灯明之巻

2話 灯明之巻(2)

6,908字 約14分 2006年5月4日 公開

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 小県凡杯は、はじめて旅をした松島で、着いた晩と、あくる日を降籠(ふりこ)められた。景色は雨に(うず)もれて、(かまど)にくべた生薪(なままき)のいぶったような心地がする。屋根の下の観光は、瑞巌寺(ずいがんじ)の大将、しかも(かため)(にら)まれたくらいのもので、何のために奥州へ出向いたのか分らない。日も、懐中(ふところ)も、切詰めた都合があるから、三日めの朝、旅籠屋(はたごや)を出で立つと、途中から、からりとした上天気。

 奥羽線の松島へ戻る途中、あの筋には妙に豆府屋が多い……と聞く。その油揚が陽炎(かげろう)を軒に立てて、豆府のような白い雲が蒼空(あおぞら)に舞っていた。

 おかしな思出はそれぐらいで、白河近くなるにつれて、東京から来がけには、同じ処で()がふけて、やっぱりざんざ(ぶり)だった、雨の停車場(ステエション)の出はずれに、薄ぼやけた、うどんの行燈(あんどう)。雨脚も白く、真盛(まっさか)りの()の花が波を打って、すぐの田畝(たんぼ)があたかも湖のように拡がって、(かえる)の声が流れていた。これあるがためか、と思ったまで、雨の白河は懐しい。都をば霞とともに出でしかど……一首を読むのに、あの洒落(しゃれ)ものの坊さんが、頭を天日に(さら)したというのを思出す……「意気な人だ。」とうっかり、あみ棚に預けた夏帽子の下で素頭(すこうべ)(たた)くと、小県はひとりで(うっ)かり笑った。ちょっと駅へ下りてみたくなったのだそうである。

 そこで、はじめて気がついたと云うのでは、まことに礼を失するに当る。が、ふとこの城下を離れた、片原というのは、(かれ)の祖先の墳墓の地である。

 海も山も、(ひと)しく遠い。小県凡杯は――北国(ほっこく)の産で、父も母もその処の土となった。が、曾祖、祖父、祖母、なおその一族が、それか、あらぬか、あの雲、あの土の下に眠った事を、昔話のように聞いていた。

 ――家は、もと川越(かわごえ)の藩士である。御存じ……と申出るほどの事もあるまい。石州浜田六万四千石……船つきの(みなと)を抱えて、内福の聞こえのあった松平某氏(なにがし)が、仔細(しさい)あって、ここの片原五万四千石、――遠僻(えんぺき)の荒地に国がえとなった。後に再び川越に転封(てんぽう)され、そのまま幕末に遭遇した、流転の間に落ちこぼれた一藩の人々の遺骨、残骸(ざんがい)が、草に倒れているのである。

 心ばかりの手向(たむけ)をしよう。

 不了簡(ふりょうけん)な、凡杯も、ここで、本名の銑吉(せんきち)となると、妙に心が(あらた)まる。(すす)(つら)も洗おうし、土地の模様も聞こうし……で、駅前の旅館へ便(たよ)った。

「姉さん、風呂には及ばないが、顔が洗いたい。手水(ちょうず)……何、洗面所を教えておくれ。それから、午飯(おひる)を頼む。ざっとでいい。」

 二階座敷で、遅めの午飯を(したた)める間に、様子を聞くと、めざす場所――片原は、五里半、かれこれ六里遠い。――

 鉄道はある、が地方のだし、大分時間が(かか)るらしい。

 自動車の便はたやすく得られて、しかも、旅館の隣が自動車屋だと聞いたから、価値(ねだん)を聞くと、思いのほか(れん)であった。

「早速一台頼んでおくれ。……このちょっとしたものだが、荷物は預けて行きたいと思う。……成るべく、日暮までに帰って、すぐ東京へ立ちたいのだがね、時間の都合で遅くなったら一晩厄介になるとして――勘定はその時と――自動車は、ああ、成程隣りだ。では、世話なしだ、いや、お世話でした。」

 表階子(おもてはしご)を下りかけて、

「ねえさん。」

「へい。」

「片原に、おっこち……こいつ、棚から牡丹餅(ぼたもち)ときこえるか。――恋人でもあったら言伝(ことづけ)を頼まれようかね。」

「いやだ、知りましねえよ、そんげなこと。」

「ああ、自動車屋さん、御苦労です。ところで、料金だが、間違はあるまいね。」

「はい。」

 と(うやうや)しく帽を脱いだ、近頃は地方の方が夏帽になるのが早い。セルロイドの目金(めがね)を掛けている。

「ええ、大割引で勉強をしとるです。で、その、ちょっとあらかじめ御諒解を得ておきたいのですが、お客様が小人数(こにんず)で、車台が透いております場合は、途中、田舎道、あるいは農家から、便宜上、その同乗を求めらるる客人がありますと、御迷惑を願う事になっているのでありますが。」

「ははあ、そんな事だろうと思った。どうもお値段の塩梅(あんばい)がね。」

 女中も帳場も皆笑った。

 ロイドめがねを真円(まんまる)に、運転手は生真面目(きまじめ)で、

「多分の料金をお支払いの上、お客様がですな、一人で買切っておいでになりましても、途中、その同乗を求むるものをたって謝絶いたしますと、独占的ブルジョアの横暴ででもありますかのように、階級意識を刺戟しまして――土地が狭いもんですから――われわれをはじめ、お客様にも、敵意を持たれますというと、何かにつけて、不便宜、不利益であります処から。……は。」

「分りました、ごもっともです。」

「ですが、沿道は、全く人通りが少いのでして、乗合といってもめったにはありません。からして、お客様には、事実、御利益になっておりますのでして。」

「いや、損をしても構いません。妙齢(としごろ)の娘か、年増の別嬪(べっぴん)だと、かえってこっちから願いたいよ。」

「……運転手さん、こちらはね、片原へ恋人に逢いにいらっしゃったんだそうですから。」

 しっぺい返しに、女中にトンと背中を一つ、くらわされて、そのはずみに、ひょいと乗った。元来おもみのある客ではない。

「へい御機嫌よう……お早く、お帰りにどうぞ。」

 番頭の愛想を聞流しに乗って出た。

 (おし)いかな、阿武隈(あぶくま)川の川筋は通らなかった。が、県道へ(かか)って、しばらくすると、道の左右は、一様に青葉して、(こずえ)が深く、枝が茂った。一里ゆき、二里ゆき、三里ゆき、思いのほか、田畑も見えず、ほとんど森林地帯を(はし)る。……

 座席の青いのに、濃い緑が色を合わせて、日の光は、ちらちらと銀の蝶の形して、影も翼も薄青い。

 (じん)()、時々飛々(とびとび)に数えるほどで、自動車の音は高く立ちながら、鳴く()はもとより、ともすると、驚いて飛ぶ鳥の羽音が聞こえた。

 一二軒、また二三軒。山吹、さつきが、淡い(あか)に、薄い黄に、その背戸、垣根に咲くのが、森の中の()があけかかるように目に映ると、同時に、そこに言合せたごとく、人影が(あら)われて、(かど)に立ち、(まがき)に立つ。

 村人よ、里人よ。その姿の、(わだち)の陰にかくれるのが、なごり(おし)いほど、道は次第に寂しい。

 宿に外套(がいとう)を預けて来たのが、不用意だったと思うばかり、小県は、幾度(いくたび)も襟を引合わせ、引合わせしたそうである。

 この森の中を()くような道は、起伏凹凸が少く、(たいら)だった。がしかし、自動車の波動の自然に起るのが、波に揺らるるようで便りない。(ほこり)()たず、雨のあとの樹立(こだち)の下は、もちろん濡色が(はるか)に通っていた。だから、(たま)に行逢う人も、その村の家も、ただ漂々蕩々(とうとう)として陰気な波に揺られて、あとへ、あとへ、漂って消えて()くから、峠の上下(うえした)、並木の往来で、ゆき迎え、また立顧みる、旅人同士とは品かわって、世をかえても再び相逢うすべのないような心細さが身に()みたのであった。

 かあ、かあ、かあ、かあ。

 鈍くて、濁って、うら悲しく、明るいようで、もの陰気で。

「烏がなくなあ。」

「群れておるです。」

 運転手は何を思ったか、口笛を高く吹いて、

「首くくりでもなけりゃいいが、道端の枝に……いやだな。」

 うっかり緩めた把手(ハンドル)に、()と動きを掛けた時である。ものの二三町は瞬く間だ。あたかもその距離の前途(ゆくて)の右側に、真赤(まっか)な人のなりがふらふらと立揚(たちあが)った。天象、地気、草木、この時に当って、人事に属する、赤いものと言えば、読者は直ちに田舎娘の(おば)見舞か、酌婦の道行振(みちゆきぶり)を瞳に描かるるであろう。いや、いや、そうでない。

 そこに、就中(なかんずく)巨大なる杉の根に、揃って、(つくば)っていて、いま一度に立揚ったのであるが、ちらりと見た時は、下草をぬいて燃ゆる躑躅(つつじ)であろう――また人家がある、と可懐(なつか)しかった。

 自動車がハタと留まって、窓を赤く(おお)うまで、むくむくと人数(にんず)が立ちはだかった時も、(ひと)しく、躑躅の根から湧上(わきあが)ったもののように思われた。五人――その四人は少年である。……とし十一二三ばかり。皆真赤なランニング襯衣(しゃつ)で、赤い運動帽子を(かぶ)っている。彼等を率いた頭目らしいのは、独り、年配五十にも余るであろう。脊の高い瘠男(やせおとこ)の、おなじ毛糸の赤襯衣を着込んだのが、()法衣(ころも)らしい、坊主袖の、ぶわぶわするのを上に(まと)って、(すね)を赤色の巻きゲエトル。赤革の靴を穿()き、あまつさえ、リボンでも飾った(さま)に赤木綿の(おおい)を掛け、赤い(きれ)で、みしと包んだヘルメット帽を目深(まぶか)に被った。……

 頤骨(あごぼね)(とが)り、頬がこけ、無性髯(ぶしょうひげ)がざらざらと(あら)く黄味を帯び、その蒼黒(あおぐろ)面色(かおいろ)の、鈎鼻(かぎばな)が尖って、ツンと(たか)く、小鼻ばかり光沢(つや)があって蝋色(ろういろ)に白い。(まなじり)が釣り、目が鋭く、血の筋が走って、そのヘルメット帽の深い下には、すべての形容について、角が生えていそうで不気味に見えた。

 この頭目、赤色(せきしょく)の指導者が、無遠慮に自動車へ入ろうとして、ぎろりと我が銑吉を()て、(むな)さきで、ぎしと骨張った指を組んで合掌した……変だ。が、これが礼らしい。加うるに慇懃(いんぎん)なる会釈だろう。けれども、この恭屈頂礼をされた方は――また勿論されるわけもないが――胸を引掻(ひっか)いて、(はらわた)でも《むし》るのに、引導を渡されでもしたようで、腹へ風が(とお)って、ぞッとした。

 すなわち、手を挙げるでもなし、声を掛けるでもなし、運転手に向ってもまた合掌した。そこで車を留めたが、勿論、拝む癖に傲然(ごうぜん)たる態度であったという。それもあとで聞いたので、小県がぞッとするまで、不思議に不快を感じたのも、赤い闖入者(ちんにゅうしゃ)が、再び合掌して席へ着き、近々と顔を合せてからの事であった。樹から湧こうが、葉から降ろうが、四人の赤い子供を連れた、その意匠、右の趣向の、ちんどん屋……と奥筋でも(とな)うるかどうかは知らない、一種広告隊の、林道を穿(うが)って、赤五点、赤長短、赤大小、点々として顕われたものであろう、と思ったと言うのである。

 が、すぐその間違いが分った。客と、銑吉との間へ入って腰を掛けた、中でも、脊のひょろりと高い、色の白い美童だが、(かん)の虫のせいであろう、……優しい眉と、細い目の、ぴりぴりと昆虫の触角のごとく絶えず動くのが、何の級に属するか分らない、折って畳んだ、猟銃の赤なめしの袋に包んだのを肩に(ななめ)に掛けている。且つこれは、乗込もうとする車の外で、ほかの少年の手から受取って持替えたものであった。そうして、栗鼠(りす)が(註、この篇の談者、小県凡杯は、兎のように、と云ったのであるが、兎は私が贔屓(ひいき)だから、栗鼠にしておく。)後脚(あとあし)で飛ぶごとく、嬉しそうに、()ねつつ飛込んで、腰を掛けても、その、ぴょん、が()まないではずんでいた。

 ――後に、四童、一老が、自動車を辞し去った時は、ずんぐりとして、それは熊のように、色の真黒(まっくろ)な子供が、手がわりに銃を受取ると(ひと)しく、むくむく、もこもこと、踊躍(ようやく)して降りたのを思うと、一具の銃は、一行の名誉と、衿飾(きんしょく)の、旗表(はたじるし)であったらしい。

 猟期は過ぎている。まさか、子供を使って、洋刀(ナイフ)や空気銃の宣伝をするのではあるまい。

 いずれ仔細(しさい)があるであろう。

 ロイドめがねの黒い柄を、耳の(さき)に、?のように、振向いて運転手が、

「どちらですか。」

「ええ処で降りるんじゃ。」

 と威圧するごとくに答えながら、双手を挙げて子供等を制した。栗鼠ばかりでない。あと三個も、補助席二脚へ揉合(もみあ)って乗ると(ひと)しく、肩を組む、頬を合わせる、耳を引張(ひっぱ)る、真赤(まっか)洲浜形(すはまがた)に、鳥打帽を押合って騒いでいたから。

 (いましめ)は顕われ、しつけは見えた。いまその一弾指のもとに、子供等は、ひっそりとして、エンジンの音立処(たちどころ)に高く響くあるのみ。その(しずか)さは小県ただ一人の時よりも寂然(ひっそり)とした。

 なぜか息苦しい。

 赤い客は(しわぶき)一つしないのである。

 小県は窓を開放って、立続(たてつ)けて巻莨(まきたばこ)を吹かした。

 しかし、硝子(がらす)を飛び、風に()いて、うしろざまに、緑林に(なび)く煙は、我が単衣(ひとえ)の紺のかすりになって散らずして、かえって一抹(いちまつ)赤気(せっき)(はら)んで、異類異形に乱れたのである。

「きみ、きみ、まだなかなかかい。」

「屋根が見えるでしょう――白壁が見えました。」

「留まれ。」

 その町の端頭(はずれ)と思う、林道の入口の右側の角に当る……人は()まぬらしい、壊屋(こわれや)の横羽目に、乾草(ほしくさ)粗朶(そだ)(うずたか)い。その上に、(おし)むべし杉の酒林(さかばやし)の落ちて転んだのが見える、(わき)がすぐ空地の、草の上へ、赤い子供の四人が出て、きちんと並ぶと、緋の法衣(ころも)の脊高が、枯れた杉の木の(ゆら)ぐごとく、すくすくと通るに従って、一列に直って、裏の山へ、夏草の(こみち)を縫って()く――この時だ。一番あとのずんぐり童子が、銃を(にな)った嬉しさだろう、真赤な(おおき)(しり)を、むくむくと振って、肩で踊って、

「わあい。」

 と馬鹿調子のどら声を放す。

 ひょろ長い美少年が、

「おうい。」

 と途轍(とてつ)もない奇声を揚げた。

 同時に、うしろ向きの赤い袖が(ひるがえ)って、頭目は(てのひら)を口に当てた、声を(おさ)えたのではない、笛を含んだらしい。ヒュウ、ヒュウと響くと、たちまち(しずか)に、粛々として続いて()く。

 すぐに、山の根に取着いた。が草深い雑木の根を、縦に貫く一列は、殿(しんがり)の尾の、ずんぐり、ぶつりとした大赤楝蛇(おおやまかがし)(うね)るようで、あのヘルメットが鎌首によく似ている。

 見る間に、山腹の真黒(まっくろ)一叢(ひとむら)竹藪(たけやぶ)(くぐ)って隠れた時、

「やーい。」

「おーい。」

 ヒュウ、ヒュウと(かすか)に聞こえた。なぜか、その笛に魅せられて、少年等が、別の世、別の都、別の町、あやしきかくれ里へ(さら)われて()きそうで、悪酒に酔ったように、凡杯の胸は(ふさが)った。

 自動車たるべきものが、スピイドを何とした。

 茫然(ぼうぜん)とした(さま)して、運転手が、汚れた手袋の指の破れたのを(じっ)()ている。――掌に、銀貨が五六枚、キラキラと光ったのであった。

「――お爺さん、何だろうね。」

「…………」

「私も、運転手も、現に見たんだが。」

「さればなす……」

 と、爺さんは、粉煙草(こなたばこ)を、三度ばかりに火皿の大きなのに(つま)み入れた。

 ……根太の抜けた、荒寺の庫裡(くり)に、炉の縁で。……

       三

 西明寺(さいみょうじ)――もとこの寺は、松平氏が旧領石州から奉搬の伝来で、土地の町村に檀家(だんか)がない。従って盆暮のつけ届け、早い話がおとむらい一つない。如法(にょほう)の貧地で、堂も庫裡も荒れ放題。いずれ旧藩中ばかりの石碑だが、(こけ)()かねば、紋も分らぬ。その墓地の図面と、過去帳は、和尚が大切にしているが、あいにく留守。……

 墓参のよしを聴いて爺さんが言ったのである。

「ほか寺の仏事の手伝いやら托鉢(たくはつ)やらで、こちとら同様、細い煙を立てていなさるでなす。」

 あいにく留守だが、そこは雲水、風の加減で、ふわりと帰る事もあろう。

「まあ一服さっせえまし、和尚様とは親類づきあい、渋茶をいれて進ぜますで。」

 とにかく、いい人に逢った。爺さんは、旧藩士ででもあんなさるかと聞くと、

「孫八とこいて、いやはや、若い時から、やくざでがしての。縁は異なもの、はッはッはッ。お前様、曾祖父様(ひいじいさま)や、祖父様の背戸畑で、落穂を拾った事もあんべい。――鼠棚(ねずみだな)捜いて麦こがしでも進ぜますだ。」

 ともなわれて庫裡に()る――奥州片原の土地の名も、この荒寺では、鼠棚がふさわしい。いたずらものが勝手に出入(ではい)りをしそうな虫くい棚の上に、さっきから古木魚が一つあった。音も、形も馴染(なじみ)のものだが、仏具だから、俗家の小県は幼いいたずら時にもまだ持って見たことがない。手頃なのは大抵想像は付くけれども、かこみほとんど二尺、これだけの大きさだと、どのくらい重量(めかた)があろうか。普通は、本堂に、香華(こうげ)の花と、香の(におい)と明滅する処に、章魚(たこ)胡坐(あぐら)で構えていて、おどかして言えば、海坊主の坐禅のごとし。……辻の地蔵尊の涎掛(よだれかけ)をはぎ合わせたような蒲団(ふとん)が敷いてある。ところを、大木魚の下に、ヒヤリと目に涼しい、薄色の、一目見て(まが)う方なき女持ちの提紙入(ハンドバック)で。白い桔梗(ききょう)と、水紅色(ときいろ)常夏(とこなつ)、と思ったのが、その二色(ふたいろ)の、花の鉄線かずらを刺繍(ししゅう)した、銀座むきの至極当世な持もので、花はきりりとしているが、葉も(つる)も弱々しく、中のものも角ばらず、なよなよと、木魚の下すべりに、優しい女の、帯の端を引伏せられたように見えるのであった。

 はじめ小県が、ここの崖を、墓地へ下りる以前に、寺の庫裡を(のぞ)いた時、人気(ひとけ)も、火の気もない、炉の(そば)に一段高く破れ落ちた壁の穴の前に、この帯らしいものを見つけて、うつくしい女の、その腰は、袖は、あらわな白い肩は、壁外に(さかさ)になって、蜘蛛(くも)の巣がらみに、蒼白(あおじろ)くくくられてでもいそうに思った。

 瞬間の幻視である。手提(てさげ)はすぐ分った。が、この荒寺、思いのほか、陰寂な無人(ぶじん)僻地(へきち)で――頼もう――を我が耳で聞返したほどであったから。……

私の隣の松さんは、熊野へ参ると、髪()うて、

熊野の道で日が暮れて、

あと見りゃ(おそろ)しい、先見りゃこわい。

先の河原で宿取ろか、跡の河原で宿取ろか。

さきの河原で宿取って、(なまず)が出て、押えて、

手で取りゃ可愛いし、足で取りゃ可愛いし、

杓子(しゃくし)ですくうて、線香(せんこ)(にな)って、燈心で(くく)って、

仏様のうしろで、一切(ひときれ)食や、うまし、二切食や、うまし……

 紀州の毬唄(まりうた)で、隠微な残虐(ざんぎゃく)の暗示がある。むかし、熊野(もうで)の山道に行暮れて、古寺に宿を借りた、若い娘が燈心で括って線香で担って、鯰を食べたのではない。鯰の方が若い娘を、……あとは言わずとも()かろう。例証は、遠く、今昔物語、詣鳥部寺女の(はなし)にある、と小県はかねて聞いていた。

 紀州を尋ねるまでもなかろう。

……今年はじめて花見に出たら、寺の和尚に抱きとめられて、

高い縁から突落されて、(こうがい)落し、小枕(こまくら)落し……

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