1話 菎蒻本(1)
読み方を変える
一
如月のはじめから三月の末へかけて、まだしっとりと春雨にならぬ間を、毎日のように風が続いた。北も南も吹荒んで、戸障子を煽つ、柱を揺ぶる、屋根を鳴らす、物干棹を刎飛ばす――荒磯や、奥山家、都会離れた国々では、もっとも熊を射た、鯨を突いた、祟りの吹雪に戸を鎖して、冬籠る頃ながら――東京もまた砂埃の戦を避けて、家ごとに穴籠りする思い。
意気な小家に流連の朝の手水にも、砂利を含んで、じりりとする。
羽目も天井も乾いて燥いで、煤の引火奴に礫が飛ぶと、そのままチリチリと火の粉になって燃出しそうな物騒さ。下町、山の手、昼夜の火沙汰で、時の鐘ほどジャンジャンと打つける、そこもかしこも、放火だ放火だ、と取り騒いで、夜廻りの拍子木が、枕に響く町々に、寝心のさて安からざりし年とかや。
三月の中の七日、珍しく朝凪ぎして、そのまま穏かに一日暮れて……空はどんよりと曇ったが、底に雨気を持ったのさえ、頃日の埃には、もの和かに視められる……じとじととした雲一面、星はなけれど宵月の、朧々の大路小路。辻には長唄の流しも聞えた。
この七の日は、番町の大銀杏とともに名高い、二七の不動尊の縁日で、月六斎。かしらの二日は大粒の雨が、ちょうど夜店の出盛る頃に、ぱらぱら生暖い風に吹きつけたために――その癖すぐに晴れたけれども――丸潰れとなった。……以来、打続いた風ッ吹きで、銀杏の梢も大童に乱れて蓬々しかった、その今夜は、霞に夕化粧で薄あかりにすらりと立つ。
堂とは一町ばかり間をおいた、この樹の許から、桜草、菫、山吹、植木屋の路を開き初めて、長閑に春めく蝶々簪、娘たちの宵出の姿。酸漿屋の店から灯が点れて、絵草紙屋、小間物店の、夜の錦に、紅を織り込む賑となった。
が、引続いた火沙汰のために、何となく、心々のあわただしさ、見附の火の見櫓が遠霞で露店の灯の映るのも、花の使と視めあえず、遠火で焙らるる思いがしよう、九時というのに屋敷町の塀に人が消えて、御堂の前も寂寞としたのである。
提灯もやがて消えた。
ひたひたと木の葉から滴る音して、汲かえし、掬びかえた、柄杓の柄を漏る雫が聞える。その暗くなった手水鉢の背後に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦が、皿を持って出そうだけれども、別に仔細はない。……参詣の散った夜更には、人目を避けて、素膚に水垢離を取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。
今境内は人気勢もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋燭の、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない明に幽に映った。
びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋って、そこで息を吐く、肩を一つ揺ったが、敷石の上へ、蹌踉々々。
口を開いて、唇赤く、パッと蝋の火を吸った形の、正面の鰐口の下へ、髯のもじゃもじゃと生えた蒼い顔を出したのは、頬のこけた男であった。
内へ引く、勢の無い咳をすると、眉を顰めたが、窪んだ目で、御堂の裡を俯向いて、覗いて、
「お蝋を。」
二
そう云って、綻びて、袂の尖でやっと繋がる、ぐたりと下へ襲ねた、どくどく重そうな白絣の浴衣の溢出す、汚れて萎えた綿入のだらけた袖口へ、右の手を、手首を曲げて、肩を落して突込んだのは、賽銭を探ったらしい。
が、チヤリリともせぬ。
時に、本堂へむくりと立った、大きな頭の真黒なのが、海坊主のように映って、上から三宝へ伸懸ると、手が燈明に映って、新しい蝋燭を取ろうとする。
一ツ狭い間を措いた、障子の裡には、燈があかあかとして、二三人居残った講中らしい影が映したが、御本尊の前にはこの雇和尚ただ一人。もう腰衣ばかり袈裟もはずして、早やお扉を閉める処。この、しょびたれた参詣人が、びしょびしょと賽銭箱の前へ立った時は、ばたり、ばたりと、団扇にしては物寂しい、大な蛾の音を立てて、沖の暗夜の不知火が、ひらひらと縦に燃える残んの灯を、広い掌で煽ぎ煽ぎ、二三挺順に消していたのである。
「ええ、」
とその男が圧えて、低い声で縋るように言った。
「済みませんがね、もし、私持合せがございません。ええ、新しいお蝋燭は御遠慮を申上げます。ええ。」
「はあ。」と云う、和尚が声の幅を押被せるばかり。鼻も大きければ、口も大きい、額の黒子も大入道、眉をもじゃもじゃと動かして聞返す。
これがために、窶れた男は言渋って、
「で、ございますから、どうぞ蝋燭はお点し下さいませんように。」
「さようか。」
と、も一つ押被せたが、そのまま、遣放しにも出来ないのは、彼がまだ何か言いたそうに、もじもじとしたからで。
和尚はまじりと見ていたが、果しがないから、大な耳を引傾げざまに、ト掌を当てて、燈明の前へ、その黒子を明らさまに出した体は、耳が遠いからという仕方に似たが、この際、判然分るように物を言え、と催促をしたのである。
「ええ。」
とまた云う、男は口を利くのも呼吸だわしそうに肩を揺る、……
「就きましては、真に申兼ねましたが、その蝋燭でございます。」
「蝋燭は分ったであす。」
小鼻に皺を寄せて、黒子に網の目の筋を刻み、
「御都合じゃからお蝋は上げぬようにと言うのじゃ。御随意であす。何か、代物を所持なさらんで、一挺、お蝋が借りたいとでも言わるる事か、それも御随意であす。じゃが、もう時分も遅いでな。」
「いいえ、」
「はい、」と、もどかしそうな鼻息を吹く。
「何でございます、その、さような次第ではございません。それでございますから、申しにくいのでございますが、思召を持ちまして、お蝋を一挺、お貸し下さる事にはなりますまいでございましょうか。」
「じゃから、じゃから御随意であす。じゃが時刻も遅いでな、……見なさる通り、燈明をしめしておるが、それともに点けるであすか。」
「それがでございます。」
と疲れた状にぐたりと賽銭箱の縁に両手を支いて、両の耳に、すくすくと毛のかぶさった、小さな頭をがっくりと下げながら、
「一挺お貸し下さいまし、……と申しますのが、御神前に備えるではございません。私、頂いて帰りたいのでございます。」
「お蝋を持って行くであすか。ふうむ、」と大く鼻を鳴す。
「それも、一度お供えになりました、燃えさしが願いたいのでございまして。」
いや、時節がら物騒千万。
三
「待て、待て、ちょっと……」
往来留の提灯はもう消したが、一筋、両側の家の戸を鎖した、寂しい町の真中に、六道の辻の通しるべに、鬼が植えた鉄棒のごとく標の残った、縁日果てた番町通。なだれに帯板へ下りようとする角の処で、頬被した半纏着が一人、右側の廂が下った小家の軒下暗い中から、ひたひたと草履で出た。
声も立てず往来留のその杙に並んで、ひしと足を留めたのは、あの、古井戸の陰から、よろりと出て、和尚に蝋燭の燃えさしをねだった、なぜ、その手水鉢の柄杓を盗まなかったろうと思う、船幽霊のような、蒼しょびれた男である。
半纏着は、肩を斜っかいに、つかつかと寄って、
「待てったら、待て。」とドス声を渋くかすめて、一つしゃくって、頬被りから突出す頤に凄味を見せた。が、一向に張合なし……対手は待てと云われたまま、破れた暖簾に、ソヨとの風も無いように、ぶら下った体に立停って待つのであるから。
「どこへ行く、」
黙って、じろりと顔を見る。
「どこへ行くかい。」
「ええ、宅へ帰りますでございます。」
「家はどこだ。」
「市ヶ谷田町でございます。」
「名は何てんだ、……」
と調子を低めて、ずっと摺寄り、
「こう言うとな、大概生意気な奴は、名を聞くんなら、自分から名告れと、手数を掛けるのがお極りだ。……俺はな、お前の名を聞いても、自分で名告るには及ばない身分のもんだ、可いか。その筋の刑事だ。分ったか。」
「ええ、旦那でいらっしゃいますか。」
と、破れ布子の上から見ても骨の触って痛そうな、痩せた胸に、ぎしと組んだ手を解いて叩頭をして、
「御苦労様でございます。」
「むむ、御苦労様か。……だがな、余計な事を言わんでも可い。名を言わんかい。何てんだ、と聞いてるんじゃないか。」
「進藤延一と申します。」
「何だ、進藤延一、へい、変に学問をしたような、ハイカラな名じゃねえか。」
と言葉じりもしどろになって、頤を引込めたと思うと、おかしく悄気たも道理こそ。刑事と威した半纏着は、その実町内の若いもの、下塗の欣八と云う。これはまた学問をしなそうな兄哥が、二七講の景気づけに、縁日の夜は縁起を祝って、御堂一室処で、三宝を据えて、頼母子を営む、……世話方で居残ると……お燈明の消々時、フト魔が魅したような、髪蓬に、骨豁なりとあるのが、鰐口の下に立顕れ、ものにも事を欠いた、断るにもちょっと口実の見当らない、蝋燭の燃えさしを授けてもらって、消えるがごとく門を出たのを、ト伸上って見ていた奴。
「棄ててはおかれませんよ、串戯じゃねえ。あの、魔ものめ。ご本尊にあやかって、めらめらと背中に火を背負って帰ったのが見えませんかい。以来、下町は火事だ。僥倖と、山の手は静かだっけ。中やすみの風が変って、火先が井戸端から舐めはじめた、てっきり放火の正体だ。見逃してやったが最後、直ぐに番町は黒焦さね。私が一番生捕って、御覧じろ、火事の卵を硝子の中へ泳がせて、追付け金魚の看板をお目に懸ける。……」
「まったく、懸念無量じゃよ。」と、当御堂の住職も、枠眼鏡を揺ぶらるる。
講親が、
「欣八、抜かるな。」
「合点だ。」
四
「ああ、旨いな。」
煙草の煙を、すぱすぱと吹く。溝石の上に腰を落して、打坐りそうに蹲みながら、銜えた煙管の吸口が、カチカチと歯に当って、歪みなりの帽子がふらふらとなる。……
夜は更けたが、寒さに震えるのではない、骨まで、ぐなぐなに酔っているので、ともすると倒りそうになるのを、路傍の電信柱の根に縋って、片手喫しに立続ける。
「旦那、大分いけますねえ。」
膝掛を引抱いて、せめてそれにでも暖りたそうな車夫は、値が極ってこれから乗ろうとする酔客が、ちょっと一服で、提灯の灯で吸うのを待つ間、氷のごとく堅くなって、催促がましく脚と脚を、霜柱に摺合せた。
「何?大分いけますね……とおいでなさると、お酌が附いて飲んでるようだが、酒はもう沢山だ。この上は女さね。ええ、どうだい、生酔本性違わずで、間違の無い事を言うだろう。」
「何ならお供をいたしましょう、ええ、旦那。」
「お供だ? どこへ。」
「お馴染様でございまさあね。」
「馬鹿にするない、見附で外濠へ乗替えようというのを、ぐっすり寐込んでいて、真直ぐに運ばれてよ、閻魔だ、と怒鳴られて驚いて飛出したんだ。お供もないもんだ。ここをどこだと思ってる。
電車が無いから、御意の通り、高い車賃を、恐入って乗ろうというんだ。家数四五軒も転がして、はい、さようならは阿漕だろう。」
口を曲げて、看板の灯で苦笑して、
「まず、……極めつけたものよ。当人こう見えて、その実方角が分りません。一体、右側か左側か。」と、とろりとして星を仰ぐ。
「大木戸から向って左側でございます、へい。」
「さては電車路を突切ったな。そのまま引返せば可いものを、何の気で渡った知らん。」
と真になって打傾く。
「車夫、車夫ッて、私をお呼びなさりながら、横なぐれにおいでなさいました。」
「……夢中だ。よっぽどまいったらしい。素敵に長い、ぐらぐらする橋を渡るんだと思ったっけ。ああ、酔った。しかし可い心持だ。」とぐったり俯向く。
「旦那、旦那、さあ、もう召して下さい、……串戯じゃない。」
と半分呟いて、石に置いた看板を、ト乗掛って、ひょいと取る。
鼻の前を、その燈が、暗がりにスーッと上ると、ハッ嚔、酔漢は、細い箍の嵌った、どんより黄色な魂を、口から抜出されたように、ぽかんと仰向けに目を明けた。
「ああ、待ったり。」
「燃えます、旦那、提灯を乱暴しちゃ不可ません。」
「貸しなよ、もう一服吸附けるんだ。」
「燐寸を上げまさあね。」
「味が違います……酔覚めの煙草は蝋燭の火で喫むと極ったもんだ。……だが……心意気があるなら、鼻紙を引裂いて、行燈の火を燃して取って、長羅宇でつけてくれるか。」
と中腰に立って、煙管を突込む、雁首が、ぼっと大きく映ったが、吸取るように、ばったりと紙になる。
「消した、お前さん。」
内証で舌打。
霜夜に芬と香が立って、薄い煙が濛と立つ。
「車夫。」
「何ですえ。」
「……宿に、桔梗屋と云うのがあるかい、――どこだね。」
「ですから、お供を願いたいんで、へい、直きそこだって旦那、御冥加だ。御祝儀と思召して一つ暖まらしておくんなさいまし、寒くって遣切れませんや。」とわざとらしく、がちがち。
「雲助め。」
と笑いながら、
「市ヶ谷まで雇ったんだ、賃銭は遣るよ、……車は要らない。そのかわり、蝋燭の燃えさしを貰って行く。……」
五
さて酔漢は、山鳥の巣に騒見く、梟という形で、も一度線路を渡越した、宿の中ほどを格子摺れに伸しながら、染色も同じ、桔梗屋、と描いて、風情は過ぎた、月明りの裏打をしたように、横店の電燈が映る、暖簾をさらりと、肩で分けた。よしこことても武蔵野の草に花咲く名所とて、廂の霜も薄化粧、夜半の凄さも狐火に溶けて、情の露となりやせん。
「若い衆、」
「らっしゃい!」
「遊ぶぜ。」
「難有う様で、へい、」と前掛の腰を屈める、揉手の肱に、ピンと刎ねた、博多帯の結目は、赤坂奴の髯と見た。
「振らないのを頼みます。雨具を持たないお客だよ。」
「ちゃんとな、」
と唐桟の胸を劃って、
「胸三寸。……へへへ、お古い処、お馴染効でございます、へへへ、お上んなはるよ。」
帳場から、
「お客様ア。」
まんざらでない跫音で、トントンと踏む梯子段。
「いらっしゃい。」と……水へ投げて海津を掬う、溌剌とした声なら可いが、海綿に染む泡波のごとく、投げた歯に舌のねばり、どろんとした調子を上げた、遣手部屋のお媼さんというのが、茶渋に蕎麦切を搦ませた、遣放しな立膝で、お下りを這曳いたらしい、さめた饂飩を、くじゃくじゃと啜る処――
横手の衝立が稲塚で、火鉢の茶釜は竹の子笠、と見ると暖麺蚯蚓のごとし。惟れば嘴の尖った白面の狐が、古蓑を裲襠で、尻尾の褄を取って顕れそう。
時しも颯と夜嵐して、家中穴だらけの障子の紙が、はらはらと鳴る、霰の音。
勢辟易せざるを得ずで、客人ぎょっとした体で、足が窘んで、そのまま欄干に凭懸ると、一小間抜けたのが、おもしに打たれて、ぐらぐらと震動に及ぶ。
「わあ、助けてくれ。」
「お前さん、可い御機嫌で。」
とニヤリと口を開けた、お媼さんの歯の黄色さ。横に小楊枝を使うのが、つぶつぶと入る。
若い衆飛んで来て、腰を極めて、爪先で、ついつい、
「ちょっと、こちらへ。」
と古畳八畳敷、狸を想う真中へ、性の抜けた、べろべろの赤毛氈。四角でもなし、円でもなし、真鍮の獅噛火鉢は、古寺の書院めいて、何と、灰に刺したは杉の割箸。
こいつを杖という体で、客は、箸を割って、肱を張り、擬勢を示して大胡坐に《どう》となる。
「ええ。」
と早口の尻上りで、若いものは敷居際に、梯子段見通しの中腰。
「お馴染様は、何方様で……へへへ、つい、お見外れ申しましてございまして、へい。」
「馴染はないよ。」
「御串戯を。」
「まったくだ。」
「では、その、へへへ、」
「何が可笑しい。」
「いえ、その、お古い処を……お馴染効でございまして、ちょっとお見立てなさいまし。」
彼は胸を張って顔を上げた。
「そいつは嫌いだ。」
「もし、野暮なようだが、またお慰み。日比谷で見合と申すのではございません。」
「飛んだ見違えだぜ、気取るものか。一ツ大野暮に我輩、此家のおいらんに望みがある。」
「お名ざしで?」
「悪いか。」
「結構ですとも、お古い処を、お馴染効でございまして。……」
六