菎蒻本

1話 菎蒻本(1)

6,494字 約13分 2007年3月28日 公開

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       一

 如月(きさらぎ)のはじめから三月の末へかけて、まだしっとりと春雨にならぬ間を、毎日のように風が続いた。北も南も吹荒(ふきすさ)んで、戸障子を(あお)つ、柱を(ゆす)ぶる、屋根を鳴らす、物干棹(ものほしざお)刎飛(はねと)ばす――荒磯(あらいそ)や、奥山家、都会離れた国々では、もっとも熊を射た、鯨を突いた、(たた)りの吹雪に戸を()して、冬(ごも)る頃ながら――東京もまた砂(ほこり)(たたかい)を避けて、家ごとに穴籠りする思い。

 意気な小家(こいえ)流連(いつづけ)の朝の手水(ちょうず)にも、砂利を含んで、じりりとする。

 羽目も天井も乾いて(はしゃ)いで、(すす)引火奴(ほくち)(つぶて)が飛ぶと、そのままチリチリと火の粉になって燃出しそうな物騒さ。下町、山の手、昼夜の火沙汰(ひざた)で、時の鐘ほどジャンジャンと()つける、そこもかしこも、放火(つけび)だ放火だ、と取り騒いで、夜廻りの拍子木が、枕に響く町々に、寝心のさて安からざりし年とかや。

 三月の中の七日、珍しく朝凪(あさな)ぎして、そのまま(おだや)かに一日暮れて……空はどんよりと曇ったが、底に雨気(あまげ)を持ったのさえ、頃日(このごろ)の埃には、もの(やわら)かに(なが)められる……じとじととした雲一面、星はなけれど宵月の、朧々(おぼろおぼろ)の大路小路。辻には長唄の流しも聞えた。

 この七の日は、番町の大銀杏(おおいちょう)とともに名高い、二七の不動尊の縁日で、月六斎。かしらの二日は大粒の雨が、ちょうど夜店の出盛る頃に、ぱらぱら生暖(なまあったか)い風に吹きつけたために――その癖すぐに晴れたけれども――丸潰(まるつぶ)れとなった。……以来、打続いた風ッ吹きで、銀杏の(こずえ)大童(おおわらわ)に乱れて蓬々(おどろおどろ)しかった、その今夜は、霞に夕化粧で薄あかりにすらりと立つ。

 堂とは一町ばかり(あわい)をおいた、この樹の(もと)から、桜草、(すみれ)、山吹、植木屋の(みち)を開き()めて、長閑(のどか)に春めく蝶々(かんざし)、娘たちの宵出(よいで)の姿。酸漿屋(ほおずきや)の店から灯が(とも)れて、絵草紙屋、小間物(みせ)の、夜の(にしき)に、(くれない)を織り込む(にぎわい)となった。

 が、引続いた火沙汰のために、何となく、心々のあわただしさ、見附の火の見(やぐら)遠霞(とおがすみ)で露店の灯の映るのも、花の使(つかい)(なが)めあえず、遠火で(あぶ)らるる思いがしよう、九時というのに屋敷町の塀に人が消えて、御堂(みどう)の前も寂寞(ひっそり)としたのである。

 提灯(ちょうちん)もやがて消えた。

 ひたひたと木の葉から滴る音して、(くみ)かえし、(むす)びかえた、柄杓(ひしゃく)の柄を漏る(しずく)が聞える。その暗くなった手水鉢の背後(うしろ)に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの(おんな)が、皿を持って出そうだけれども、別に仔細(しさい)はない。……参詣(さんけい)の散った夜更(よふけ)には、人目を避けて、素膚(すはだ)水垢離(みずごり)を取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。

 今境内は人気勢(ひとけはい)もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた(てい)に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋燭(ろうそく)の、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない(あかり)(かすか)に映った。

 びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足(はだし)か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に(すが)って、そこで息を()く、肩を一つ(ゆす)ったが、敷石の上へ、蹌踉々々(よろよろ)

 口を()いて、唇赤く、パッと(ろう)の火を吸った形の、正面の鰐口(わにぐち)の下へ、(ひげ)のもじゃもじゃと生えた(あお)い顔を出したのは、頬のこけた男であった。

 内へ引く、勢の無い(せき)をすると、眉を(ひそ)めたが、(くぼ)んだ目で、御堂の(うち)俯向(うつむ)いて、(のぞ)いて、

「お蝋を。」

       二

 そう云って、(ほころ)びて、(たもと)(さき)でやっと(つな)がる、ぐたりと下へ(かさ)ねた、どくどく重そうな白絣(しろがすり)の浴衣の溢出(はみだ)す、汚れて()えた綿入のだらけた袖口へ、右の手を、手首を曲げて、肩を落して突込(つっこ)んだのは、賽銭(さいせん)を探ったらしい。

 が、チヤリリともせぬ。

 時に、本堂へむくりと立った、大きな頭の真黒(まっくろ)なのが、海坊主のように映って、上から三宝へ伸懸(のしかか)ると、手が燈明(とうみょう)に映って、新しい蝋燭を取ろうとする。

 一ツ狭い間を()いた、障子の(うち)には、()があかあかとして、二三人居残った講中らしい影が()したが、御本尊の前にはこの雇和尚(やといおしょう)ただ一人。もう腰衣(こしごろも)ばかり袈裟(けさ)もはずして、早やお扉を閉める処。この、しょびたれた参詣人が、びしょびしょと賽銭箱の前へ立った時は、ばたり、ばたりと、団扇(うちわ)にしては物寂しい、(おおき)(ひとりむし)の音を立てて、沖の暗夜(やみ)不知火(しらぬい)が、ひらひらと縦に燃える残んの灯を、広い(てのひら)(あお)(あお)ぎ、二三(ちょう)順に消していたのである。

「ええ、」

 とその男が(おさ)えて、低い声で(すが)るように言った。

「済みませんがね、もし、(てまえ)持合せがございません。ええ、新しいお蝋燭は御遠慮を申上げます。ええ。」

「はあ。」と云う、和尚が声の幅を押被(おっかぶ)せるばかり。鼻も大きければ、口も大きい、額の黒子(ほくろ)も大入道、眉をもじゃもじゃと動かして聞返す。

 これがために、(やつ)れた男は言渋って、

「で、ございますから、どうぞ蝋燭はお(とも)し下さいませんように。」

「さようか。」

 と、も一つ押被せたが、そのまま、遣放(やりはな)しにも出来ないのは、彼がまだ何か言いたそうに、もじもじとしたからで。

 和尚はまじりと見ていたが、(はて)しがないから、(おおき)な耳を引傾(ひっかた)げざまに、ト(てのひら)を当てて、燈明の前へ、その黒子(ほくろ)を明らさまに出した(てい)は、耳が遠いからという仕方に似たが、この際、判然(はっきり)分るように物を言え、と催促をしたのである。

「ええ。」

 とまた云う、男は口を利くのも呼吸(いき)だわしそうに肩を(ゆす)る、……

「就きましては、(まこと)に申兼ねましたが、その蝋燭でございます。」

「蝋燭は分ったであす。」

 小鼻に(しわ)を寄せて、黒子に網の目の筋を刻み、

「御都合じゃからお蝋は上げぬようにと言うのじゃ。御随意であす。何か、代物を所持なさらんで、一挺、お蝋が借りたいとでも言わるる事か、それも御随意であす。じゃが、もう時分も遅いでな。」

「いいえ、」

「はい、」と、もどかしそうな鼻息を吹く。

「何でございます、その、さような次第ではございません。それでございますから、申しにくいのでございますが、思召(おぼしめし)を持ちまして、お蝋を一挺、お貸し下さる事にはなりますまいでございましょうか。」

「じゃから、じゃから御随意であす。じゃが時刻も遅いでな、……見なさる通り、燈明をしめしておるが、それともに()けるであすか。」

「それがでございます。」

 と疲れた(さま)にぐたりと賽銭箱の(へり)に両手を()いて、両の耳に、すくすくと毛のかぶさった、小さな頭をがっくりと下げながら、

「一挺お貸し下さいまし、……と申しますのが、御神前に備えるではございません。(てまえ)、頂いて帰りたいのでございます。」

「お蝋を持って行くであすか。ふうむ、」と(おおき)く鼻を(なら)す。

「それも、一度お供えになりました、燃えさしが願いたいのでございまして。」

 いや、時節がら物騒千万。

       三

「待て、待て、ちょっと……」

 往来(どめ)提灯(ちょうちん)はもう消したが、一筋、両側の家の戸を()した、(さみ)しい町の真中(まんなか)に、六道の辻の(みち)しるべに、鬼が植えた鉄棒(かなぼう)のごとく(しるし)の残った、縁日果てた番町(どおり)。なだれに帯板へ下りようとする角の処で、頬被(ほおかぶり)した半纏着(はんてんぎ)が一人、右側の(ひさし)が下った小家の軒下暗い中から、ひたひたと草履で出た。

 声も立てず往来留のその(くい)に並んで、ひしと足を留めたのは、あの、古井戸の陰から、よろりと出て、和尚に蝋燭の燃えさしをねだった、なぜ、その手水鉢の柄杓を盗まなかったろうと思う、船幽霊(ふなゆうれい)のような、(あお)しょびれた男である。

 半纏着は、肩を(はす)っかいに、つかつかと寄って、

「待てったら、待て。」とドス声を渋くかすめて、一つしゃくって、頬被りから突出す(あご)凄味(すごみ)を見せた。が、一向に張合なし……対手(あいて)は待てと云われたまま、破れた暖簾(のれん)に、ソヨとの風も無いように、ぶら下った(てい)立停(たちどま)って待つのであるから。

「どこへ行く、」

 黙って、じろりと顔を見る。

「どこへ行くかい。」

「ええ、宅へ帰りますでございます。」

(うち)はどこだ。」

「市ヶ谷田町でございます。」

「名は何てんだ、……」

 と調子を低めて、ずっと摺寄(すりよ)り、

「こう言うとな、大概生意気な(やつ)は、名を聞くんなら、自分から名告(なの)れと、手数を掛けるのがお(きま)りだ。……俺はな、お(めえ)の名を聞いても、自分で名告るには及ばない身分のもんだ、()いか。その筋の刑事だ。分ったか。」

「ええ、旦那でいらっしゃいますか。」

 と、破れ布子(ぬのこ)の上から見ても骨の触って痛そうな、()せた胸に、ぎしと組んだ手を解いて叩頭(おじぎ)をして、

「御苦労様でございます。」

「むむ、御苦労様か。……だがな、余計な事を言わんでも可い。名を言わんかい。何てんだ、と聞いてるんじゃないか。」

「進藤延一(のぶかず)と申します。」

「何だ、進藤延一、へい、変に学問をしたような、ハイカラな名じゃねえか。」

 と言葉じりもしどろになって、(あご)引込(ひっこ)めたと思うと、おかしく悄気(しょげ)たも道理こそ。刑事と(おど)した半纏着は、その実町内の若いもの、下塗(したぬり)欣八(きんぱち)と云う。これはまた学問をしなそうな兄哥(あにい)が、二七講の景気づけに、縁日の()は縁起を祝って、御堂一室処(ひとまどころ)で、三宝を据えて、頼母子(たのもし)を営む、……世話方で居残ると……お燈明の消々(きえぎえ)時、フト魔が()したような、髪(おどろ)に、骨(あらわ)なりとあるのが、鰐口(わにぐち)の下に立顕(たちあらわ)れ、ものにも事を欠いた、(ことわ)るにもちょっと口実の見当らない、蝋燭の燃えさしを授けてもらって、消えるがごとく門を出たのを、ト伸上って見ていた奴。

「棄ててはおかれませんよ、串戯(じょうだん)じゃねえ。あの、魔ものめ。ご本尊にあやかって、めらめらと背中に火を背負(しょ)って帰ったのが見えませんかい。以来、下町は火事だ。僥倖(しあわせ)と、山の手は静かだっけ。中やすみの風が変って、火先が井戸端から()めはじめた、てっきり放火(つけび)の正体だ。見逃してやったが最後、直ぐに番町は黒焦(くろこげ)さね。私が一番生捕(いけど)って、御覧じろ、火事の卵を硝子(ビイドロ)の中へ泳がせて、追付(おッつ)け金魚の看板をお目に懸ける。……」

「まったく、懸念無量じゃよ。」と、当御堂の住職も、枠眼鏡(わくめがね)(ゆす)ぶらるる。

 講親(こうおや)が、

「欣八、抜かるな。」

「合点だ。」

       四

「ああ、(うま)いな。」

 煙草(たばこ)の煙を、すぱすぱと吹く。溝石の上に腰を落して、打坐(ぶっすわ)りそうに(しゃが)みながら、(くわ)えた煙管(きせる)の吸口が、カチカチと歯に当って、(ゆが)みなりの帽子がふらふらとなる。……

 夜は更けたが、寒さに震えるのではない、骨まで、ぐなぐなに酔っているので、ともすると(のめ)りそうになるのを、路傍(みちばた)の電信柱の根に(すが)って、片手(ふか)しに立続ける。

「旦那、大分いけますねえ。」

 膝掛(ひざかけ)引抱(ひんだ)いて、せめてそれにでも(あたたま)りたそうな車夫は、値が(きま)ってこれから乗ろうとする酔客(よっぱらい)が、ちょっと一服で、提灯(ちょうちん)の灯で吸うのを待つ()、氷のごとく堅くなって、催促がましく脚と脚を、霜柱に摺合(すりあわ)せた。

「何?大分いけますね……とおいでなさると、お酌が附いて飲んでるようだが、酒はもう沢山だ。この上は女さね。ええ、どうだい、生酔(なまよい)本性(たが)わずで、間違の無い事を言うだろう。」

「何ならお供をいたしましょう、ええ、旦那。」

「お供だ? どこへ。」

「お馴染(なじみ)様でございまさあね。」

「馬鹿にするない、見附で外濠(そとぼり)へ乗替えようというのを、ぐっすり寐込(ねこ)んでいて、真直(まっす)ぐに運ばれてよ、閻魔(えんま)だ、と怒鳴られて驚いて飛出したんだ。お供もないもんだ。ここをどこだと思ってる。

 電車が無いから、御意の通り、高い車賃を、恐入って乗ろうというんだ。家数四五軒も転がして、はい、さようならは阿漕(あこぎ)だろう。」

 口を曲げて、看板の灯で苦笑して、

「まず、……()めつけたものよ。当人こう見えて、その実方角が分りません。一体、右側か左側か。」と、とろりとして星を仰ぐ。

「大木戸から向って左側でございます、へい。」

「さては電車路を突切(つっき)ったな。そのまま引返せば()いものを、何の気で渡った知らん。」

 と(しん)になって打傾く。

車夫(くるまや)、車夫ッて、私をお呼びなさりながら、横なぐれにおいでなさいました。」

「……夢中だ。よっぽどまいったらしい。素敵に長い、ぐらぐらする橋を渡るんだと思ったっけ。ああ、酔った。しかし可い心持だ。」とぐったり俯向(うつむ)く。

「旦那、旦那、さあ、もう召して下さい、……串戯(じょうだん)じゃない。」

 と半分(つぶや)いて、石に置いた看板を、ト乗掛(のっかか)って、ひょいと取る。

 鼻の(さき)を、その()が、暗がりにスーッと(あが)ると、ハッ(くさめ)酔漢(よっぱらい)は、細い(たが)(はま)った、どんより黄色な魂を、口から抜出されたように、ぽかんと仰向(あおむ)けに目を明けた。

「ああ、待ったり。」

「燃えます、旦那、提灯を乱暴しちゃ不可(いけ)ません。」

「貸しなよ、もう一服吸附けるんだ。」

燐寸(マッチ)を上げまさあね。」

「味が違います……酔覚めの煙草は蝋燭の火で()むと(きま)ったもんだ。……だが……心意気があるなら、鼻紙を引裂(ひっさ)いて、行燈(あんどん)の火を燃して取って、長羅宇(ながらう)でつけてくれるか。」

 と中腰に立って、煙管を突込(つっこ)む、雁首(がんくび)が、ぼっと大きく映ったが、吸取るように、ばったりと紙になる。

「消した、お前さん。」

 内証(ないしょ)で舌打。

 霜夜に(ぷん)と香が立って、薄い煙が(もう)と立つ。

車夫(くるまや)。」

「何ですえ。」

「……宿(しゅく)に、桔梗屋(ききょうや)と云うのがあるかい、――どこだね。」

「ですから、お供を願いたいんで、へい、()きそこだって旦那、御冥加(ごみようが)だ。御祝儀と思召して一つ暖まらしておくんなさいまし、寒くって遣切(やりき)れませんや。」とわざとらしく、がちがち。

「雲助め。」

 と笑いながら、

「市ヶ谷まで雇ったんだ、賃銭は遣るよ、……車は要らない。そのかわり、蝋燭の燃えさしを貰って()く。……」

       五

 さて酔漢(よっぱらい)は、山鳥の巣に騒見(ぞめ)く、(ふくろう)という形で、も一度線路を渡越(わたりこ)した、宿(しゅく)の中ほどを格子摺(こうしず)れに()しながら、染色(そめいろ)も同じ、桔梗屋、と()いて、風情は過ぎた、月明りの裏打をしたように、横店の電燈(でんき)が映る、暖簾(のれん)をさらりと、肩で分けた。よしこことても武蔵野の草に花咲く名所とて、(ひさし)の霜も薄化粧、夜半(よわ)(すご)さも狐火(きつねび)に溶けて、(なさけ)の露となりやせん。

「若い(しゅ)、」

「らっしゃい!」

「遊ぶぜ。」

難有(ありがと)う様で、へい、」と前掛(まえかけ)の腰を(かが)める、揉手(もみで)(ひじ)に、ピンと()ねた、博多帯(はかたおび)結目(むすびめ)は、赤坂(やっこ)(ひげ)と見た。

「振らないのを頼みます。雨具を持たないお客だよ。」

「ちゃんとな、」

 と唐桟(とうざん)の胸を(しき)って、

「胸三寸。……へへへ、お古い処、お馴染効(なじみがい)でございます、へへへ、お上んなはるよ。」

 帳場から、

「お客様ア。」

 まんざらでない跫音(あしおと)で、トントンと踏む梯子段(はしごだん)

「いらっしゃい。」と……水へ投げて海津(かいず)(しゃく)う、溌剌(はつらつ)とした声なら()いが、海綿に染む泡波(あぶく)のごとく、投げた歯に舌のねばり、どろんとした調子を上げた、遣手部屋(やりてべや)のお()さんというのが、茶渋に蕎麦切(そばきり)(から)ませた、遣放(やりッぱな)しな立膝で、お下りを這曳(しょび)いたらしい、さめた饂飩(うどん)を、くじゃくじゃと(すす)る処――

 横手の衝立(ついたて)稲塚(いなづか)で、火鉢の茶釜(ちゃがま)は竹の子笠、と見ると暖麺(ぬくめん)蚯蚓(みみず)のごとし。(おもんみ)れば(くちばし)(とが)った白面の(コンコン)が、古蓑(ふるみの)裲襠(うちかけ)で、尻尾の(つま)を取って(あらわ)れそう。

 時しも(さっ)と夜嵐して、家中穴だらけの障子の紙が、はらはらと鳴る、(あられ)の音。

 (いきおい)辟易(へきえき)せざるを得ずで、客人ぎょっとした(てい)で、足が(すく)んで、そのまま欄干に凭懸(よりかか)ると、一小間抜けたのが、おもしに打たれて、ぐらぐらと震動に及ぶ。

「わあ、助けてくれ。」

「お前さん、()い御機嫌で。」

 とニヤリと口を開けた、お()さんの歯の黄色さ。横に小楊枝(こようじ)を使うのが、つぶつぶと入る。

 若い衆飛んで来て、腰を()めて、爪先(つまさき)で、ついつい、

「ちょっと、こちらへ。」

 と古畳八畳敷、狸を想う真中(まんなか)へ、(しょう)の抜けた、べろべろの赤毛氈(あかもうせん)。四角でもなし、(まる)でもなし、真鍮(しんちゅう)獅噛(しがみ)火鉢は、古寺の書院めいて、何と、灰に刺したは杉の割箸(わりばし)

 こいつを(つえ)という(てい)で、客は、箸を割って、(ひじ)を張り、擬勢を示して大胡坐(おおあぐら)に《どう》となる。

「ええ。」

 と早口の尻上りで、若いものは敷居際に、梯子段見通しの中腰。

「お馴染様は、何方(どなた)様で……へへへ、つい、お見外(みそ)れ申しましてございまして、へい。」

「馴染はないよ。」

御串戯(ごじょうだん)を。」

「まったくだ。」

「では、その、へへへ、」

「何が可笑(おか)しい。」

「いえ、その、お古い処を……お馴染(がい)でございまして、ちょっとお見立てなさいまし。」

 彼は胸を張って顔を上げた。

「そいつは嫌いだ。」

「もし、野暮なようだが、またお慰み。日比谷で見合と申すのではございません。」

「飛んだ見違えだぜ、気取るものか。一ツ大野暮に我輩、此家(ここ)のおいらんに望みがある。」

「お名ざしで?」

「悪いか。」

「結構ですとも、お古い処を、お馴染効でございまして。……」

       六

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