東西両文明の調和を論じて帝国の将来に及ぶ

1話 〔旧日本の文明〕

812字 約2分 2020年5月25日 公開

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 (しか)るに古代日本の状態は如何(いかん)。これを地理的寰境(かんきょう)より見る時には、生存競争の機会は極めて僅少であった。古代史には韓、即ち今日の朝鮮半島及び支那の一部との競争はあったが、それとても決して大きな競争ではなかった。元来、日本は島国にして外よりの競争を受くること(すく)なく、四海泰平の夢を結んで、(つい)には鎖国に惰眠を(むさぼ)ったほどに安んじて生存し得る楽土であった。まず地理的寰境を見るに、大陸と適宜の距離を存したる一連島にして、近海には暖流ありて気候の自然的調節を計り、ために春夏秋冬暑からず、寒からず、極めて温和を保っている。また当時に於ては人口も稀薄であったから、生存の安堵たりしことは想像するに困難でない。また生存競争の根本原因たる食物の点より考うるも、山川、島嶼、内海の布置(ふち)極めて自然の妙を得、食するに足る獣魚、穀物、貝類を供給しておったため、人間が応揚(おうよう)で、落着きがあった。故に日本人の間に開けた文明は幼稚単純をその特徴としていた。人は皆簡易生活に満足し、欲望とても極めて淡泊ならざるを得なかった。かかる状態のところへ大陸文明、即ち支那、印度(インド)の文明が初めて輸入されて、在来の日本固有の文明に融和されることとなった。(しか)してこの輸入文明は主として精神文明、即ち宗教(仏教、儒教等)、哲学、文芸及びその他種々の学芸であった。温和な風土、温和な人心にこの精神文明が働きかけたので、其処(そこ)でその後日本の文明はどう開けたか。勿論(もちろん)、宗教、建築、絵画彫刻の進歩発達を促すことになり、一部は政治乃至(ないし)一般の社会にも影響を及ぼし、生存に必要なる工業方面にも多少の変化を促したが、とにかく物質上に(こうむ)った影響は比較的尠少(せんしょう)であった。

 以上述べたことは極めて概括的ではあるが、旧日本文明観の一般である。されば日本固有の文明に日本化された支那、印度(インド)の文明を加味したのが即ち旧日本の文明であって、希臘(ギリシャ)羅馬(ローマ)の文明とは(はなは)だ異っている。つまり欧州の文明にはまだ触れていなかった。

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