大阪まで

1話

1,699字 約3分 2018年8月5日 公開

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 これは喜多八(きたはち)(たび)覺書(おぼえがき)である――

 今年(ことし)三月(さんぐわつ)(なか)ばより、東京市中(とうきやうしちう)(おだや)かならず、天然痘(てんねんとう)流行(りうかう)につき、其方此方(そちこち)から注意(ちうい)をされて、身體髮膚(しんたいはつぷ)これを父母(ふぼ)にうけたり(あへ)(そこな)(やぶ)らざるを、と()父母(ふぼ)()(おは)さねども、……生命(いのち)()しし、痘痕(あばた)(こは)し、臆病未練(おくびやうみれん)孝行息子(かうかうむすこ)

 三月(さんぐわつ)のはじめ、御近所(ごきんじよ)のお醫師(いしや)(まゐ)つて、つゝましく、しをらしく、(たゞ)(あま)見榮(みばえ)のせぬ(をとこ)()(うで)をあらはにして、神妙(しんめう)種痘(しゆとう)()ませ、

「おとなしくなさい、はゝゝ。」と國手(ドクトル)(わら)はれて、「はい。」と(そで)をおさへて(かへ)ると、()(ばん)あたりから、()何年(なんねん)にもつひぞない、(めう)な、不思議(ふしぎ)心持(こゝろもち)()る。――たとへば、(くすぐ)つたいやうな、(かゆ)いやうな、(あつ)いやうな、(さむ)いやうな、(うれ)しいやうな、(かな)しいやうな、心細(こゝろぼそ)いやうな、(さび)しいやうな、もの(なつか)しくて、果敢(はか)なくて、たよりのない、(たれ)かに()ひたいやうな、(じれ)つたい、苛々(いら/\)しながら、たわいのない、(あたか)(ぼん)とお正月(しやうぐわつ)祭禮(おまつり)を、もう(いく)()ると、と(まへ)(ひか)へて、そして小遣錢(こづかひせん)のない(ところ)へ、ボーンと夕暮(ゆふぐれ)(かね)()くやうで、(なん)とも(もつ)遣瀬(やるせ)がない。

 勉強(べんきやう)出來(でき)ず、稼業(かげふ)仕事(しごと)捗取(はかど)らず、持餘(もてあま)した身體(からだ)春寒(はるさむ)炬燵(こたつ)(はふ)()んで、引被(ひつかつ)いでぞ()たりけるが、時々(とき/″\)掛蒲團(かけぶとん)(えり)から(かほ)()して、あゝ、うゝ、と歎息(ためいき)して、ふう、と氣味惡(きみわる)(はな)()るのが、三井寺(みゐでら)()かうでない、金子(かね)()しいと(きこ)える。……

 綴蓋(とぢぶた)女房(にようばう)(せま)臺所(だいどころ)で、總菜(そうざい)菠薐草(はうれんさう)(そろ)へながら、

「また(はな)()りますね……澤山(たんと)()うなさい、中屋(なかや)小僧(こぞう)()(ちま)ふから……」

眞平(まつぴら)御免(ごめん)。」

 と蒲團(ふとん)をすつぽり、炬燵櫓(こたつやぐら)(あし)爪尖(つまさき)(つね)つて()て、庖丁(はうちやう)(おと)(きこ)える(とき)徐々(そろ/\)(また)(あたま)()し、(ひと)寢返(ねがへ)つて腹這(はらば)ひで、

(なに)(うま)いもの。」

拳固(げんこ)……(つね)(もち)、……(あか)いお團子(だんご)。……それが可厭(いや)なら蝦蛄(しやこ)天麩羅(てんぷら)。」と、(ひと)ツづゝ句切(くぎ)つて憎體(にくた)らしく(ふし)をつける。

御免々々(ごめん/\)。」と(また)(もぐ)る。

 ()のまゝ、うと/\して()ると、種痘(うゑばうさう)()(わざ)とて、如何(いか)にとも(ふせ)ぎかねて、つい、何時(いつ)()にか(はな)()る。

 女房(にようばう)鐵瓶(てつびん)(した)()かた/″\、(つぎ)()長火鉢(ながひばち)(まへ)出張(しゆつちやう)(およ)んで、

「お(まへ)さん、お正月(しやうぐわつ)から(うた)(うた)つて()るんぢやありませんか。――一層(いつそ)一思(ひとおも)ひに大阪(おほさか)()つて、矢太(やた)さんや、源太(げんた)さんに()つて、我儘(わがまゝ)()つていらつしやいな。」

 と、先方(さき)(をとこ)だから可恐(おそろし)氣前(きまへ)()い。

「だがね……」

 工面(くめん)(わる)(こと)は、女房(にようばう)(ひと)世帶(しよたい)でお(たがひ)である。

 二日(ふつか)三日(みつか)(おな)じやうな御惱氣(ごなうけ)(つゞ)いた(ところ)三月(さんぐわつ)十日(とをか)午後(ごご)からしよぼ/\と(あめ)になつて、薄暗(うすぐら)炬燵(こたつ)周圍(しうゐ)へ、(べつ)して邪氣(じやき)(たゞよ)(なか)で、女房(にようばう)箪笥(たんす)抽斗(ひきだし)をがた/\と()けたり、葛籠(つゞら)(ふた)()つたり、着換(きがへ)(ほころび)(しら)べたり、……(あら)つた足袋(たび)裏返(うらがへ)したり、女中(ぢよちう)(かひ)ものに()したり、(なに)小氣轉(こぎてん)(たちまは)つて()たと(おも)ふと、晩酌(ばんしやく)()もので一合(いちがふ)つけた(とき)(はなは)()見事(みごと)でない、箱根土産(はこねみやげ)の、更紗(さらさ)(ちひ)さな信玄袋(しんげんぶくろ)座蒲團(ざぶとん)(そば)持出(もちだ)して、トンと()いて、

楊枝(やうじ)齒磨(はみがき)……半紙(はんし)。」

 と、(くち)のかゞりを一寸(ちよつと)()いて、俯向(うつむ)いて、(なか)()せつゝ、

手巾(ハンカチ)(あら)つたの、ビスミツト、(かみ)(つゝ)んでありますよ。寶丹(はうたん)鶯懷爐(うぐひすくわいろ)、それから膝栗毛(ひざくりげ)一册(いつさつ)、いつも(たび)()ふと()つておいでなさいますが、(なん)になるんです。」

道中(だうちう)魔除(まよけ)()るのさ。」

 鶯懷爐(うぐひすくわいろ)(はる)めいた(ところ)へ、膝栗毛(ひざくりげ)(すこ)氣勢(きほ)つて、熱燗(あつかん)(むし)(おさ)へた。

「しかし、一件(いつけん)は?」

紙入(かみいれ)(はひ)つて()ます、(ちひ)さいのが蝦蟇口(がまぐち)……」

 と()(ぶん)だけは、鰐皮(わにがは)大分(だいぶ)(ふくら)んだのを、自分(じぶん)晝夜帶(ちうやおび)から抽出(ひきだ)して、袱紗包(ふくさづつ)みと一所(いつしよ)信玄袋(しんげんぶくろ)差添(さしそ)へて、

大丈夫(だいぢやうぶ)往復(わうふく)(ぶん)と、中二日(なかふつか)何處(どこ)かで一杯(いつぱい)()めるだけ。……宿(やど)()うせ矢太(やた)さんの高等御下宿(かうとうおんげしゆく)にお世話樣(せわさま)()るんでせう。」

 (つた)()く……旅館以下(りよくわんいか)にして、下宿屋以上(げしゆくやいじやう)所謂(いはゆる)()高等御下宿(かうとうおんげしゆく)なるものは――東區(ひがしく)某町(ぼうちやう)()ふのにあつて、其處(そこ)から保險會社(ほけんぐわいしや)通勤(つうきん)する、(もつと)支店長格(してんちやうかく)で、(とし)(すくな)いが、喜多八(きたはち)には()ぎた、お友達(ともだち)紳士(しんし)である。で、中二日(なかふつか)(かぞ)へたのは、やがて十四日(じふよつか)には、自分(じぶん)幹事(かんじ)片端(かたはし)(うけたまは)つた義理(ぎり)宴曾(えんくわい)(ひと)つあつた。

「……(ゆる)御飯(ごはん)をめしあがれ、それでも七時(しちじ)急行(きふかう)()()ひますわ。」

 ()ました(かほ)で、長煙管(ながぎせる)一服(いつぷく)スツと()(とき)(かぜ)()つて、ざツざツと()雨風(あめかぜ)()つた。()(うち)ではない、戸外(おもて)である、暴模樣(あれもやう)(しの)つく大雨(おほあめ)。……

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