第二菎蒻本

1話 第二菎蒻本(1)

7,362字 約15分 2007年3月28日 公開

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       一

 雪の夜路(よみち)の、人影もない真白(まっしろ)な中を、矢来の奥の男世帯へ出先から帰った目に、狭い二階の六畳敷、机の(わき)なる置炬燵(おきごたつ)に、肩まで入って待っていたのが、するりと起直った、逢いに来た(おんな)一重々々(ひとえひとえ)、燃立つような長襦袢(ながじゅばん)ばかりだった姿は、思い懸けずもまた(たぐい)なく美しいものであった。

 (はだ)(おお)うに(くれない)のみで、人の家に澄まし(ふり)。長年連添って、気心も、羽織も、帯も打解けたものにだってちょっとあるまい。

 世間も構わず傍若無人、と思わねばならないのに、俊吉は別に(あやし)まなかった。それは、懐しい、恋しい情が(あが)って、路々の雪礫(ゆきつぶて)に目が(くら)んだ次第ではない。

 ――逢いに来た――と報知(しらせ)を聞いて、同じ牛込、北町の友達の(うち)から、番傘を傾け傾け、雪を(しの)いで帰る途中も、その(おんな)を思うと、(とざ)した町家(まちや)の隙間()る、(ほのか)燈火(あかり)よりも(さっ)と濃い()の色を、酒井の屋敷の森越に、ちらちらと浮いつ沈みつ、幻のように()たのであるから。

 当夜は、北町の友達のその座敷に、五人ばかりの知己(ちかづき)が集って、袋廻しの運座があった。雪を当込(あてこ)んだ(もよおし)ではなかったけれども、黄昏(たそがれ)が白くなって、さて小留(こや)みもなく降頻(ふりしき)る。戸外(おもて)寂寞(さみ)しいほど(ともしび)の興は()いて、血気の連中、借銭ばかりにして女房なし、河豚(ふぐ)も鉄砲も、持って来い。……(いきおい)はさりながら、もの(すご)いくらい庭の雨戸を圧して、ばさばさ鉢前の南天まで押寄せた敵に対して、驚破(すわ)や、(かか)れと、木戸を開いて切って()づべき矢種はないので、逸雄(はやりお)の面々歯噛(はがみ)をしながら、ひたすら籠城(ろうじょう)の軍議一決。

 そのつもりで、――千破矢(ちはや)雨滴(あまだれ)という用意は無い――水の手の燗徳利(かんどくり)も宵からは傾けず。追加の雪の題が、一つ増しただけ互選のおくれた初夜過ぎに、はじめて約束の酒となった。が、筆のついでに、座中の各自(てんで)が、(すき)(きらい)、その季節、花の名、声、人、鳥、虫などを書きしるして、揃った処で、(ひとつ)……何某(なにがし)……(すき)なものは、美人。

「遠慮は要らないよ。」

 (にく)むものは毛虫、と高らかに読上げよう、という事になる。

 箇条の中に、最好、としたのがあり。

「この最好というのは。」

「当人が何より、いい事、嬉しい事、好な事を(ひっ)くるめてちょっと金麩羅(きんぷら)にして頬張るんだ。」

 その標目(みだし)の下へ、何よりも先に==待人(きた)る==と……姓を吉岡と云う俊吉が書込んだ時であった。

 (ふすま)をすうと開けて、当家の女中が、

「吉岡さん、お宅からお使(つかい)でございます。」

「内から……」

「へい、女中さんがお見えなさいました。」

「何てって?」

「ちょっと、お顔をッて、お玄関にお待ちでございます。」

「何だろう。」と俊吉はフトものを深く考えさせられたのである。

 お互に用の有りそうな連中は、大概この座に居合わす。出先へこうした急使の覚えはいささかもないので、急な病気、と老人(としより)を持つ胸に(こた)えた。

「敵の間諜(まわしもの)じゃないか。」と座の右に居て、猪口(ちょく)を持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト俯向(うつむ)いたままで云った。

「まさか。」

 と《みまわ》すと、ずらりと車座が残らず顔を見た時、(あかり)の色が(さっ)と白く、雪が降込んだように俊吉の目に映った。

       二

「ちょっと、失礼する。」

 で、引返して()く女中のあとへついて、出しなに、真中(まんなか)(ふすま)を閉める、と降積(ふりつも)る雪の()は、一重(ひとえ)(へだて)も音が沈んで、酒の座は摺退(すりの)いたように、ずッと遠くなる……風の寒い、冷い縁側を、するする通って、来馴(きな)れた(うち)で戸惑いもせず、暗がりの座敷を一間、壁際を抜けると、次が玄関。

 取次いだ女中は、もう台所へ出て、(なべ)を上る湯気の影。

 そこから彗星(ほうきぼし)のような(あかり)の末が、半ば開けかけた襖越、(ほのか)に玄関の畳へさす、と見ると、沓脱(くつぬぎ)三和土(たたき)(あい)に、暗い格子戸にぴたりと附着(くッつ)いて、横向きに立っていたのは、俊吉の世帯に年増(としま)の女中で。

 二月ばかり給金の(かり)のあるのが、同じく三月ほど(とどこお)った、差配で借りた屋号の黒い提灯(ちょうちん)を袖に引着けて待設ける。が、この提灯を貸したほどなら、夜中に店立(たなだ)てをくわせもしまい。

「おい、……何だ、何だ。」と(かまち)まで。

「あ、旦那様。」

 と小腰を(かが)めたが、向直って、

「ちょっと、どうぞ。」と沈めて云う。

 余り要ありそうなのに、()き心に声が苛立(いらだ)って、

「入れよ、こっちへ。」

「傘も何も、あの、雪で一杯でございますから。皆様のお穿(はき)ものが、」

 成程、暴風雨(あらし)の舟が遁込(にげこ)んださながらの下駄の並び方。雪が落ちると台なしという遠慮であろう。

「それに、……あの、ちょっとどうぞ。」

「何だよ。」とまだ強く言いながら、俊吉は、台所から(あかり)の透く、その正面の襖を閉めた。

 真暗(まっくら)になる土間の其方(そなた)に、雪の袖なる提灯一つ、夜を(はるか)(おもい)がする。

 (ねぎ)らい心で、

「そんなに、降るのか。」といいいい土間へ。

「もう、貴方(あなた)足駄(あしだ)が沈みますほどでございます。」

 聞きも果てずに格子に着いて、

「何だ。」

「お客様でございまして。」と少し顔を退()けながら、せいせい云う……道を急いだ呼吸(いき)づかい、提灯の灯の額際が、汗ばむばかり、てらてらとして赤い。

「誰だ。」

「あの、宮本様とおっしゃいます。」

「宮本……どんな男だ。」

 時に、(からかさ)を横にはずす、とバサリという、片手に提灯を持直すと、雪がちらちらと軒を(くぐ)った。

「いいえ、御婦人の方でいらっしゃいます。」

(おんな)が?」

「はい。」

「婦だ……待ってるのか。」

「ええ、是非お目にかかりとうございますって。」

「はてな、……」

 とのみで、俊吉はちょっと黙った。

 女中は、その太った(からだ)()みこなすように、も一つ腰を(かが)めながら、

「それに、あの、お出先へお迎いに()くのなら、御朋輩(ごほうばい)の方に、御自分の事をお知らせ申さないように、内証(ないしょ)でと、くれぐれも、お(ことづ)けでございましたものですから。」

「変だな、おかしいな、どこのものだか言ったかい。」

「ええ、御遠方。」

「遠い処か。」

「深川からとおっしゃいました。」

「ああ、襟巻なんか取らんでも()い。……お帰り。」

 女中はポカンとして膨れた手袋の手を、提灯の柄ごと唇へ当てて、

「どういたしましょう。」

「……()し、直ぐ帰る。」

 座敷に引返(ひっかえ)そうとして、かたりと土間の下駄を踏んだが、ちょっと留まって、

「どんな風采(ふう)をしている。」と声を(ひそ)めると。

「あの真紅(まっか)なお襦袢(じゅばん)で、お跣足(はだし)で。」

       三

「第一、それが目に着いたんだ、夜だし、……雪が白いから。」

 俊吉は、外套(がいとう)()しに、番傘で、帰途(かえり)を急ぐ(うち)に、雪で足許(あしもと)辿々(たどたど)しいに附けても、心も空も真白(まっしろ)跣足(はだし)というのが身に染みる。

 ――しかし可訝(おか)しい、いや可訝しくはない、けれども妙だ、――あの時、そうだ、久しぶりに逢って、その逢ったのが、その晩ぎり……またわかれになった。――しかもあの時、思いがけない、うっかりした仕損(しそこな)いで、あの、お(そめ)の、あの(からだ)に、胸から膝へ血を浴びせるようなことをした。――

 《みまわ》せば、我が袖も、(ひと)の垣根も雪である。

 ――去年の夏、たしか八月の末と思う、――

 その事のあった時、お染は白地明石(あかし)(あい)子持縞(こもちじま)(うすもの)を着ていたから、場所と云い、境遇も、年増の身で、小さな芸妓屋(げいしゃや)に丸抱えという、可哀(あわれ)(ながれ)にしがらみを掛けた袖も、花に、もみじに、霜にさえその時々の色を染める。九月と云えば、暗いのも、(あかる)いのも、そこいら、……御神燈(なみ)に、()なり、お(めし)なり単衣(ひとえもの)衣更(きか)える(はず)。……しょぼしょぼ雨で涼しかったが葉月の声を聞く前だった。それに、浅草へ出勤()て、お染はまだ間もなかった頃で、どこにも馴染(なじみ)は無いらしく、連立って()く先を、内証で、抱主(かかえぬし)蔦家(つたや)の女房とひそひそと(ささや)いて、その指図に任かせた始末。

 披露(ひろめ)の日は、目も(くら)むように暑かったと云った。

 主人が主人で、出先に余り数はなし、母衣(ほろ)を掛けて護謨輪(ゴムわ)(きし)らせるほど、光った御茶屋には得意もないので、洋傘(こうもり)をさして、抱主がついて、細かく、せっせと近所の待合小料理屋を刻んで廻った。

「かさかささして、えんえんえん、という形なの、泣かないばかりですわ。私もう、嬰児(あかんぼ)に生れかわった気になったんですけれど、(なさけ)ないッてなかったわ。

 その洋傘(かさ)だって、お前さん、新規な涼しいんじゃないでしょう。旅で田舎を持ち歩行(ある)いた、黄色い汚点(しみ)だらけなんじゃありませんか。

 そしてどうです、長襦袢たら、まあ、やっぱりこれですもの。」

 と包ましやかに、薄藤色の半襟を、面痩(おもや)せた、が、色の白い(おとがい)(おさ)えて云う。

 その時、小雨の夜の路地裏の待合で、述懐しつつ、恥らったのが、夕顔の面影ならず、(はだえ)を包んだ(くれない)であった。

「……この土地じゃ、これでないと不可(いけな)いんだって、主人が是非と云いますもの、出の衣裳だから仕方がない。

 それで、白足袋でお(ねり)でしょう。もう五にもなって真白(まっしろ)でしょう、顔はむらになる……奥山相当で、(すす)けた行燈(あんどん)の影へ横向きに手を()いて、肩で挨拶(あいさつ)をして出るんなら()いけれど、それだって(すご)いわね。

 真昼間(まっぴるま)でしょう、遣切(やりき)れたもんじゃありゃしない。

 冷汗だわ、お前さん、かんかん炎天に照附けられるのと一所で、洋傘(かさ)を持った手が(すべ)るんですもの、(てのひら)から、」

 と二の腕が()と白く、且つ白麻の手巾(ハンケチ)で、ト肩をおさえて、(じっ)と見た(まぶた)の白露。

 ――俊吉は、雪の屋敷町の中ほどで、ただ一人。……肩袖をはたはたと払った。……払えば、ちらちらと散る、が、夜目にも消えはせず、なお白々(しらじら)(おもかげ)()つ。

       四

「この、お前さん手巾(ハンケチ)でさ、洋傘(かさ)の柄を、しっかりと握って歩行(ある)きましたんですよ。

 あとへ()いて来る女房(おかみ)さんの風俗(ふう)ッたら、御覧なさいなね。人の事を云えた義理じゃないけれど、私よりか塗立って、しょろしょろ裾長(すそなが)か何かで、(びん)をべったりと出して、黒い目を光らかして、おまけに腕まくりで、まるで、(うり)ますの口上言いだわね。

 察して下さいな。」

 と遣瀬(やるせ)なげに、眉をせめて俯目(ふしめ)になったと思うと、まだその上に――気障(きざ)じゃありませんか、駈出(かけだ)しの女形がハイカラ娘の()るように――と洋傘(かさ)を持った風采(なり)を自ら(あざわら)った、その手巾(ハンケチ)を顔に当てて、水髪や(しのぶ)(しずく)、縁に風りんのチリリンと鳴る時、芸妓(げいこ)島田を俯向(うつむ)けに膝に突伏(つっぷ)した。

 その時、待合の女房が、襖越(ふすまごし)に、長火鉢の(とこ)で、声を掛けた。

「染ちゃん、お出ばなが。」

 俊吉はこれを聞くと、女の肩に掛けていた手が震えた……染ちゃんと云う年紀(とし)ではない。遊女(つとめ)あがりの女をと気がさして、なぜか不思議に、女もともに、(あなど)り、(かろ)んじ、冷評(ひやか)されたような気がして、悚然(ぞっ)として五体を取って引緊(ひきし)められたまで、(きま)りの悪い思いをしたのであった。

 いわゆる、その(お出ばな)のためであった、女に血を浴びせるような事の起ったのは。

 思えば、その女には当夜は云うまでもなく、いつも、いつまでも逢うべきではなかったのである。

 はじめ、無理をして(くるわ)を出たため、一度、町の橋は渡っても、潮に落行かねばならない羽目で、千葉へ行って芸妓(げいしゃ)になった。

 その土地で、ちょっとした呉服屋に思われたが、若い男が田舎気質(かたぎ)(かッ)逆上(のぼ)せた深嵌(ふかはま)りで、家も店も(つぶ)した(はて)が、女房子を四辻へ打棄(うっちゃ)って、無理算段の足抜きで、女を東京へ連れて()げると、旅籠住居(はたごずまい)の気を換える見物の一夜。洲崎(すさき)(くるわ)へ入った時、ここの大籬(おおまがき)の女を俺が、と手折(たお)った枝に根を(はや)す、返咲(かえりざき)の色を見せる気にもなったし、意気な男で暮したさに、引手茶屋が一軒、不景気で分散して、売物に出たのがあったのを、届くだけの借金で、とにかく手附ぐらいな処で、話を着けて引受けて稼業をした。

 まず引掛(ひっかけ)の昼夜帯が一つ鳴って(しま)った姿。わざと短い煙管(きせる)で、真新しい銅壺(どうこ)に並んで、立膝で吹かしながら、雪の素顔で、(くるわ)をちらつく影法師を見て思出したか。

 ――勘定(つけ)をかく、(かけ)すずりに袖でかくして参らせ候、――

 二年ぶり、打絶えた女の音信(たより)を受取った。けれども俊吉は稼業は何でも、(ぬし)あるものに、あえて返事もしなかったのである。

 (しめ)の形や、(かり)の翼は勿論、前の前の下宿屋あたりの春秋(はるあき)の空を廻り舞って、二三度、俊吉の今の住居(すまい)に届いたけれども、(うたがい)嫉妬(しっと)も無い、かえって、卑怯(ひきょう)だ、と自分を(ののし)りながらも逢わずに過した。

 朧々(おぼろおぼろ)()も過ぎず、廓は八重桜の(さかり)というのに、女が先へ身を隠した。……櫛巻(くしまき)(つま)(しろ)く土手の暗がりを忍んで出たろう。

 引手茶屋は、ものの半年とも持堪(もちこた)えず、――残った不義理の借金のために、大川を深川から、身を(さかさま)に浅草へ流着(ながれつ)いた。……手切(てぎれ)(かもじ)も中に()めて、芸妓髷(げいしゃまげ)()った私、千葉の人とは、きれいに(わけ)をつけ参らせ(そろ)

 そうした手紙を、やがて俊吉が受取ったのは、五重の塔の時鳥(ほととぎす)。奥山の青葉頃。……

 雪の森、雪の塀、俊吉は辻へ来た。

       五

 八月の末だった、その日、俊吉は一人、向島(むこうじま)の百花園に行った帰途(かえるさ)三囲(みめぐり)のあたりから土手へ(さっ)と雲が(かか)って、大川が白くなったので、仲見世前まで腕車(くるま)で来て、あれから電車に乗ろうとしたが、いつもの雑沓(ざっとう)。急な雨の混雑はまた(おびただ)しい。江戸中の人を箱詰(はこづめ)にする体裁(ていたらく)。不見識なのはもち(でっ)ちられた蠅の形で、窓にも踏台にも、べたべたと手足をあがいて附着(くッつ)く。

 電車は見る見る中に黒く幅ったくなって、三台五台、群衆を押離すがごとく雨に洗い落したそうに(きし)んで出る。それをも(いと)わない浅間しさで、()を抱いた洋服がやっと手を(すがっ)って乗掛(のっか)けた処を、鉄棒で払わぬばかり車掌の手で突離された。よろめくと帽子が飛んで、小児(こども)がぎゃっと悲鳴を揚げた。

 この発奮(はずみ)に、

「乗るものか。」

 濡れるなら濡れろ、で、奮然として駈出(かけだ)したが。

 仲見世から本堂までは、もう人気もなく、雨は勝手に降って音も寂寞(ひっそり)としたその中を、一思いに仁王門も抜けて、御堂(みどう)の石畳を右へついて廻廊の欄干を三階のように見ながら、(ひさし)頼母(たのも)しさを親船の(みよし)のように仰いで、(しぶき)()けつつ、(ほつ)と息。

 濡れた帽子を階段擬宝珠(ぎぼし)に預けて、瀬多の橋に夕暮れた一人旅という姿で、茫然(ぼうぜん)としてしばらく(たたず)む。……

 風が出て、雨は冷々(ひやひや)として小留(おや)むらしい。

 (しずく)で、不気味さに、まくっていた袖をおろして、しっとりとある襟を掻合(かきあわ)す。この陽気なればこそ、蒸暑ければ必定雷鳴が加わるのであった。

 早や暮れかかって、ちらちらと(とも)れる、灯の数ほど、ばらばら誰彼(たそがれ)の人通り。

 話声がふわふわと浮いて、大屋根から出た蝙蝠(こうもり)のように目前に幾つもちらつくと、柳も見えて、樹立(こだち)も見えて、濃く淡く墨になり行く。

 朝から内を出て、随分遠路(とおみち)を掛けた男は、不思議に遥々(はるばる)と旅をして、広野の堂に、一人雨宿りをしたような気がして、里懐かしさ、人恋しさに堪えやらぬ。

「訪ねてみようか、この近処だ。」

 既に、駈込(かけこ)んで、一呼吸(ひといき)()いた頃から、降籠(ふりこ)められた出前(でさき)の雨の心細さに、親類か、友達か、浅草辺に番傘一本、と思うと共に、ついそこに、目の前に、路地の出窓から、果敢(はか)ない顔を出して格子に(すが)って、此方(こなた)差覗(さしのぞ)くような気がして、筋骨(すじぼね)も、ひしひしとしめつけられるばかり身に染みた、女の事が……こうした人懐しさにいや(まさ)る。……

 ここで逢うのは、旅路(はるか)な他国の(くるわ)で、夜更けて寝乱れた従妹(いとこ)にめぐり合って、すがり寄る、手の緋縮緬(ひぢりめん)は心の通う同じ骨肉の血であるがごとく胸をそそられたのである。

 抱えられた家も、勤めの名も、手紙のたよりに聞いて忘れぬ。

()し。」

 肩を(ゆす)って、一ツ、胸で意気込んで、帽子を俯向(うつむ)けにして、御堂の(ひさし)を出た。……

 軽い雨で、もう(おもて)を打つほどではないが、引緊(ひきし)めた(たもと)重たく、しょんぼりとして、九十九折(つづらおり)なる抜裏、横町。谷のドン底の(どぶ)づたい、次第に暗き奥山路(おくやまみち)

       六

 時々足許から、はっと鳥の立つ女の影。……けたたましく、可哀(あわれ)に、心悲(うらがな)しい、(とび)にとらるると聞く果敢(はか)ない蝉の声に、俊吉は肝を冷しつつ、(ぱっぱっ)(おもて)を照らす狐火(きつねび)の御神燈に、幾たびか驚いて目を(ふさ)いだが、路も坂に沈むばかり。いよいよ谷深く、水が(うるし)を流した溝端(どぶばた)に、(いばら)のごとき格子(さき)、消えずに目に着く狐火が一つ、ぼんやりとして(蔦屋(つたや))とある。

「これだ。」

 (そっ)と、下へ(かが)むようにしてその御神燈を《みまわ》すと、(ほか)小草(おぐさ)の影は無い、染次、と記した一葉(ひとは)のみ。で、それさえ、もと居たらしい芸妓(げいしゃ)の上へ貼紙(はりがみ)をしたのに記してあった。看板を(かき)かえる(ひま)もない、まだ出たてだという、新しさより、一人旅の木賃宿に、かよわい女が紙衾(かみぶすま)の可哀さが見えた。

 とばかりで、俊吉は黙って通過ぎた。

 が、筋向うの格子戸の鼠鳴(ねずみなき)に、ハッと、むささびが()えたほど驚いて引返(ひっかえ)して、蔦屋の門を逆に戻る。

 俯向(うつむ)いて(たたず)んでまた御神燈を(のぞ)いた。が、前刻(さっき)の雨が降込んで閉めたのか、(かまち)の障子は引いてある。……そこに切張(きりばり)の紙に目隠しされて、あの女が染次か、と思う、胸がドキドキして、また行過ぎる。

 トあの鼠鳴がこっちを見た。狐のようで鼻が白い。

 俊吉は取って返した。また戻って、同じことを四五(たび)した。

 いいもの望みで、木賃を恥じた外聞ではない。……巡礼の(おい)に国々の名所古跡の入ったほど、いろいろの影について廻った三年ぶりの馴染(なじみ)に逢う、今、現在、ここで逢うのに無事では済むまい、――お互に降って()くような事があろう、と取越苦労の胸騒(むなさわぎ)がしたのであった。

「御免。」

 と思切って声を掛けた時、俊吉の手は格子を(おさ)えて、そして片足遁構(にげがま)えで立っていた。

「今晩は。」

「はい、今晩は。」

 と平べったい、が切口上で、障子を半分開けたのを、孤家(ひとつや)婆々(ばばあ)かと思うと、たぼの張った、脊の低い、年紀(とし)には似ないで、(くび)を塗った、浴衣の模様も大年増。

 これが女房とすぐに知れた。

 俊吉は、ト御神燈の灯を()けて、路地の暗い方へ(つッ)と身を引く。

 白粉(おしろい)のその頸を、ぬいと出額(おでこ)の下の、小慧(こざか)しげに、世智辛く光る金壺眼(かなつぼまなこ)で、じろりと見越して、

「今晩は。誰方様(どなたさま)で?」

「お宅に染次ってのは()りますか。」

「はい居りますでございますが。」

 と立塞(たちふさ)がるように、しかも、(にが)すまいとするように、(かまち)一杯にはだかるのである。

「ちょっとお呼び下さいませんか。」

 ああ、来なければ()かった、奥も無さそうなのに、声を聞いて出て来ないくらいなら、とがっくり泥濘(ぬかるみ)へ落ちた気がする。

唯今(ただいま)お湯へ参ってますがね、……まあ、貴方(あなた)。」と金壺眼はいよいよ光った。

「それじゃまた来ましょう。」

「まあ、貴方。」

 風体を見定めたか、(あわただ)しく土間へ片足を下ろして、

()きに帰りますから、まあ、お上んなさいまし。」

「いや、途中で困ったから傘を借りたいと思ったんですが、もう雨も上りましたよ。」

「あら、貴方、串戯(じょうだん)じゃありません。私が染ちゃんに叱られますわ、お帰し申すもんですかよ。」

       七

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