11話 十一
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正太は潜りを明けて、ばあと言ひながら顏を出すに、人は二三軒先の軒下をたどりて、ぽつ/\と行く後影、誰れ誰れだ、おいお這入よと聲をかけて、美登利が足駄を突かけばきに、降る雨を厭はず驅け出さんとせしが、あゝ彼奴だと一ト言、振かへつて、美登利さん呼んだつても來はしないよ、一件だもの、と自分の頭を丸めて見せぬ。
信さんかへ、と受けて、嫌やな坊主つたら無い、屹度筆か何か買ひに來たのだけれど、私たちが居るものだから立聞きをして歸つたのであらう、意地惡るの、根生まがりの、ひねつこびれの、吃りの、齒かけの、嫌やな奴め、這入つて來たら散々と窘めてやる物を、歸つたは惜しい事をした、どれ下駄をお貸し、一寸見てやる、とて正太に代つて顏を出せば軒の雨だれ前髮に落ちて、おゝ氣味が惡るいと首を縮めながら、四五軒先の瓦斯燈の下を大黒傘肩にして少しうつむいて居るらしくとぼ/\と歩む信如の後かげ、何時までも、何時までも、何時までも見送るに、美登利さん何うしたの、と正太は怪しがりて背中をつゝきぬ。
何うもしない、と氣の無い返事をして、上へあがつて細螺を數へながら、本當に嫌やな小僧とつては無い、表向きに威張つた喧嘩は出來もしないで、温順しさうな顏ばかりして、根生がくす/\して居るのだもの憎くらしからうでは無いか、家の母さんが言ふて居たつけ、瓦落/\して居る者は心が好いのだと、夫れだからくす/\して居る信さん何かは心が惡るいに相違ない、ねへ正太さん左樣であらう、と口を極めて信如の事を惡く言へば、夫れでも龍華寺はまだ物が解つて居るよ、長吉と來たら彼れははやと、生意氣に大人の口を眞似れば、お廢しよ正太さん、子供の癖にませた樣でをかしい、お前は餘つぽど剽輕ものだね、とて美登利は正太の頬をつゝいて、其眞面目がほはと笑ひこけるに、己らだつても最少し經てば大人になるのだ、蒲田屋の旦那のやうに角袖外套か何か着てね、祖母さんが仕舞つて置く金時計を貰つて、そして指輪もこしらへて、卷煙草を吸つて、履く物は何が宜からうな、己らは下駄より雪駄が好きだから、三枚裏にして繻珍の鼻緒といふのを履くよ、似合ふだらうかと言へば、美登利はくす/\笑ひながら、背の低い人が角袖外套に雪駄ばき、まあ何んなにか可笑しからう、目藥の瓶が歩くやうであらうと誹すに、馬鹿を言つて居らあ、それまでには己らだつて大きく成るさ、此樣な小つぽけでは居ないと威張るに、夫れではまだ何時の事だか知れはしない、天井の鼠があれ御覽、と指をさすに、筆やの女房を始めとして座にある者みな笑ひころげぬ。
正太は一人眞面目に成りて例の目の玉ぐる/\とさせながら、美登利さんは冗談にして居るのだね、誰れだつて大人に成らぬ者は無いに、己らの言ふが何故をかしからう、奇麗な嫁さんを貰つて連れて歩くやうに成るのだがなあ、己らは何でも奇麗のが好きだから、煎餅やのお福のやうな痘痕づらや、薪やのお出額のやうなが萬一來ようなら、直さま追出して家へは入れて遣らないや、己らは痘痕と濕つかきは大嫌ひと力を入れるに、主人の女は吹出して、それでも正さん宜く私が店へ來て下さるの、伯母さんの痘痕は見えぬかえと笑ふに、夫れでもお前は年寄りだもの、己らの言ふのは嫁さんの事さ、年寄りは何でも宜いとあるに、夫れは大失敗だねと筆やの女房おもしろづくに御機嫌を取りぬ。
町内で顏の好いのは花屋のお六さんに、水菓子やの喜いさん、夫れよりも、夫れよりもずんと好いはお前の隣に据つてお出なさるのなれど、正太さんはまあ誰れにしようと極めてあるえ、お六さんの眼つきか、喜いさんの清元か、まあ何れをえ、と問はれて、正太顏を赤くして、何だお六づらや、喜い公、何處が好い者かと釣りらんぷの下を少し居退きて、壁際の方へと尻込みをすれば、それでは美登利さんが好いのであらう、さう極めて御座んすの、と圖星をさゝれて、そんな事を知る物か、何だ其樣な事、とくるり後を向いて壁の腰ばりを指でたゝきながら、廻れ/\水車を小音に唱ひ出す、美登利は衆人の細螺を集めて、さあ最う一度はじめからと、これは顏をも赤らめざりき。