1話 第二菎蒻本(1)
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一
雪の夜路の、人影もない真白な中を、矢来の奥の男世帯へ出先から帰った目に、狭い二階の六畳敷、机の傍なる置炬燵に、肩まで入って待っていたのが、するりと起直った、逢いに来た婦の一重々々、燃立つような長襦袢ばかりだった姿は、思い懸けずもまた類なく美しいものであった。
膚を蔽うに紅のみで、人の家に澄まし振。長年連添って、気心も、羽織も、帯も打解けたものにだってちょっとあるまい。
世間も構わず傍若無人、と思わねばならないのに、俊吉は別に怪まなかった。それは、懐しい、恋しい情が昂って、路々の雪礫に目が眩んだ次第ではない。
――逢いに来た――と報知を聞いて、同じ牛込、北町の友達の家から、番傘を傾け傾け、雪を凌いで帰る途中も、その婦を思うと、鎖した町家の隙間洩る、仄な燈火よりも颯と濃い緋の色を、酒井の屋敷の森越に、ちらちらと浮いつ沈みつ、幻のように視たのであるから。
当夜は、北町の友達のその座敷に、五人ばかりの知己が集って、袋廻しの運座があった。雪を当込んだ催ではなかったけれども、黄昏が白くなって、さて小留みもなく降頻る。戸外の寂寞しいほど燈の興は湧いて、血気の連中、借銭ばかりにして女房なし、河豚も鉄砲も、持って来い。……勢はさりながら、もの凄いくらい庭の雨戸を圧して、ばさばさ鉢前の南天まで押寄せた敵に対して、驚破や、蒐れと、木戸を開いて切って出づべき矢種はないので、逸雄の面々歯噛をしながら、ひたすら籠城の軍議一決。
そのつもりで、――千破矢の雨滴という用意は無い――水の手の燗徳利も宵からは傾けず。追加の雪の題が、一つ増しただけ互選のおくれた初夜過ぎに、はじめて約束の酒となった。が、筆のついでに、座中の各自が、好、悪、その季節、花の名、声、人、鳥、虫などを書きしるして、揃った処で、一……何某……好なものは、美人。
「遠慮は要らないよ。」
悪むものは毛虫、と高らかに読上げよう、という事になる。
箇条の中に、最好、としたのがあり。
「この最好というのは。」
「当人が何より、いい事、嬉しい事、好な事を引くるめてちょっと金麩羅にして頬張るんだ。」
その標目の下へ、何よりも先に==待人来る==と……姓を吉岡と云う俊吉が書込んだ時であった。
襖をすうと開けて、当家の女中が、
「吉岡さん、お宅からお使でございます。」
「内から……」
「へい、女中さんがお見えなさいました。」
「何てって?」
「ちょっと、お顔をッて、お玄関にお待ちでございます。」
「何だろう。」と俊吉はフトものを深く考えさせられたのである。
お互に用の有りそうな連中は、大概この座に居合わす。出先へこうした急使の覚えはいささかもないので、急な病気、と老人を持つ胸に応えた。
「敵の間諜じゃないか。」と座の右に居て、猪口を持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト俯向いたままで云った。
「まさか。」
と《みまわ》すと、ずらりと車座が残らず顔を見た時、燈の色が颯と白く、雪が降込んだように俊吉の目に映った。
二
「ちょっと、失礼する。」
で、引返して行く女中のあとへついて、出しなに、真中の襖を閉める、と降積る雪の夜は、一重の隔も音が沈んで、酒の座は摺退いたように、ずッと遠くなる……風の寒い、冷い縁側を、するする通って、来馴れた家で戸惑いもせず、暗がりの座敷を一間、壁際を抜けると、次が玄関。
取次いだ女中は、もう台所へ出て、鍋を上る湯気の影。
そこから彗星のような燈の末が、半ば開けかけた襖越、仄に玄関の畳へさす、と見ると、沓脱の三和土を間に、暗い格子戸にぴたりと附着いて、横向きに立っていたのは、俊吉の世帯に年増の女中で。
二月ばかり給金の借のあるのが、同じく三月ほど滞った、差配で借りた屋号の黒い提灯を袖に引着けて待設ける。が、この提灯を貸したほどなら、夜中に店立てをくわせもしまい。
「おい、……何だ、何だ。」と框まで。
「あ、旦那様。」
と小腰を屈めたが、向直って、
「ちょっと、どうぞ。」と沈めて云う。
余り要ありそうなのに、急き心に声が苛立って、
「入れよ、こっちへ。」
「傘も何も、あの、雪で一杯でございますから。皆様のお穿ものが、」
成程、暴風雨の舟が遁込んださながらの下駄の並び方。雪が落ちると台なしという遠慮であろう。
「それに、……あの、ちょっとどうぞ。」
「何だよ。」とまだ強く言いながら、俊吉は、台所から燈の透く、その正面の襖を閉めた。
真暗になる土間の其方に、雪の袖なる提灯一つ、夜を遥な思がする。
労らい心で、
「そんなに、降るのか。」といいいい土間へ。
「もう、貴方、足駄が沈みますほどでございます。」
聞きも果てずに格子に着いて、
「何だ。」
「お客様でございまして。」と少し顔を退けながら、せいせい云う……道を急いだ呼吸づかい、提灯の灯の額際が、汗ばむばかり、てらてらとして赤い。
「誰だ。」
「あの、宮本様とおっしゃいます。」
「宮本……どんな男だ。」
時に、傘を横にはずす、とバサリという、片手に提灯を持直すと、雪がちらちらと軒を潜った。
「いいえ、御婦人の方でいらっしゃいます。」
「婦が?」
「はい。」
「婦だ……待ってるのか。」
「ええ、是非お目にかかりとうございますって。」
「はてな、……」
とのみで、俊吉はちょっと黙った。
女中は、その太った躯を揉みこなすように、も一つ腰を屈めながら、
「それに、あの、お出先へお迎いに行くのなら、御朋輩の方に、御自分の事をお知らせ申さないように、内証でと、くれぐれも、お託けでございましたものですから。」
「変だな、おかしいな、どこのものだか言ったかい。」
「ええ、御遠方。」
「遠い処か。」
「深川からとおっしゃいました。」
「ああ、襟巻なんか取らんでも可い。……お帰り。」
女中はポカンとして膨れた手袋の手を、提灯の柄ごと唇へ当てて、
「どういたしましょう。」
「……可し、直ぐ帰る。」
座敷に引返そうとして、かたりと土間の下駄を踏んだが、ちょっと留まって、
「どんな風采をしている。」と声を密めると。
「あの真紅なお襦袢で、お跣足で。」
三
「第一、それが目に着いたんだ、夜だし、……雪が白いから。」
俊吉は、外套も無しに、番傘で、帰途を急ぐ中に、雪で足許も辿々しいに附けても、心も空も真白に跣足というのが身に染みる。
――しかし可訝しい、いや可訝しくはない、けれども妙だ、――あの時、そうだ、久しぶりに逢って、その逢ったのが、その晩ぎり……またわかれになった。――しかもあの時、思いがけない、うっかりした仕損いで、あの、お染の、あの体に、胸から膝へ血を浴びせるようなことをした。――
《みまわ》せば、我が袖も、他の垣根も雪である。
――去年の夏、たしか八月の末と思う、――
その事のあった時、お染は白地明石に藍で子持縞の羅を着ていたから、場所と云い、境遇も、年増の身で、小さな芸妓屋に丸抱えという、可哀な流にしがらみを掛けた袖も、花に、もみじに、霜にさえその時々の色を染める。九月と云えば、暗いのも、明いのも、そこいら、……御神燈並に、絽なり、お召なり単衣に衣更える筈。……しょぼしょぼ雨で涼しかったが葉月の声を聞く前だった。それに、浅草へ出勤て、お染はまだ間もなかった頃で、どこにも馴染は無いらしく、連立って行く先を、内証で、抱主の蔦家の女房とひそひそと囁いて、その指図に任かせた始末。
披露の日は、目も眩むように暑かったと云った。
主人が主人で、出先に余り数はなし、母衣を掛けて護謨輪を軋らせるほど、光った御茶屋には得意もないので、洋傘をさして、抱主がついて、細かく、せっせと近所の待合小料理屋を刻んで廻った。
「かさかささして、えんえんえん、という形なの、泣かないばかりですわ。私もう、嬰児に生れかわった気になったんですけれど、情ないッてなかったわ。
その洋傘だって、お前さん、新規な涼しいんじゃないでしょう。旅で田舎を持ち歩行いた、黄色い汚点だらけなんじゃありませんか。
そしてどうです、長襦袢たら、まあ、やっぱりこれですもの。」
と包ましやかに、薄藤色の半襟を、面痩せた、が、色の白い顋で圧えて云う。
その時、小雨の夜の路地裏の待合で、述懐しつつ、恥らったのが、夕顔の面影ならず、膚を包んだ紅であった。
「……この土地じゃ、これでないと不可いんだって、主人が是非と云いますもの、出の衣裳だから仕方がない。
それで、白足袋でお練でしょう。もう五にもなって真白でしょう、顔はむらになる……奥山相当で、煤けた行燈の影へ横向きに手を支いて、肩で挨拶をして出るんなら可いけれど、それだって凄いわね。
真昼間でしょう、遣切れたもんじゃありゃしない。
冷汗だわ、お前さん、かんかん炎天に照附けられるのと一所で、洋傘を持った手が辷るんですもの、掌から、」
と二の腕が衝と白く、且つ白麻の手巾で、ト肩をおさえて、熟と見た瞼の白露。
――俊吉は、雪の屋敷町の中ほどで、ただ一人。……肩袖をはたはたと払った。……払えば、ちらちらと散る、が、夜目にも消えはせず、なお白々と俤立つ。
四
「この、お前さん手巾でさ、洋傘の柄を、しっかりと握って歩行きましたんですよ。
あとへ跟いて来る女房さんの風俗ッたら、御覧なさいなね。人の事を云えた義理じゃないけれど、私よりか塗立って、しょろしょろ裾長か何かで、鬢をべったりと出して、黒い目を光らかして、おまけに腕まくりで、まるで、売ますの口上言いだわね。
察して下さいな。」
と遣瀬なげに、眉をせめて俯目になったと思うと、まだその上に――気障じゃありませんか、駈出しの女形がハイカラ娘の演るように――と洋傘を持った風采を自ら嘲った、その手巾を顔に当てて、水髪や荵の雫、縁に風りんのチリリンと鳴る時、芸妓島田を俯向けに膝に突伏した。
その時、待合の女房が、襖越に、長火鉢の処で、声を掛けた。
「染ちゃん、お出ばなが。」
俊吉はこれを聞くと、女の肩に掛けていた手が震えた……染ちゃんと云う年紀ではない。遊女あがりの女をと気がさして、なぜか不思議に、女もともに、侮り、軽んじ、冷評されたような気がして、悚然として五体を取って引緊められたまで、極りの悪い思いをしたのであった。
いわゆる、その(お出ばな)のためであった、女に血を浴びせるような事の起ったのは。
思えば、その女には当夜は云うまでもなく、いつも、いつまでも逢うべきではなかったのである。
はじめ、無理をして廓を出たため、一度、町の橋は渡っても、潮に落行かねばならない羽目で、千葉へ行って芸妓になった。
その土地で、ちょっとした呉服屋に思われたが、若い男が田舎気質の赫と逆上せた深嵌りで、家も店も潰した果が、女房子を四辻へ打棄って、無理算段の足抜きで、女を東京へ連れて遁げると、旅籠住居の気を換える見物の一夜。洲崎の廓へ入った時、ここの大籬の女を俺が、と手折った枝に根を生す、返咲の色を見せる気にもなったし、意気な男で暮したさに、引手茶屋が一軒、不景気で分散して、売物に出たのがあったのを、届くだけの借金で、とにかく手附ぐらいな処で、話を着けて引受けて稼業をした。
まず引掛の昼夜帯が一つ鳴って〆った姿。わざと短い煙管で、真新しい銅壺に並んで、立膝で吹かしながら、雪の素顔で、廓をちらつく影法師を見て思出したか。
――勘定をかく、掛すずりに袖でかくして参らせ候、――
二年ぶり、打絶えた女の音信を受取った。けれども俊吉は稼業は何でも、主あるものに、あえて返事もしなかったのである。
〆の形や、雁の翼は勿論、前の前の下宿屋あたりの春秋の空を廻り舞って、二三度、俊吉の今の住居に届いたけれども、疑も嫉妬も無い、かえって、卑怯だ、と自分を罵りながらも逢わずに過した。
朧々の夜も過ぎず、廓は八重桜の盛というのに、女が先へ身を隠した。……櫛巻が褄白く土手の暗がりを忍んで出たろう。
引手茶屋は、ものの半年とも持堪えず、――残った不義理の借金のために、大川を深川から、身を倒に浅草へ流着いた。……手切の髢も中に籠めて、芸妓髷に結った私、千葉の人とは、きれいに分をつけ参らせ候。
そうした手紙を、やがて俊吉が受取ったのは、五重の塔の時鳥。奥山の青葉頃。……
雪の森、雪の塀、俊吉は辻へ来た。
五
八月の末だった、その日、俊吉は一人、向島の百花園に行った帰途、三囲のあたりから土手へ颯と雲が懸って、大川が白くなったので、仲見世前まで腕車で来て、あれから電車に乗ろうとしたが、いつもの雑沓。急な雨の混雑はまた夥しい。江戸中の人を箱詰にする体裁。不見識なのはもちに捏ちられた蠅の形で、窓にも踏台にも、べたべたと手足をあがいて附着く。
電車は見る見る中に黒く幅ったくなって、三台五台、群衆を押離すがごとく雨に洗い落したそうに軋んで出る。それをも厭わない浅間しさで、児を抱いた洋服がやっと手を縋って乗掛けた処を、鉄棒で払わぬばかり車掌の手で突離された。よろめくと帽子が飛んで、小児がぎゃっと悲鳴を揚げた。
この発奮に、
「乗るものか。」
濡れるなら濡れろ、で、奮然として駈出したが。
仲見世から本堂までは、もう人気もなく、雨は勝手に降って音も寂寞としたその中を、一思いに仁王門も抜けて、御堂の石畳を右へついて廻廊の欄干を三階のように見ながら、廂の頼母しさを親船の舳のように仰いで、沫を避けつつ、吻と息。
濡れた帽子を階段擬宝珠に預けて、瀬多の橋に夕暮れた一人旅という姿で、茫然としてしばらく彳む。……
風が出て、雨は冷々として小留むらしい。
雫で、不気味さに、まくっていた袖をおろして、しっとりとある襟を掻合す。この陽気なればこそ、蒸暑ければ必定雷鳴が加わるのであった。
早や暮れかかって、ちらちらと点れる、灯の数ほど、ばらばら誰彼の人通り。
話声がふわふわと浮いて、大屋根から出た蝙蝠のように目前に幾つもちらつくと、柳も見えて、樹立も見えて、濃く淡く墨になり行く。
朝から内を出て、随分遠路を掛けた男は、不思議に遥々と旅をして、広野の堂に、一人雨宿りをしたような気がして、里懐かしさ、人恋しさに堪えやらぬ。
「訪ねてみようか、この近処だ。」
既に、駈込んで、一呼吸吐いた頃から、降籠められた出前の雨の心細さに、親類か、友達か、浅草辺に番傘一本、と思うと共に、ついそこに、目の前に、路地の出窓から、果敢ない顔を出して格子に縋って、此方を差覗くような気がして、筋骨も、ひしひしとしめつけられるばかり身に染みた、女の事が……こうした人懐しさにいや増る。……
ここで逢うのは、旅路遥な他国の廓で、夜更けて寝乱れた従妹にめぐり合って、すがり寄る、手の緋縮緬は心の通う同じ骨肉の血であるがごとく胸をそそられたのである。
抱えられた家も、勤めの名も、手紙のたよりに聞いて忘れぬ。
「可し。」
肩を揺って、一ツ、胸で意気込んで、帽子を俯向けにして、御堂の廂を出た。……
軽い雨で、もう面を打つほどではないが、引緊めた袂重たく、しょんぼりとして、九十九折なる抜裏、横町。谷のドン底の溝づたい、次第に暗き奥山路。
六
時々足許から、はっと鳥の立つ女の影。……けたたましく、可哀に、心悲しい、鳶にとらるると聞く果敢ない蝉の声に、俊吉は肝を冷しつつ、々と面を照らす狐火の御神燈に、幾たびか驚いて目を塞いだが、路も坂に沈むばかり。いよいよ谷深く、水が漆を流した溝端に、茨のごとき格子前、消えずに目に着く狐火が一つ、ぼんやりとして(蔦屋)とある。
「これだ。」
密と、下へ屈むようにしてその御神燈を《みまわ》すと、他に小草の影は無い、染次、と記した一葉のみ。で、それさえ、もと居たらしい芸妓の上へ貼紙をしたのに記してあった。看板を書かえる隙もない、まだ出たてだという、新しさより、一人旅の木賃宿に、かよわい女が紙衾の可哀さが見えた。
とばかりで、俊吉は黙って通過ぎた。
が、筋向うの格子戸の鼠鳴に、ハッと、むささびが吠えたほど驚いて引返して、蔦屋の門を逆に戻る。
俯向いて彳んでまた御神燈を覗いた。が、前刻の雨が降込んで閉めたのか、框の障子は引いてある。……そこに切張の紙に目隠しされて、あの女が染次か、と思う、胸がドキドキして、また行過ぎる。
トあの鼠鳴がこっちを見た。狐のようで鼻が白い。
俊吉は取って返した。また戻って、同じことを四五度した。
いいもの望みで、木賃を恥じた外聞ではない。……巡礼の笈に国々の名所古跡の入ったほど、いろいろの影について廻った三年ぶりの馴染に逢う、今、現在、ここで逢うのに無事では済むまい、――お互に降って湧くような事があろう、と取越苦労の胸騒がしたのであった。
「御免。」
と思切って声を掛けた時、俊吉の手は格子を圧えて、そして片足遁構えで立っていた。
「今晩は。」
「はい、今晩は。」
と平べったい、が切口上で、障子を半分開けたのを、孤家の婆々かと思うと、たぼの張った、脊の低い、年紀には似ないで、頸を塗った、浴衣の模様も大年増。
これが女房とすぐに知れた。
俊吉は、ト御神燈の灯を避けて、路地の暗い方へ衝と身を引く。
白粉のその頸を、ぬいと出額の下の、小慧しげに、世智辛く光る金壺眼で、じろりと見越して、
「今晩は。誰方様で?」
「お宅に染次ってのは居りますか。」
「はい居りますでございますが。」
と立塞がるように、しかも、遁すまいとするように、框一杯にはだかるのである。
「ちょっとお呼び下さいませんか。」
ああ、来なければ可かった、奥も無さそうなのに、声を聞いて出て来ないくらいなら、とがっくり泥濘へ落ちた気がする。
「唯今お湯へ参ってますがね、……まあ、貴方。」と金壺眼はいよいよ光った。
「それじゃまた来ましょう。」
「まあ、貴方。」
風体を見定めたか、慌しく土間へ片足を下ろして、
「直きに帰りますから、まあ、お上んなさいまし。」
「いや、途中で困ったから傘を借りたいと思ったんですが、もう雨も上りましたよ。」
「あら、貴方、串戯じゃありません。私が染ちゃんに叱られますわ、お帰し申すもんですかよ。」
七