革鞄の怪

1話 革鞄の怪(1)

7,550字 約15分 2007年3月12日 公開

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       一

「そんな事があるものですか。」

「いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、(つま)らないと思う(あと)から声がします。」

「声がします。」

「確かに聞えるんです。」

 と云った。私たち二人は、その晩、長野の町の一大構(あるおおがまえ)の旅館の奥の、母屋(おもや)から板廊下を遠く隔てた離座敷(はなれざしき)らしい十畳の広間に泊った。

 はじめ、停車場(ステイション)から(くるま)を二台で乗着けた時、帳場の若いものが、

「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」

 で、上靴を穿()かせて、つるつるする広い取着(とッつき)の二階へ導いたのであるが、そこから、も一ツつかつかと階子段(はしごだん)(あが)って()くので、(つれ)の男は一段踏掛けながら(あわただ)しく云った。

「三階か。」

「へい、四階(しかい)でございます。」と横に開いて揉手(もみで)をする。

「そいつは(たま)らんな、下座敷は無いか。――貴方(あなた)はいかがです。」

 途中で見た上阪(のぼりざか)の中途に、ばりばりと月に()てた廻縁(まわりえん)総硝子(そうがらす)紅色(べにいろ)の屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見透(みとお)しに高い四階は落着かない。

「私も下が()い。」

「しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。(ほか)には唯今(ただいま)どうも、へい、へい。」

「古くっても構わん。」

 とにかく、座敷はあるので、やっと安心したように言った。

 人の事は云われないが、(つれ)の男も、身体(からだ)つきから様子、言語(ものいい)、肩の()せた処、色沢(いろつや)の悪いのなど、第一、屋財、家財、身上(しんしょう)ありたけを詰込(つめこ)んだ、と自ら(とな)える古革鞄(ふるかばん)の、象を胴切りにしたような格外の(おおき)さで、しかもぼやけた工合(ぐあい)が、どう見ても神経衰弱というのに違いない。

 何と……そして、この革鞄の中で声がする、と夜中に騒ぎ出したろうではないか。

 私は枕を(もた)げずにはいられなかった。

 時に、当人は、もう蒲団(ふとん)から摺出(ずりだ)して、茶縞(ちゃじま)に浴衣を(かさ)ねた寝着(ねまき)扮装(なり)で、ごつごつして、寒さは寒し、もも尻になって、肩を怒らし、腕組をして、真四角(まっしかく)

 で、二(けん)の――これには(かけ)ものが掛けてなかった――床の間を見詰めている。そこに(くだん)の大革鞄があるのである。

 白ぼけた上へ、ドス黒くて、その身上ありたけだという、だふりと(ふく)だみを(ゆす)った形が、元来、仔細(しさい)の無い事はなかった。

 今朝、上野を出て、田端、赤羽――(わらび)を過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。

 私は妙な事を思出したのである。

 やがて、十八九年も()ったろう。小児(こども)がちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の招魂祭の、それも真昼間(まっぴるま)。両側に小屋を並べた見世(みせ)ものの中に、一ヶ所目覚しい看板を見た。

 血だらけ、白粉(おしろい)だらけ、手足、顔だらけ。刺戟の強い色を競った、夥多(あまた)の看板の中にも、そのくらい目を引いたのは無かったと思う。

 続き、上下(うえした)におよそ三四十枚、極彩色の絵看板、雲には銀砂子、(ふすま)黄金箔(きんぱく)、引手に朱の(ふさ)を提げるまで手を()めた……芝居がかりの五十三次。

 岡崎の化猫が、白髪(しらが)(きば)に血を滴らして、破簾(やれみす)よりも顔の青い、女を宙に(くわ)えた絵の、無慙(むざん)さが(まなこ)を射る。

       二

「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」

 と(そそ)る。……

 が、その外には何も言わぬ。並んだ小屋は軒別に、声を振立て、手足を揉上(もみあ)げ、躍りかかって、大砲の音で色花火を撒散(まきち)らすがごとき鳴物まじりに人を呼ぶのに。

 この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴(はおりはかま)が一人、真中(まんなか)に、白襟、空色紋着(もんつき)の、廂髪(ひさしがみ)()せこけた女が一人(まじ)って、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言も(ものい)わず。

 ただ、時々……

「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」

 とばかりで、上目でじろりとお立合を見て、黙然(もくねん)として澄まし返る。

 容体がさも、ものありげで、鶴の一声という(おもむき)。《もが》き騒いで呼立てない、非凡の見識おのずから(あらわ)れて、(うち)の面白さが思遣(おもいや)られる。

 うかうかと入って見ると、こはいかに、と驚くにさえ張合も何にもない。表飾りの景気から()せば、場内の広さも、一軒隣のアラビヤ式と銘打った競馬ぐらいはあろうと思うのに、筵囲(むしろがこ)いの廂合(ひあわい)の路地へ入ったように狭くるしく薄暗い。

 正面を逆に、背後(うしろ)向きに見物を立たせる寸法、舞台、というのが、新筵(あらむしろ)二三枚。

 前に青竹の(らち)結廻(ゆいまわ)して、その筵の上に、大形の古革鞄ただ一個(ひとつ)……《みまわ》しても(なが)めても、雨上(あまあが)りの湿気(しけ)(つち)へ、(わら)(ちら)ばった(ほか)に何にも無い。

 中へ何を入れたか、だふりとして、ずしりと重量(おもみ)(あぶ)まして、筵の上に仇光(あだびか)りの陰気な光沢(つや)を持った鼠色のその革鞄には、以来、大海鼠(おおなまこ)に手が生えて胸へ(のっ)かかる夢を見て(うな)された。

 梅雨期(つゆどき)のせいか、その時はしとしとと皮に潤湿(しめりけ)を帯びていたのに、年数も()ったり、今は皺目(しわめ)がえみ割れて乾燥(はしゃ)いで、さながら乾物(ひもの)にして保存されたと思うまで、色合、恰好(かっこう)、そのままの大革鞄を、下にも置かず、やっぱり色の()せた鼠の半外套(はんがいとう)(そで)に引着けた、その一人の旅客を認めたのである。

 私は(じっ)()て、――長野泊りで、明日(あす)は木曾へ廻ろうと思う、たまさかのこの旅行に、不思議な暗示を与えられたような気がして、なぜか、変な、(くすぐ)ったい心地がした。

 しかも、その中から、怪しげな、不気味な、(すご)いような、恥かしいような、また謎のようなものを取出して見せられそうな気がしてならぬ。

 少くとも、あの、絵看板を畳込(たたみこ)んで持っていて、汽車が隧道(トンネル)へ入った、真暗(まっくら)な煙の(うち)で、(さっ)と化猫が女を()む血だらけな()(はかま)の、真赤(まっか)な色を投出(ほうりだ)しそうに考えられた。

 で、どこまで一所になるか、……稀有(けう)な、妙な事がはじまりそうで、(あぶな)っかしい(うち)にも、内々少からぬ期待を持たせられたのである。

 けれども、その男を、年配、風采(ふうさい)、あの三人の中の木戸番の一人だの、興行ぬしだの、手品師だの、祈祷者(きとうじゃ)、山伏だの、……何を間違えた処で、慌てて魔法つかいだの、占術家(うらないや)だの、また強盗、あるいは殺人犯で、革鞄の中へ輪切(わぎり)にした女を油紙に包んで詰込んでいようの、従って、探偵などと思ったのでは決してない。

 一目見ても知れる、その何省かの官吏である事は。――やがて、知己(ちかづき)になって知れたが、都合あって、飛騨(ひだ)の山の中の郵便局へ転任となって、その任に(おもむ)く途中だと云う。――それにいささか(うたがい)はない。

 が、持主でない。その革鞄である。

       三

 這奴(しゃつ)窓硝子(まどがらす)小春日(こはるび)日向(ひなた)にしろじろと、光沢(つや)(ただよ)わして、怪しく光って、ト構えた(てい)が、何事をか企謀(たくら)んでいそうで、その企謀(たくらみ)の整うと同時に、驚破(すわ)事を、仕出来(しでか)しそうでならなかったのである。

 持主の旅客は、ただ黙々として、俯向(うつむ)いて、街樹(なみき)に染めた錦葉(もみじ)も見ず、時々、額を(たた)くかと思うと、両手で(じっ)頸窪(ぼんのくぼ)(おさ)える。やがて、中折帽(なかおれぼう)を取って、ごしゃごしゃと、やや伸びた頭髪(かみのけ)引掻(ひっか)く。巻莨(まきたばこ)に点じて三分の一を吸うと、(なかば)三分の一を瞑目(めいもく)して黙想して過して、はっと心着いたように、火先を(ななめ)に目の前へ、ト(かざ)しながら、(じっ)と灰になるまで凝視(みつ)めて、慌てて、ふッふッと吹落して、(あと)を詰らなそうにポタリと()てる……すぐその額を敲く。続いて頸窪を両手で圧える。それを繰返すばかりであるから、これが企謀(たくら)んだ処で、自分の身の上の事に過ぎぬ。あえて世間をどうしようなぞという野心は無さそうに見えたのに――

 お供の、(やっこ)腰巾着(こしぎんちゃく)然とした(くだん)の革鞄の方が、物騒でならないのであった。

 果せるかな。

 小春(なぎ)のほかほかとした()日和(ひより)の、午前十一時半頃、汽車が高崎に着いた時、彼は向側(むこうがわ)を立って来て、弁当を買った。そして折を片手に、しばらく硝子窓に頬杖(ほおづえ)をついていたが、

「酒、酒。」

 と威勢よく呼んだ、その時は先生奮然たる態度で、のぼせるほどな日に、蒼白(あおじろ)い顔も、もう酔ったように《かッ》と(いきおい)づいて、この日向で、かれこれ(かん)の出来ているらしい、ペイパの乾いた(びん)膚触(はだざわ)りも(あたたか)そうな二合詰を買って、これを背広の(わき)へ抱えるがごとくにして席へ戻る、と(いそが)わしく革鞄の口に手を掛けた。

 私はドキリとして、おかしく時めくように胸が躍った。九段第一、否、皇国一の見世物小屋へ入った、その過般(いつか)の時のように。

 しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口許(くちもと)ばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾街道に縁のない事はないが。

 それを(じっ)と、酒も飲まずに凝視(みつ)めている。

 私も弁当と酒を買った。

 (おおき)蝦蟆(がま)とでもあろう事か、革鞄の吐出した第一幕が、旅行案内ばかりでは桟敷(さじき)で飲むような気はしない、が(けだ)しそれは僭上(せんじょう)の沙汰で。

「まず、飲もう。」

 その気で、席へ腰を掛直すと、口を抜こうとした酒の香より、はッと(おもて)を打った、懐しく床しい、留南奇(とめき)がある。

 この高崎では、大分旅客の出入りがあった。

 そこここ、(まばら)に透いていた席が、ぎっしりになって――二等室の事で、云うまでもなく荷物が小児(こども)よりは厄介に、中には大人ほど幅をしてあちこちに(はさま)って。勿論、知合になったあとでは失礼ながら、(くだん)の大革鞄もその(うち)の数の一つではあるが――一人、袴羽織で、山高を(かぶ)ったのが仕切の板戸に突立(つッた)っているのさえ出来ていた。

 私とは、ちょうど正面、かの男と隣合った、そこへ、艶麗(あでやか)な女が一人腰を掛けたのである。

 待て、ただ艶麗な、と云うとどこか世話でいて、やや婀娜(あだ)めく。

 内端(うちわ)に、品よく、高尚と云おう。

 前挿(まえざし)中挿(なかざし)鼈甲(べっこう)の照りの美しい、華奢(きゃしゃ)な姿に重そうなその櫛笄(くしこうがい)に対しても、のん気に婀娜だなどと云ってはなるまい。

       四

 一目見ても知れる、濃い紫の紋着(もんつき)で、白襟、()長襦袢(ながじゅばん)。水の垂りそうな、しかしその貞淑を思わせる初々しい、高等な高島田に、鼈甲を端正(きちん)と堅く挿した風采(とりなり)は、桃の小道を駕籠(かご)()りたい。嫁に()こうとする女であった。……

 指の細く白いのに、(あか)いと、緑なのと、指環(ゆびわ)二つ()めた手を下に、三指ついた(さま)に、裾模様(すそもよう)の松の葉に、玉の折鶴のように組合せて、(つま)を深く正しく居ても、(こぼ)るる(もすそ)(くれない)を、しめて、踏みくぐみの雪の羽二重(はぶたえ)足袋。(かすか)に震えるような身を()めた爪先(つまさき)塗駒下駄(ぬりこまげた)

 まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣いと、恐怖(おそれ)と、(なんだ)と、(えみ)とは、ただその深く差俯向(さしうつむ)いて、眉も目も、房々した前髪に隠れながら、ほとんど、顔のように見えた真向いの島田の(びん)に包まれて、(かんざし)の穂に(あらわ)るる。……窈窕(ようちょう)たるかな風采、花嫁を祝するにはこの(ことば)()い。

 しかり、窈窕たるものであった。

 中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最惜(いとし)らしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、(かすか)元結(もとゆい)のゆらめきである。

 耳許(みみもと)も清らかに、玉を伸べた頸許(えりもと)の綺麗さ。うらすく(くれない)の且つ(なまめ)かしさ。

 袖の香も目前(めさき)(ただよ)う、さしむかいに、余り間近なので、その裏恥かしげに、手も足も()め悩まされたような風情が、さながら、我がためにのみ、そうするのであるように見て取られて、私はしばらく、(びん)の口を抜くのを差控えたほどであった。

 汽車に連るる、野も、畑も、(はた)(すすき)も、薄に(まじわ)(くれない)の木の葉も、紫()めた野末の霧も、霧を()いた山々も、皆()く人の背景であった。迎うるごとく、送るがごとく、窓に(もゆ)るがごとく見え()めた妙義の錦葉(もみじ)と、蒼空(あおぞら)の雲のちらちらと白いのも、ために、(べに)白粉(おしろい)(よそおい)を助けるがごとくであった。

 一つ、次の最初の停車場(ステイション)へ着いた時、――下りるものはなかった――私の居た側の、出入り口の窓へ、五ツ六ツ、土地のものらしい(ひな)めいた男女(なんにょ)の顔が押累(おしかさな)って室を(のぞ)いた。

 (かさな)りあふれて、ひょこひょこと(うり)の転がる(てい)に、次から次へ、また二ツ三ツ頭が来て、額で覗込(のぞきこ)む。

 私の窓にも一つ来た。

 と見ると、板戸に(もた)れていた羽織袴が、

「やあ!」

 と耳の(とこ)へ、山高帽を仰向(あおむ)けに脱いで、礼をしたのに続いて、四五人一斉に立った。中には、袴らしい風呂敷包(ふろしきづつみ)(おおき)な懐中に入れて、茶紬(ちゃつむぎ)を着た親仁(おやじ)も居たが――揃って車外の立合に会釈した、いずれも縁女を送って来た連中らしい。

「あのや、あ、ちょっと御挨拶を。」

 とその時まで、肩が痛みはしないかと、見る目も気の毒らしいまで身を緊めた裾模様の紫紺(しこん)――この方が適当であった。前には濃い紫と云ったけれども――肩に手を掛けたのは、近頃流行(はや)る半コオトを幅広に着た、横肥(よこぶと)りのした五十恰好(かっこう)。骨組の(たく)ましい、この女の足袋は、だふついて汚れていた……赤ら顔の片目(めっかち)で、その眇の方をト上へ向けて(しぶ)のついた薄毛の円髷(まるまげ)斜向(はすっかい)に、(あご)引曲(ひんま)げるようにして、嫁御が俯向(うつむ)けの島田からはじめて、室内を白目沢山で、(あぶ)の飛ぶように、じろじろと飛廻しに《みまわ》していたのが、肥った膝で立ちざまにそうして声を掛けた。

       五

 少し(ゆす)るようにした。

 指に平打(ひらうち)黄金(きん)の太く(たく)ましいのを()めていた。

 ()も着かぬが、乳母ではない、(まま)しいなかと見たが、どうも母親に相違あるまい。

 白襟に消えもしそうに、深くさし入れた(おとがい)(かすか)(うなず)いたのが見えて、手を膝にしたまま、肩が(しな)って、緞子(どんす)の帯を胸高にすらりと立ったが、思うに(たが)わず、品の()い、ちと寂しいが美しい、(まぶた)(さっ)と色を染めた、(すすき)の綿に撫子(なでしこ)が咲く。

 ト挨拶をしそうにして、赤ら顔に引添って、前へ出ると、ぐい、と袖を取って引戻されて、ハッと胸で気を()んだ(つま)の崩れに、(さば)いた(くれない)紅糸(べにいと)で白い爪先(つまさき)を、きしと(しき)ったように、そこに駒下駄が留まったのである。

 南無三宝(なむさんぽう)! 私は恥を言おう。露に濡羽(ぬれば)の烏が、月の(かつら)(くわ)えたような、鼈甲(べっこう)照栄(てりは)える、目前(めのさき)の島田の黒髪に、魂を奪われて、あの、その、旅客を忘れた。旅行案内を忘れた。いや、大切な(くだん)の大革鞄を忘れていた。

 何と、その革鞄の口に、紋着(もんつき)の女の袖が(はさま)っていたではないか。

 仕出来(しでか)した、さればこそはじめた。

 私はあえて、この老怪の歯が引啣(ひきくわ)えていたと言おう。……

 いま立ちしなの身じろぎに、少し引かれて、ずるずると出たが、女が留まるとともに、床へは落ちもせず、がしゃりと据った。

 重量(おもみ)が、自然と(つたわ)ったろう、(なび)いた袖を、振返って、横顔で見ながら、女は力なげに、すっともとの座に返って、

「御免なさいまし。」

 と呼吸(いき)の下で云うと、襟の白さが、(さっ)と紫を(おお)うように、はなじろんで顔をうつむけた。

 赤ら顔は見免(みのが)さない。

「お前、どうしたのかねえ。」

 かの男はと見ると、ちょうどその順が来たのかどうか、くしゃくしゃと両手で頭髪(かみ)(かき)しゃなぐる、中折帽も床に落ちた、夢中で(ひんむし)る。

「革鞄に挟った。」

「どうしてな。」

 と二三人立掛ける。

 窓へ、や、えんこらさ、と攀上(よじのぼ)った若いものがある。

 駅夫の長い腕が引払(ひッぱら)った。

 笛は、胡桃(くるみ)を割る駒鳥の声のごとく、山野に響く。

 汽車は猶予(ためら)わず出た。

 一人発奮(はずみ)をくって、のめりかかったので、雪頽(なだれ)を打ったが、それも、赤ら顔の手も(まじ)って、三四人大革鞄に(とり)かかった。

「これは貴方のですか。」

 で、その答も待たずに、口を開けようとするのである。

 なかなかもって、どうして古狸の老武者が、そんな事で()くものか。

「これは堅い、堅い。」

「巌丈な金具じゃええ。」

 それ言わぬ事ではない。

「こりゃ開かぬ、(かぎ)が締まってるんじゃい。」

 と一まず手を引いたのは、茶紬(ちゃつむぎ)親仁(おやじ)で。

 成程、と()めた風で、皆白けて控えた。(あらた)めて、新しく立ちかかったものもあった。

 室内は動揺(どよ)む。嬰児(こども)は泣く。汽車は(とどろ)く。街樹(なみき)は流るる。

「誰の(そそう)じゃい。」

 と赤ら顔はいよいよ赤くなって、例の白目で、じろり、と一ツずつ、女と、男とを見た。

 彼は仰向(あおむ)けに目を(つぶ)った。(まぶた)を掛けて、朱を(そそ)ぐ、――二合(びん)は、帽子とともに倒れていた――そして、しかと腕を(こまぬ)く。

 女は(おとがい)深く、優しらしい眉が前髪に透いて、ただ差俯向(さしうつむ)く。

       六

「この次で下車(おり)るのじゃに。」

 となぜか、わけも知らない娘を(たしな)めるように云って、片目を男にじろりと向け直して、

「何てまあ、馬鹿々々しい。」

 と当着(あてつ)けるように言った。

 が、まだ二人ともなにも言わなかった時、(つれ)と目配せをしながら、赤ら顔の継母(ままおや)(あらた)めて、男の前にわざとらしく小腰、――と云っても大きい――を(かが)めた。

 突如(いきなり)噛着(かみつ)き兼ねない剣幕だったのが、(ひるがえ)ってこの慇懃(いんぎん)な態度に出たのは、人は(すべか)らく渠等(かれら)に対して洋服を着るべきである。

 赤ら顔は悪く切口上で、

「旦那、どちらの(そそう)か存じましないけれども、で、ございますね。飛んだことでございます。この娘は嫁にやります大切な身体(からだ)でございます。はい、鍵をお出し下さいまし、鍵をでございますな、旦那。」

 声が眉間(みけん)を射たように、旅客は苦しげに眉を(ひそ)めながら、

「鍵はありません。」

「ございませんと?……」

「鍵は棄てました。」

 とぶるぶると胴震いをすると、翼を開いたように肩で掻縮(かいちぢ)めた腕組を()と解いて、一度投出(ほうりだ)すごとくばたりと落した。その手で、(ひし)ぐばかり(しか)膝頭(ひざがしら)(つか)んで、呼吸(いき)が切れそうな(せき)を続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。

「ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞取(ききとり)を願いとうございます。(わたくし)は、ここに隣席においでになる、窈窕(ようちょう)たる淑女。」

 彼は窈窕たる淑女と云った。

「この令嬢の袖を、(たもと)をでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。」

 と《みまわ》す目が空ざまに天井に上ずって、

「……申兼ねましたが(わたくし)です。もっともはじめから、もくろんで致したのではありません。袂が革鞄の中に入っていたのは偶然であったのです。

 退屈まぎれに見ておりました旅行案内を、もとへ突込(つっこ)んで、革鞄の口をかしりと(くわ)えさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりと(くび)って、引緊(ひきし)めたと思う手応(てごたえ)がありました。

 真白(まっしろ)(すすき)の穂か、窓へ散込んだ錦葉(もみじ)一葉(ひとは)散際(ちりぎわ)のまだ血も呼吸(いき)も通うのを、引挟(ひっぱさ)んだのかと思ったのは事実であります。

 それが紫に()(かさ)ねた、かくのごとく盛粧(せいしょう)された片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。

 諸君、(わたくし)は謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は(いま)だかつて一度も(わたくし)ごときものに、ただ姿さへ御見せなすった、いや、むしろ見られた事さえお有んなさらない。

 東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、(わたくし)がこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。

 お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。

 いや、ようなんですぐらいだったら、(わたくし)もかような不埒(ふらち)、不心得、失礼なことはいたさなかったろうと思います。

 (たしか)に御縁着きになる。……双方の御親属に向って、御縁女の純潔を(あらた)めて確証いたします。室内の方々も、願わくはこの令嬢のために保証にお立ちを願いたいのです。

 余り唐突な狼藉(ろうぜき)ですから、何かその縁組について、(わたくし)のために、意趣遺恨でもお受けになるような前事が有るかとお思われになっては、なおこの上にも身の置き処がありませんから――」

       七

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