畸形の天女

1話

4,486字 約9分 2026年7月28日 公開

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 宮城貿易商社々長、宮城圭助は、客の商談を熱心に聴いている顔をしながら、映画の二重写しのような感じで、まったく別のことを考えていた。

 何ヵ月もつづいて同じ場所を夢見ることがある。きょうもまた、あすこへ行くんだなと思うと、きっと、その同じ陰欝な、しかしふしぎな魅力のある場所へ来ている。何か怖いものが待ちかまえているような気がするけれども、それが出てくるわけではない。そして、どんな現実の場所よりも懐かしい。まるで母の胎内のように懐かしい。

 宮城圭助は、そういう懐かしい夢と同じものを人為的に作っていた。きょうはその夢の国に遊ぶ日であった。夢の国には「畸形の天女」がいる。彼女との逢う瀬を思うと、矢も盾もたまらない。四十五歳の商社々長の彼が、青年のように、矢も盾もたまらなかった。

 歯の質が弱いということは、その人間の犯罪的性格と何か因果関係があるのだろうか。宮城圭助は、いつもそれを考えた。彼が自由気儘な夢の世界を作り出すことができるのは、彼の歯が、手におえない虫歯だったからだ。そして、数年前から、総入れ歯になっていたからだ。

 客は、額に青筋を立てて、弁じつづけていたが、やっと話しおわると、

「そういうわけです。一つ好意あるご考慮を願いたい。僕の方では、社の浮沈に関する問題ですからね」

 と、宮城社長に哀願の眼を向けた。

「わかりました。できるだけ、ご希望に添うように考えてみます。よく相談して、二、三日うちに、こちらから、お電話しますから」

 立ちあがって、客を見送る用意をした。客はちょっと失望の色を見せたが、丁寧に挨拶して、もう一度哀願の目遣いをして、社長室を出て行った。

 宮城圭助は、それを見送ると、今の商談をまったく忘れ去ることにきめた。すべてを記憶していたのでは仕事ができない。覚えておくことと、忘れてしまうことを機敏に判断して区別けするのが、彼の商売上の習慣であった。

 それから、隅の席にいるタイピストに、簡単な手紙を三通ほど口述して、帽子掛けの前に行った。そこの鏡で、赤い糸のまじった派手なネクタイを、ちょっといじくり、目がねをかけなおしてから、合オーバーに手を通し、ソフトの前とうしろを両手で持って、丁寧にかむった。それから、デスクにもどって、一ばん下の大引出しから、ひどく大きな書類鞄を取り出して、大事そうに小脇にかかえた。宮城社長の大鞄は有名だった。彼の唯一の道楽は古本蒐集で、ひまさえあれば古本屋あさりをやった。そのとき次々と買い求めた古本を入れるための大鞄なのだ。社員や彼の友人は、その鞄の中にぎっしりつまった、珍らしい和本などを、自慢らしく見せつけられることが、よくあった。

 彼は、おじぎしているタイピストに、右手をあげて挨拶して、社長室のドアをひらいた。社員たちは、まだ仕事をしていた。机にかじりついているもの、電話で話しているもの、今そとから帰って鞄の中の書類を取り出しているもの、タバコのけむりをもうもうと漂わせながら立ち話ししているもの、全体に活気にみちていた。宮城社長は、そのあいだを、ニコニコして、おじぎをする社員に右手で挨拶を返しながら、出口の方へ歩いて行った。ボーイのひとりが駈け出してきて、ドアをひらいた。べつに社員たちに言いのこすこともなかった。宮城貿易商社はアメリカのスコット商会とうまくやっているので、この不況時代にも、社運は上昇線をたどっていた。

 ビルの石段をおりると、運転手がキャディラックのドアをひらいて待っていた。

「東京会館」

 ここで中学の同窓が五、六人集まるということにしてあった。どうせ二次会になるから、おそくなるかもしれないと、家には言いおいてある。夜の一時頃までに帰宅すれば、別状はないはずだ。

 呉服橋の社からは、五分もかからなかった。

「今夜はおそくなるかもしれないと、奥さんに言っておいてくれたまえ。じゃあ、これで、君は帰ってもいい」

 圭助は車をおりて、東京会館のグリルで簡単な食事をとった。そして、そこを出ると、通りかかった中型タクシーを呼びとめて乗りこんだ。

「上野駅」

 ボロタクシーは、ひどく振動したが、これからの楽しみを思えば、少しぐらいの不愉快は問題でなかった。車が走っているうちに、彼はソフトをぬいで、ほそく折りたたみ、鞄に入れた。そして、鞄の中からハンチングを取り出して冠った。車の中では、それ以上のことはしなかった。

 車をおりると、上野駅にはいって行った。彼は複雑な迷路のような上野駅の、こみ合っている群集の中を、わざと選んだ。迷路をグルグル廻ってから、人の少ない手洗所にはいった。そして、十分ほどして、出てきたときには、彼はまったくの別人になっていた。松永昌吉というのが、これからの彼の名前であった。

 変装の種は、古本蒐集用の鞄の中に、そろっていた。今まで着ていたオーバーや、背広や、ワイシャツ、ネクタイ、靴下、靴にいたるまで、鞄の中におしこみ、あらかじめそこに入れてあった別の服装と着更えたのだ。

 襟のあぶらじんだ、肘のすれて光った紺サージの背広、ワイシャツはなくて、赤茶色の太い横縞のセーター、折り目のない薄よごれた綿ギャバジンのズボン、赤黒いドタ靴、頭には、さっきのハンチング。そのハンチングの下から、なんだか黒い鉢巻のようなものが見えていた。

 夢の国にはいるのには、それだけでは足りなかった。彼は顔を変えなければならなかった。一と組の義歯。すべてがここから出発していた。彼は一年ほど前、総入れ歯がいたんだので、別の歯科医に新らしいのを作らせた。それを入れて鏡を見ると、自分の相好が変わっているのに気づいた。家内のものもそのように言った。前の入れ歯に比べて、歯の植え方が少しちがっていて、いくらか出っ歯になっていたからだ。その鏡の顔をつくづくながめているうちに、彼は大発見をしたような気持になった。歯の植え方をずっとちがえて、いろいろ工夫をこらせば、別人になれるかもしれない。すると、誰かに聞いた上山草人のことが思い出された。草人も総入れ歯だった。彼がその昔、ハリウッドで、怪奇な役々を演じた時には、役ごとに、別の入れ歯をはめて効果を出した。草人がアメリカで、あれほど有名になったのは、総入れ歯のお蔭だという説であった。圭助も子供の頃、草人の出るアメリカ映画を幾つか見た。そして、役ごとに、彼の容貌が一変するのに驚いた記憶がある。

 その時圭助は、夢の国を作り出す下心を、すでに持っていた。彼が謹直居士で通っていたのは、生来、気が弱くて、恥かしがりやだったからだ。彼のおしゃれも、実はここに由来していた。家族や世間への気兼ねからくる抑制が、絶えず彼をしめつけていた。破りたくても、彼の性格では破ることができなかった。もし世間にまったく知られないで、これを破るすべがあったら! 抑圧が強いだけに、その願望も烈しかった。ジーキル博士が、心の底でハイドの生活にあこがれるように、それをあこがれていた。入れ歯による容貌の変化という大発見が、いま彼の心の中で、この多年のあこがれに結びついた。

 それから間もなく、彼は遠方の歯科医に、変名で通よって、変装用義歯を作らせることに成功した。新劇の俳優と称し、舞台顔を変えるためだといつわった。そして、何度も作り直させ、やっと思う形のものが出来上がった。それは二度目の義歯よりも、ずっと出っ歯になっていた。歯の色も黄色くし、はぐきも黒ずんだ色に作らせ、その上、上下の義歯のふくらみによって、頬の形が変わるように工夫した。それをはめて鏡を見ると、顔の下半分が一変して見えた。その上、眉と眼になんとか工夫すれば、宮城圭助はまったく消えうせてしまうにちがいないと思った。

 彼は江戸川乱歩の随筆で、アメリカの「大統領探偵小説」の筋を読んだことがある。それは整形外科手術によって、容貌を一変させて生れ変わる話であった。乱歩は、この生れ変わりたい心理は万人通有のもので、「隠れ蓑願望」と呼ぶべきだと書いていた。圭助は異常の興味をもって繰り返し読んだ。だが、圭助の場合は、宮城商社の社長をやめたいのではない。また妻子と離れたいのでもない。ある一定の時間、まったく抑制から解放されて、ハイドになり、それが絶対に世間に知られなければよいのであった。夢を見ればよいのであった。そういう彼の立場から、「大統領探偵小説」の中で参考になるのは、瞼の中へ入れてしまう合成樹脂の目がねであった。あれを使えば、虹彩(こうさい)の大きさと色を自由に変えることができる。知り合いの眼科医に尋ねてみると、それはアメリカでは実用化されているらしいが、日本にはまだないということであった。アメリカに註文するにしても眼球の彎曲度を計らなければならないので、事面倒であった。圭助は、そんな小細工はしない方がいい、もっと簡単なことがあると考えた。

 彼は近眼鏡をかけていた。それも縁の太い特徴のある目がねであった。これを取り去って鏡を見ると、なんだかショボショボした別人の眼のように見えた。それだけでもいくらか相好が変わるのだが、彼はその上に、煤煙で瞼や目尻に目立たない隈をつけた。そのほか昼間近くで見られても、化粧とわからないような化粧を、顔の各所にほどこした。更らに、仕上げとして、彼は目尻を少しつり上げる工夫を加わえた。役者の鬘下地(かつらしたじ)の応用だ。黒い絹でナイト・キャップを作り、その内がわへ、帽子の鬢皮のように、薄い銅の帯を入れ、両方のコメカミを圧えつけるようにした。それで眉と目尻を、つりあげておくことができた。彼は眉も目尻もいくらか下がり気味だったので、つり上げると大体一直線になり、相好が変わった。ナイト・キャップなれば、どんな場合にもぬがなくてすむ。質問されたら、頭に醜い傷があるからだと答えておけばよい。そして、その上から、古ぼけたハンチングをかぶることにした。

 これだけの変装を十分間ですませるのには、相当の練習を要したが、今ではもう慣れっこになっていた。それを汚ならしい駅の手洗所などでやるというのは、日頃の贅沢でおしゃれな彼の趣味からは想像もできないことだったが、人間が入れ替わるのだから、宮城の趣味とはまったく逆の手段をとることが、かえってふさわしかった。彼は夢の国にはいるためなら、どんなことでもやる気だった。ひそかにアパートを借りておいて、そこで変装するなんて、ちょろっこい考えでは、ほんとうの人間入れ替わりなど、できるものではなかった。

 宮城圭助を抹殺し、生れ替わった松永昌吉となって手洗所を出た彼は、駅の荷物預り所に行って、大鞄に鍵をかけて預けてから、今度は小型タクシーを探して乗りこんだ。それが彼の服装にふさわしかったからだ。

「南千住の駅の近く」

 車の振動は一そうはげしかった。しかし、夢の国の入口に近づいているのだと思えば、なんでもなかった。ジーキル博士はハイド氏に一変したのだ。もうお上品な趣味とは縁を切ったのだ。どんな乱暴にも耐えられるし、どんな恥さらしだって平気でやれるのだ。

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