものあればこそ(しか)るなれと、しかれども教会に捨てられてより余の眼は開き、余の推察の情は(とみ)に増加せり、学説を(こと)にしても本心は善人たるを得べしとの大真理は余はこの時において始て学び得たり、真理は余一人の(ゆう)にあらずして宇宙に存在するすべての善人の有たることを知れり、心の奥底より天主教徒たる人を余は想像し得るに至れり、充分なる良心の許可を得てユニテリアンたることを余は疑わざるに至れり、余は始めて世界に宗教の多き理由と同宗教内に宗派の多く存在する理由とを解せり、真理は富士山の壮大なるがごとく大なり、一方よりその全体を見る(あた)わざるなり、駿河より見る人はいう富士山の形はかくなりと、甲斐より見る人はいうかくなりと、相模より見る人はいうかくなりと、駿河の人は甲斐の人に(むかっ)て汝の富士は偽りの富士なりというべけんや、もし(みずか)ら甲斐に(ゆき)てこれを望めば甲州人の言無理ならざるを知るべし、人間の力なきことと真理の無限無窮なることとを知る人は思想のために他人を迫害せざるなり、全能の神のみ真理の全体を会得し得るものなり、他人を議する人は自己を神と同視するものにして傲慢ちょう悪霊(あくれい)(とりこ)となりしものなり、己れ人に施されんとすることをまた人にもそのごとく(ほどこせ)よ、余は無神論者にあらざれど余は無神論者視せられたり、余はユニテリアンならざるにユニテリアンとして遠ざけられたり、余を迫害せしものは余の境遇と教育と遺伝とを知らざるが故に余の思想を解する能わずして、余が彼らと同説を維持せざるが故に余を異端となし悪人となせり、余は今よりのち余と説を異にする人を見るに(しか)せざるべし、欧米人が日本人の思想をことごとく解し能わざるがごとく日本人も欧米人の思想を全く解すること(かた)かるべし、然り寛容は基督教の美徳なり、寛容ならざるものは基督教徒にあらざるなり。

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 教会に捨てられしものは余一人にあらざるなり。

会堂にありしものこれを(きき)て大に憤り、(たち)てイエスを(まち)の外に出し投下(なげおろ)さんとて、その邑の建ちたる崖にまで曳き往けり。(路加(ルカ)伝第四章二十八、二十九)

 基督に依て眼を開かれしものも教会より放逐せられたり、

彼ら答えていいけるは、(なんじ)はことごとく(つみ)(うまれ)し者なるに(かえ)って我らを教うるか、ついに彼を逐出(おいいだ)せり、彼らが逐い出ししことを聞き、イエス尋ねてこれに遇いいいけるは、爾神の子を信ずるか、答えていいけるは主よ彼としてわが信ずべき者は(たれ)なるや、イエスいいけるは、(なんじ)すでに彼をみる今なんじと言者(ものいうもの)はそれなり、主よ我信ずといいて彼を拝せり。

約翰(ヨハネ)伝第九章三十四―三十八)

 ルーテルも放逐せられたり、ロージャ、ウイリヤムスも放逐せられたり、リビングストンが直接伝道を止めて地理学探に従事せしが故に英国伝道会社の宣教師たるを辞せざるを得ざるに至りしごとく、また()の支那における米国宣教師クロセット氏が普通宣教師と異なる方法を採り北京の窮民救助に従事せしに依てついに本国よりの補給を絶たれ支那海において貧困の中に下等船客室内に死せしがごとく、或は師父ダミエンが生命を(なげう)ってモロカイ島の癩病患者を救助し死してのち彼の声名天下に轟きしや或る米国の宣教師にして神学博士なる某が一書を(あらわ)してこの殉教者生前の名誉を破毀せんとせしがごとく、教会に捨てられ信者に讒謗(ざんぼう)され悪人視せらるるは決して余のみにあらざるなり。

世ににくまるるは われのみならず、

イエスはわれよりも いたくせめらる、

 されどもああ神よ、余は(ちょく)は全く余に存して(きょく)はことごとく余を捨てし教会にありとは断じて信ぜざるなり、余に欠点の多きは爾のしろしめすごとくにして余の言行の不完全なるは余の充分爾の前に白状する所なり、ゆえに余は余を捨てし教会を恨まざるなり、その内に仁人君子の存するありてその爾のために尽せし功績は決して少々ならざることは余の充分に識認する所なり、その内に偽善圧制卑陋(ひろう)の多少横行するにもせよ、これ爾の御名(みな)を奉ずる教会なれば我何ぞこれを敵視するを得んや、余の心余の祈祷は常にその上にあるなり、余は世に「リベラル」(寛大)なりと称する人が自己のごとく「リベラル」ならざる人を目して迷信と呼び狭隘と称して批難するを見たり、願くは神よ余に真正の「リベラル」なる心を与えて余を放逐せし教会をも寛宥するを得せしめよ。

 余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる讃美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし、さらば余は神を拝し神に(ちかづ)くための礼拝堂を有せざるか。

 ()の西山に登り、広原沃野を眼下に望み、俗界の上に立つこと千仞(せんじん)、独り無限と交通する時、軟風背後の松樹に讃歌を弾じ、頭上の鷲鷹(しゅうよう)比翼を(のば)して天上の祝福を垂るるあり、夕陽(せきよう)すでに没せんとし、東山の(むらさき)、西雲の(くれない)、ともに流水鏡面に映ずる時、独り堤上を歩みながら()せにし聖者と霊交を結ぶに際し、ベサイダの岩頭、「サン、マルコ」の高壇、余に無声の説教を聴かしむるあり、激浪岸を(うっ)て高く、砂礫白泡とともに往来する所、ベスホレンの凱歌、ダムバーの砲声、ともに余の勇気を鼓舞するあり、然り余は無教会にはあらざるなり。

 しかれども余も社交的の人間として時には人為の礼拝堂に(つど)い衆とともに神を()めともに祈るの快を欲せざるにあらず、教会の危険物たる余は(たっ)て余の感情を述べ他を勧むるの特権なければ、余は(ひそ)かに坐を会堂の一隅燈光暗き処に占め、心に衆とともに歌い、心に衆とともに祈らん、異端の巨魁たる余は公然高壇の上に立ち粛然福音を()べ伝うるの許可を有せざれば、余は鰥寡孤独(かんかこどく)(うれい)に沈むもの、或は貧困縷衣(るい)にして人目(ひとめ)(はばか)るもの、或は罪に(はじ)暗処(あんしょ)に神の(ゆるし)を求むるものの(もと)を問い、ナザレの耶蘇(いえす)の貧と孤独と(めぐみ)とを語らん、ああ神よ余は教会を(さっ)ても(なんじ)を去る能わざるなり、教会に捨てらるる不幸は不幸なるべけれども爾に捨てられざれば足れり、(ねがわ)くは教会に捨てられしの故を以て余をして爾を離れざらしめよ。

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