2話 二
読み方を変える
此夏の末頃から、何用あるとも無く、三日とあげずに、眞間のあたり駒を乘り廻し、雨風の日にさへ其立派な風彩で練歩く一人の若殿があつた。殊に榛の木の門口や、南天垣の外には蹄の跡の消える間も無いといふ程であつた。それで誰れ云ふと無く、それと噂に立つた。里の誰彼れ年頃の男達の内には、若殿の足繁く來るのを胸惡く思ふ者が多かつた。果ては、どうかして遣らねばならぬと息卷いてる者もあつた。物蔭から惡態ついてやつたといふ者もあつた。それかあらぬか、此一箇月許りの間、南天垣の外に蹄の跡が絶えて居つたのが、今日は日の暮近くに突然又目馴れた葦毛の駒が垣根の外に現はれた。
馬上の人は一度乘廻した駒を再び乘返して來たと思ふ間に、躊躇なく馬を降りた。若殿は目敏く手古奈が家には、今手古奈の外に人無きを認めたらしく、つと馬を屋敷の内へ引入れて終つた。木立の蔭を見計らひ、そこなる橘に馬を繋いだ。手古奈は此體に氣づいて、さすがに驚き周章てた。激した胸騷ぎに手足の運動も止まる許りであつた。一蓆の籾をさゝへた儘急いで土間へ走り込むのであつた。
若殿は悠揚と手古奈の後を追うて家の内に入つた。手古奈も今は其人柄に對して姿勢を正しく迎へぬ譯にゆかないのだ。若殿は最も懇ろな最も丁寧な詞つきで、
暫くの休息を許してくれ、水一碗をふるまうてくれ、と乞ふのであつた。
手古奈も、自分に一方ならず思ひを寄せて、我家の前に幾度となく姿を見する人を、隣國の縣主私部小室と知り得た時には、既に幾許か心を動かさぬ訣にゆかなかつた。それからは其人が見えたと聞く度毎には、又窃かに其人を盜み見せずには居られなかつた。白銀造りの太刀をば、紫のさげ緒の紐に掻結び、毛竝美しき葦毛の駒に練行く後姿前姿、さすがに縣主の品位も高く雄々しくもある、壯士振り、手古奈もそれを憎からず思はない訣にゆかなかつた。著しき位置の懸隔は、感情の醇正を妨げるものゝ、其人の眞情を嬉しく思うては、手古奈も取とめない物思に、寢そこねた夜も一夜二夜では無かつた。
されば今日の會見は、頗る突然の樣で其實少しも突然でない訣なのだが、實際はなか/\突然以上であつた。
手古奈は命令されたかの如く、手の物を置いた。襷をはづし肘を垂れ、我足の爪先を見つめる樣な伏目の姿勢を取つて、私部小室の前に立つた。手も足も痲痺したかの如く、舌も心も凝固したかのやうに、云ふべき何の詞も出ないのである。小室はつとめて色を和らげた面持にて、靜かに爐邊の上り框に腰を卸した。丈夫と思ふ英氣は全身に滿ち、天地に少し至らぬ鋭心を負ひ持てりと信じつゝある私部小室ではあれど、平生自負の雄心も此際に何の力も無いのである。戀の前に立つては只戀人の心に逆らふまいとする自然の命令より外に一切の働きは無いのである。かくて兩人相對した暫時の光景は、互に鼓動する心臟音が男の音と女の音と兩音の響きを、靜中に感じ得る許りである。活きた繪である、活きた繪これが一番此場合を形容するに適當な詞であらう。
小室は漸く水を貰ふのであつたと思ひ出した。幸に湯の冷めないのがあつて、手古奈は金碗に湯を汲んで小室に捧げた。湯を求める、湯を汲みささげる、湯を飮む、此の三つの動作の爲に、兩人ともやう/\少しく此間のぶまを免れて、談話の端緒を開き得た。
小室は千日の思を語るべき機會に、如何に云ふべきかは、隨分能く復習して居つたのであるが、愈々差向つて見ると、今更に言ひ出づべき詞の順序が立たないのである。女性たる手古奈は猶更何を思慮する落ちつきも得られない。
手古奈は湯を汲みさゝげる動作の爲に、小室は其一碗の湯を啜る仕草の爲に、僅に胸のさわぎを落ちつけ得たものゝ、それでも言ひ出づべき詞の工夫に全身の力を絞つて、小室は男ながら顏のほてりを包みきれない。
「里人等の眼にも留るまで、こなたの近くを迷ひ歩き、定めて心苦しく思うてゞあらう、切なき思ひの詮なさに、男子の耻をも忘れて、禮なき振舞ひに及んだ、乍併何もかも只君に戀ひての故の迷ぞな、禮なき事は幾重にも赦してよ」
と詞は少ないが其云ふ心には無量の深さを湛へて居る。賢にして勇との譽れ高い、縣主の殿ともある人の、何といふ謙遜な詞であらう。是れ以上に謙遜な云ひ樣は無からう。彼の女を思ふの心深いだけそれだけ、多く自分をへり下るものか。
手古奈の美は殆ど神に近いが、人はどこまでも人である。眞情に動く心は、寧ろ竝みの人に勝つて居た。小室が語る其詞は、眞情さながら聲と響く。風に對する黒髮か流に靡く玉藻のそれ、手古奈は覺えず涙ぐんだ。
「賤しき身には餘りに勿體なき仰せ……」
手古奈はこれだけの挨拶が精一ぱいである。小室はさすがに、始めての會見にさう深くは切り込めない。只此上はそなたが兩親の許しを得て、訪問を重ねたいとの希望を述べた。そして自分は私部小室であると名告つた。此近郷に誰知らぬ者も無き私部小室、改めて名を告ぐるは言を眞と明す習ひである。
身分もあり、威儀もある人より、情の籠つた心からとは云へ、改つての名のりは、手古奈の耳に今更の如く嚴かに響いた。手古奈は今は情に耻ると云よりは、義理に動く感激が強かつた。同時に手古奈は敏くも顧みて、自分のはしたなき行動は、自分を思うてくれる人にも耻を與へることになると氣づいた。手古奈の此賢なる反省は、其瞬間に手古奈の顏容を層一層尊からしめた。
手古奈は飽くまでも從順な面持を以て、小室の好意に應へながら、其二言三言の挨拶の内には肅然として女性の神聖を保つた。
熟々と戀人の心裏を讀み得た小室も非常に滿足した。そして自分の希望も又大方は達し得らるべく豫想されるから、其面持も見るから活氣を有して來た。命を掛けた希望の前途に嬉しき光明を認めて、沸き激つ血汐に新なるどよめきを起すは、かゝる時には誰しも覺えある事である。たとへば五月雨の雲薄らぎつゝ、おぼろげに太陽を認めた時、將に來らんとする快晴を豫期し得た心地である。兩人の應答は斯く簡短に終を告げた。詞少ないだけ餘韻無量の感が殘る。
小室はどよめく思ひを動作に紛らはし、立つて別れを告げた。
「君に逢ひし日の贈物と、夜晝置かず携へ持てる物、今日の紀念のしるしとも見よ」
手早く爐邊に置いたものは綾も珍らしき倭文幡帶、手古奈は周章てた。餘りに突然な爲に、とみには兎角の分別がつかぬ。これを受けて終つては最早許したも同じではあるまいか。篤と父母に計つてと思ひしものを……如何にせんかとの迷ひはおそかつた。太刀の鐺が地を突いた音に氣づく時、小室は早馬上の人であつた。
帶には二首の歌が添へてあつた。
相見るは玉の緒ばかり戀ふらくは富士の高峰の鳴澤のごと
かつしかの眞間の入江に朝宵に來る潮ならば押して來ましを